ただ願いを込めて

「あはは! 毛がぶわって! ぶわっってなってる!」  そう言ったのはハルより一回りくらい大きな獣だ。くるくると彼女の周りを回ってからかうようにちょっかいをかける。 「こら、やめなさい」  警戒してしまったハルを見て、窘めるように男は言った。獣の中で彼だけが擬態のままだ。不思議に思いながらも自己紹介された名前を頭に浮かべる。 「アシミ」  男は振り返りながら首をかしげる。 「ここはどこなの?」 「言ったろう? 全ての魂が通る道筋だ」 「……。この先には何があるの」 「全ての魂が。そして神がいる」 「わたしは死んだ?」 「君は生きている。ぼくらは死んでるけどな」  わかるだろう? と茶目っ気たっぷりの言葉は笑えない。沈黙したハルを見て、表情を改めたアシミはどっかりと座った。その拍子にハルをからかっていた一匹は振動でころりと転がる。 「ここへ君を呼んだのは、知ってほしかったからだ」 「何を?」 「ぼくらがどうやって生きてきたのか。君に伝えたいことがたくさんあるんだ」 「……あなた達はわたしが生まれるより先に死んだのに、どうしてわたしの事を知ってるの?」 「神は一度獣を創り変えた事は知っているね? その時に、少しだけ未来が見えた。その時に君を知った」 「……じゃあ、わたしが転生したことも知っているのね」  頷いたアシミは言う。 「君が暮らしてきた場所も、記憶を覗かせて貰って知っている。短命種のように多用で様々な規律を持った個が営みをしていたね」  完全に耳が寝て尻尾もたれて……震えたハルにアシミは「違う」と声を張りあげた。 「責めているわけじゃない。申し訳なく思ってるんだ、その未来を見て、ぼくは種の存続のために様々な事をした。だが……未来は変わらず君は一人になってしまった。ここにいる獣が神の元に還らず君を待ってたのは、せめて君にぼくらの事を伝えようと思ったからだ」 「わたしが獣らしくないから?」 「君がそうやって悩むのを知っていた。それじゃぁ始めようか」 「なにをするの?」 「ぼくらの営みを!」  世界が色を持ち鮮やかに変革した。  芝生が足下を多い、天地が別れ木々の青々とした葉が栄え、太陽が昇っている。雲が流れ風が毛を揺らし群れとなった彼らは歩き出す。 「全てぼくらの記憶の中の断片。これから旅を始めよう」  群れの中から一頭、進み出てくる。  見覚えがある姿に思わず後ずさると、瞬く間に詰め寄られ首根っこを噛み上げられる。ぷらん、と体から力が抜けたハルを腹の下に入れた雌は、ぺろぺろと顔を舐めた。 「会いたかった。私の可愛い子」 「ロ、ゼ……」 「ええ。おかあさまって呼んでごらんなさい」  死んだはずの母親はそう言って促すが、喉に引っかかったように言葉が出ない。 「わ、わたし……昔、別の世界で暮らしてたの。それで、それでっ」 「おかあさまと思ってくれないの?」  悲しそうな声に激しく首を振る。 「そう呼んでもいいの?」 「ふふふ、呼んでくれたら凄く嬉しいわ」  怯えていたハルは涙ぐみながら「おかあさま」呟けばロゼが褒めるように頭をすりつけた。  太陽が落ちる前に眠る場所を定め休む。  星の光に照らされた草原は暗い。その中で安心しきって眠ったハルを群れは見つめる。 「本当にいいの? つれてっちゃって」  眠たそうにしながらも、子供の獣はアシミに尋ねる。 「間に合わなかったらそれまでだ……。神木もやがて新しい道を探し始めるだろう」 「ハルが生きたいって言っても?」  ああ、とアシミは頷く。 「ぼくらはこの子を再生の旅路に招いている……。終着地で魂は休息に入る。体はやがて朽ち死ぬだろう。だが、辛くはない」 「楽しいことも無いよ」 「今日は突っかかるな?」 「凄く、寂しがってた」  ずっと全ての魂が通る道筋からハルの現世をのぞき見ていた彼らは口を閉ざした。 「泣いて傷ついて、期待して裏切られて、心を許した人は死んじゃった。辛くて可哀想だった。でも、これから良くなるかもしれないのに、それを見る前に連れて行くのはどうして? モリトが願いを叶えるまで待ってもいいじゃん」 「ぼくも悩んださ。だが、モリトが願いを叶えたら、ハルは自分を責めて孤独に暮らすだろう」 「未来はそこまで見えてたの?」 「いいや、いくつもの分岐の果てにあった一つの結末……だが」 「アシミは、そうさせたくないんだね。ロゼは?」 「……ハルが決める事よ」  察した小さな獣は欠伸をして鼻面を腕につっこんだ。そのまま眠りに付くと、辺りは静寂に包まれる。風が葉を揺らす音しか聞こえず、満月が彼らの毛皮をきらきらと輝かせていた。  終着地までの道を覆うのは、悪魔が攻めてくる前の記憶。  まだ、水を飲んで暮らしてきた頃の尊い断片。 ★★★  走って走って走っても、終わりが無い小高い丘は見通しが良い。川で喉を潤した群れは突き進んでいた。こんなに力強く走ったのは初めてだ。  群れの大人達は遅れた子供をくわえて走ってる者もいる。全員体から力を抜いてぷらぷらしているのが面白かった。もしかしたら本能なのかもしれない。