ただ一つわかるのは

 モリトはゆっくりと死体を見た。手に持っていた瓦礫の破片を投げれば上半身がぐちゃりと潰れて動かなくなる。  うめき声と腐った体から除くピンク色の肉片は時々動いていた。筋肉だろうか。  死体の強烈な匂いはいつまで経っても慣れない。 「神木の根元へ急げ! 速く!!」 「きゃああああ!!」  周囲には事切れた死体が積み重なり、それすらも死霊術士の手によって屍の兵へと変わっていく。 「ダグラス、待ち合わせの場所がわからなくなっちゃったね」 「二人ともお強いですよ。大丈夫です」  ダグラスもまた、鉄の長い棒きれで屍の兵を倒している。  終わりのない地獄に入り込んだようだった。空は紫色に変色し世界を覆い尽くそうとしている。  結界は完全にその機能を失っていた。  残っている神木は数えるほど。それが寂しく胸を刺す。 「ランダ。何を手間取っている……はて、久しぶりに見る顔だ」  ぎくりとして振り返ったエウリュアレーは震えながら見覚えのある悪魔の名を呼ぶ。 「シュマ……あなたが、なぜここに居るのです」 「エディヴァルへ最終決戦を仕掛けているところでな」  米神からから生えた二本の角。シュマはもこもことした髪をなで付ける。足下から立ち上る覇気はエウリュアレーを萎縮させた。 「お前こそ何をしている。唐突に軍から消えた希代の詐欺師よ」  敵も味方も欺いて、最後は口先だけで勝利をもぎ取る。欺瞞の悪魔エウリュアレー。  かつての二つ名を揶揄されて、ますます顔を顰めた彼女をシュマは笑う。  と、その視線が横に流れ、彼はニタリと微笑んだ。 「おお殿下。お久しぶりです。覇気のないお姿は健在のようだ。陛下が見ればさぞお喜びになるだろう。エウリュアレー、臆病者のお前には同類の主がお似合いだな」 「言いたいことはそれだけか」  フードの下から冷め切った視線を投げかければ「殿下は変わらないようだ」とシュマは肩をすくめる。 「ランダ、ここは私が引き受けてやる。お前はディアボラを確実に、殺せ」 「承知ッス」  杖を突けば足下から浮かび上がるように巨鳥が現れ、ランダは飛び乗った。吹き飛ばされたディアボラは遙か彼方でレヴァナントと抗戦している。  行ったのを見届けたシュマは無造作に振り上げた手の平に、複雑な文様を浮かび上がらせる。いくつもの六角形の円柱が交差するように円を創り紫色に瞬いた刹那――モリトは両手を掲げエウリュアレーの前に立った。 「やめろ!!」  咄嗟に殿下が腕を伸ばすが間に合わない。  モリトの瞳が真緑に輝き背中の紋章が発光する。  骨まで焼き潰す紫の炎が吹き荒れ、モリトと彼女を覆い隠した。  思わずダグラスは顔を庇い、炎が晴れると、ちょっとげっそりしたモリトがブスくれている。 「あついよ!」 「原種か?」  モリトを覆う薄い膜が二人を守っている。結界だ。  シュマは目を見開いた。 「はは! 今日は良き日だ。無いとされていた実が目の前にあるとは! お前を囓ればどれほどの力が得られるだろうか?」 「おじさん、ボクを囓りたいの……?」 「……だからやめろと言ったのだが」  片手で顔の半分を多い、殿下は嘆息する。  シュマの目は欲望にぎらぎらと輝いている。 「そうかお前、その実を食すためにこちらに来ていたのか」 「ッ違います」  「まぁよい」と呟く悪魔を見上げながら、モリトは言った。 「ねぇ、殿下。ボクと賭をしよう」 「こんなときに何を――」 「こんな時だからこそだよ。あなたが魔王を倒したら、ボクはあなたのものだ。好きに食べるのでも何でもいいよ。そのかわり――」 「止めてくださいっ!」  ダグラスは思わず叫んだ。 「どうして自分を蔑ろにするような事を言うのです。何を言っているかおわかりではないのですかっ!」 「ボクはしたいことをしているだけだよ」 「いいえ誰かのためです! どうして逃げてくださらない」 「……ダグラス?」  戸惑うモリトにたたみかけるように、ダグラスは懇願した。 「本当の願いを言ってください。今のあなたが真実願っていることを。本当に思っていることをっ!」  ゆっくりと目を見開いていくモリトの頬に手を添え、黒猫は懺悔をするように膝を突いた。大粒の涙をこぼしている。 「僕は弱い、あなたを守れないかもしれない。頼りなく一瞬で死ぬかもしれないですが、あなたを守りたいと願っています。この無力さを恥じ力があればと嘆いています。ですがどうか頼ってください」 「――怖いよ。本当は怖いんだ」  モリトの唇は震えている。 「ボクは皆に幸せになってほしかった。とくに、ハルに笑ってほしかった。でも誰もが違う理想と欲望を持って生きている。この国はボクの未来だった。今、神木は半分以上滅んでしまって、悪魔はエディヴァルにやってきてしまった。これを修めるにはどうしたらいいんだろう。わからなくて不安だよ。でも、誰かが短命種を、神木を、悪魔をまとめて終わらせなければならない。どの種が滅んでもいけないよ」  だから、欲しい物をあげる。  あげるから喧嘩しないで。 「ダグラス。幸せになりたいよ」  明日を笑い過去を思い他者を慈しみ眠れぬ夜に温かい手が差し伸べられ、微笑む日々。  そんな現実が欲しかった。 「助けて」  ダグラスは怖いよ、と泣く幼子に破顔して、 「あなたの願いを叶えるために、すべきことはたった一つですよ」 「それは、なぁに?」 「信じてください。彼女もカリオンさんもきっとあなたの幸せを願っています。そして僕らの仲間を信じてください。我らヘリガバーム教団は神木を守るために設立されました」  目の縁を赤くしたモリト。こんもりと涙が盛り上がっている。  いつだってダグラスには神に作り出された彼らの心がわからなかった。でも、もしかしたらわかる必要など無いのかもしれない。  懐から取り出した水晶を砕く。中に仕込まれていた魔術が発動した。  真緑の光りが辺りを一瞬にして染め上げた。  ほんの少しだけ昔の話。  七人の友が密偵として放たれた。  一人は志半ばで死に、一人は病で、一人は道中で、一人は間者とばれて殺された。  一人は情報を掴んだ時に、二人は帰郷の最中に死亡して――  それでもつなぎ止めた情報が、今を救うはずだ。 「ダグラス?」  緑の光りが収まれば教団の紋章が炎に照らされ鮮やかに翻る。彼はダグラスを見つめ「ふむ」と続ける。 「状況の説明を」  彼の後ろにはあっけにとられた黒い長衣の集団が咄嗟に詠唱と武器を抜き放つ。 「ここはロストロ――エイディです。猊下、巫を泣かせたあの悪魔達に制裁を」  よろしい、と彼は重々しく頷いて、 「ちょうど準備が整った所だった」  杖先が地面を打つ。  と―― 「――なんじゃぁ。強い魔術の波動を感じたと思うたら」  はっと見上げれば、頭上に蝙蝠の羽を広げ、真っ黒な髪と目を持ち、雪のように白い肌をした少女。  彼女は裂くように唇を釣り上げ上空から飛び降りた。大鎌を振りあげる。 「おお兄者、壮健のようで何よりじゃ」  その変わらない姿にぞっと震えたのは誰だったのか。  彼女は幼い容姿に似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべ踏み出す。 「シュマ、お前は教団の雑兵を。ランダはディアボラを追え。妾は――兄者を殺すとしようかの!」 「――パティっ」  振り下ろされた大釜を咄嗟に胴の剣で受け止める。だが、一瞬にしてひび割れ砕けちった。  咄嗟に得物を放り右足を繰り出せば半歩分身をひねったシティパティは難なく避ける。  魔王は歓喜に絶叫した。 「妾はこの時を長きにわたり待っていたぞ!!」 「殿下!」  エウリュアレーが咄嗟に投げた剣を避け様に受け取り突き出す。大釜の柄を地面に立てた魔王はそれを軸に宙返り。着地と同時に後ろ足が地面をえぐり、肉薄する。  鎌の先と剣の柄がこすれる耳障りな音が響く。 「パティ、止めてくれ!」 「やめる必要がどこにある?」 「家族なんだぞっ」 「同じ腹から出ただけの他人に情を持つなど笑止!」  つまらなさそうに吐き捨て蹴り上げる。後退した殿下は舌打ち混じりにかがみ込む。草を刈るように振るわれた鎌。それが翻るより先に五本の指が地面についた。鍵をひねるように半回転させれば紫の光りが指の後を追い、巨大な盾が出現する。  盾は細長く先が尖り、円に草木が絡みつき、王冠のモチーフが刻まれている。高位悪魔の証。 「エリュ、お前は下がれ!」 「しかし殿下!」 「下がれと言っている!」 「――ふむ、それはできない相談でしてな」  足下に浮かんだ幾多模様に咄嗟に飛び退けば紫色の炎が噴き出した。目を灼くような熱気が辺りを包み込み、噴き出した彼女の汗も一瞬で蒸発させる。  ダルドは首をかしげた。 「ダグラス、状況を説明しろ。誰が敵だ」 「あの二人の悪魔以外、敵と見なしてかまいません」 「第一から第五隊は右辺周り撃退を。敵は殲滅、生き残りを探せ! 残りは私と共に羊頭の相手だ」 「ふぅむ。どうやら安く見られたものですな。――ランダ、何をしている。陛下のご命令だ。ディアボラを追え」 「へぁっ。はいッス!」  やれやれと退屈そうに肩をすくめたシュマは目を細める。 ★★★ 「パティ……兵を引いてくれ」 「その不抜けた根性は何億年経とうと直らないようじゃな。もうよい」  振り上げた大釜に釣られるように、スカートのすそが翻る。 「エディヴァルは妾の領土となり、悪魔は栄え全てを飲み込む。その中に兄者はいらぬ。塵芥と成り果てて、無様に消えるが似合いじゃ。まぁ最初から数には入っていなかったがの」  シティパティの目に愉悦が浮かび、それを苦く見つめる。 「何もかもを壊すことしかしないお前にエディヴァルに住まう資格は無い! ここは魔界と違い、神が座して見下ろす世界だ。神はお前の存在を許さないぞ」 「馬鹿げたことを! 神が何をすると言うのじゃ。退屈を嫌い余興を求め、永久の時を生きる神々が、妾を罰する事などありはしない」 「奪い殺し、何もかも台無しにするのは悪い事だ。神人の言葉を思い出せ。お前だって誰かと一緒がいいだろう!」 「いいや、そんな事はない。妾は殺戮が好きじゃ。大好きじゃ! 力なき者が無残に殺されるのを見るのは震えるほどの快感が走る。生まれたばかりの赤子が力を蓄える間もなくチーズのように引き延ばされて死ぬのも好きじゃ。誇り高き戦士が大切な村々を守れず絶望する表情は何度味わってもたまらない。足をもがれて害虫のように這いずるしかなくなった者達をゆっくり殺してやる事は時々物足りなさを覚える。強者と嘯く輩を叩きのめし屈辱に顔を歪ませるのは例えようも無いほど楽しい。大軍で国を蹂躙するのは蟻を水攻めにしているようで面白い。浮き上がったところを一匹ずつ潰すのもよいものじゃ。血の滴る大地のかぐわしいこと。屍が増えれば妾の力も強くなる。墓場の下で溜まる怨嗟が噴き出す様は虹よりも美しい。かつて愛した者が死兵になったときの女の顔には絶頂すら覚える。生きようとあがく者の魂はなぜあれほど美しいのか。その後に虚ろとなって屍をさらしている姿は悲しいものじゃ。何度でも見たい。弱き者が淘汰されるときの、守られないと悟った表情こそ、生き物の最も愛らしい表情じゃと思う。妾はそれらを見るのが好きじゃ。たまらなく愛しておる」 「お前は狂ってる、パティ……! もし争いがいいことなら、思考の一欠片だって必要ない。理性も、脳も必要ないんだ」 「陳腐な台詞じゃ。いずれ死ぬならば今殺したとて変わりない。争いに脳みそがいらぬとな? 脳があるからこそ、こうして戦えるのじゃ! 戯れ言じゃ。古代より我らは争って生きてきた。兄者こそが異端である!」 「壊して崩して、最期には何も無くなるじゃないか! それを止めることが異端なわけがない!」 「ならば見るがいい、本当の神の意志を!」  斬撃から逃げ続けていた殿下はシティパティがくるりと大鎌の先を天に向けるのを見た。  なにをするつもりだ、と身構えた刹那―― 「妾の命を賭け、必ずこの地上にある全ての者達を殺し尽くすと誓おうぞ!」  刹那、規律が宣言を以て、魂を縛り付けた。  絶句した彼を魔王は嘲笑した。ツインテールの先が柔らかく風に浚われはためく。 「……な、ぜ。神は、悪魔を見放して――」 「阿呆め。救いがたいと、そう言ってお喜び・・・になったのじゃ!!」  柄で打ち付けた大地から黒いもやが立ち上り、形を創れば漆黒の骸骨。彼らは盾や剣を確かめるように振りながら一斉に殿下を見る。 「そして悪魔を祝福し、我らによりよい改変をくわえた。臭く汚れ、ただでは滅びぬ穢れた体を!」 「嘘だ……」  呟きは魔王の耳に入らない。入っていても答えるほどではない。 「妾は第百二十三代目魔王シティパティ。墓場の悪魔の異名、その血肉で感じるがよい。我らが神はいつも妾達を見守っておるぞ!」  彼女は笑い大鎌を振り下ろす。  全ての死者は彼女の兵だ。