ハルもそうされると何も考えず大人しくなる。 「ダルドにだっこされたときも、そうだった」  そういえば、と教皇の事を思い出す。頭を押さえられたとき、手の平が首筋に当たっていた気がする。思い出せば嘘つきな短命種だったが、ハルを本気で止めようとしたのは正解だったのだろう。短命種はいくらでもいるが、いくらでもいる彼らの、ただ一人の大事な人に変わりなど居ないのだから。  だからと言って、同じ事があれば同じようにするだろう。自分の命と他人の命を天秤に掛けるなら言うまでもないことだ。  ぼぅ、と考えていたせいか遅れがちになったハルをロゼはくわえ上げた。ぷらぷらする仲間に入ったハルは、休憩場所までそのまま運ばれ笑われた。  笑ってくるのは最初にハルにちょっかいをかけてきた、一回り大きな雄だ。名前はテレフ。まだ子供なせいか言動が幼く意地悪だ。馬鹿にした物言いをするし、かと言えば素直。心のままに振る舞っているのがよく分かる。 「いやよ!」 「なんで!」  彼は母親に毛繕いされ、それが終わると真っ先にハルの所へ来て遊びに誘ってくる。だが、ハルは眠い。 「お前、赤ちゃんみたいだな」 「!?」 「もういいよ、赤ちゃんはお昼寝の時間だもんな」 「わ、わたし赤ちゃんじゃない!」  ふーん、と小馬鹿にしたように鼻をならしたテレフは「証明してみろよ! 赤ちゃんハルちゃんやーいやーい」などと叫びながら走り出した。  ここで怒って追いかけたら認めたようなものだ。頭では分かっているが感情が追いつかない。けらけらと挑発してくるテレフはまだ子供だ。狩りもしたことが無いだろう。  だが、許せない。  殺気を放ちながら迫り追い詰め、得物のようにテレフを仕留めて転がすと、 「ギャー!」  目を回す頭に柔らかな肉球を乗せ格の違いを見せつけるかのように言い放つ。 「わたしに勝負を挑むなら、百回死んでも早いのよ!」 「はいはい、運動は終わりにしてお昼寝の時間ですよー」 「あぅ」  いつの間にか迫っていたロゼにくわえられ、ハルは転がされた。 ★★★ 「……ここが全ての魂が通る道筋?」 「行けば、神の腕に抱かれる。逸れないように気をつけろ」 「といっても、何も無いぞ」  レイディミラーとカリオンは、何も無い空間に立っているように見える。 「本当にそうか?」  口元を歪めたレイディミラーは「見回してみろ」と言う。言われたとおりに見ても、何も無い。いや―― 「これは……」 「死んだ者はそれぞれ、己の人生を見ながら歩いていく。幸せなこと、辛いこと……。整理をつけて眠りに付く。全てを忘れてもう一度生まれるために」  世界は色彩に埋め尽くされている。その一つ一つに景色が在り、燃えている物もあれば雪が降っている所もある。その中を通るのは人や獣だけでは無い。虫や木々が四季の移り変わりの中にいる。  全てが一つ一つの魂の一生だと、レイディミラーは言う。 「あまたの入り口がここにはあるが、終着点は全て同じだ」 「それじゃ、どうやってハルを探す?」 「あの子は獣だ。つれて行ったのも……どうやったのか分からないが獣なら、獣の魂を探せば良い……あぁ、あっちだ」 「わかるのか?」 「ああ」  悔しそうに顔を顰めたレイディミラーは「乗せろ」強引にカリオンの腕を引いた。 「どうしたんだ、急に」 「モリトが言っていた訳がわかった……。私の足ではあれらに追いつけない。まったく、なんてスピードだ。道案内をする。お前は手足となって走れば良い」  カリオンは二つ目の姿を取った。体が無いはずなのにそっくりな感触である。 「その先にハルはいるのか?」 「どうやら群れで移動しているようだ……骨が折れる」 「これでも足は速い方だ。追いついてみせる……それより気になることがある。さっき言っていた天啓ってのは何だ?」 「神のいたずらだ」 「いたずら?」 「他の世界の神は知らないが、あれは基本、飽いている。世界を創造し、循環の流れを管理する。我々のように生まれ直したりはせず、永遠とわを生きる。それを誤魔化すために神木の子供に天啓を与えるときがある。予感、第六感と言えばわかるか? 未来を予知する。創造主だからな、当然未来を知っているのだろう」  「私の息子に余計な事を」と忌々しそうに言いながら走れという。 「モリトは神に操られているのか?」 「それはない。そういう事を神はしないからだ」 「神はいったい何なんだ?」 「生と死から外れた傍観者。勤勉でありながら怠惰で残酷な一面を持ち、慈悲無く子供のように無邪気。例えればきりがない。私達の想像も及ばない何かだ。意志を持ち、気付けばそのようにあったという」 「モリトが苦しまなければいいんだが……スピードを上げるぞ。舌を噛まないように奥歯を噛みしめろ。しがみつけ!」  最低限の注意をしてカリオンは疾走する。 ★★★  温もりが心を本当に安心させるのをハルは知った。  腹の下で丸くなればいつまでも眠っていられる。全ての苦行が遠く、悲しみは押し流されていった。  走って、眠って、起きて、遊んで。  それだけをただ繰り返しているのに全てが楽しく穏やかだった。 「勉強の時間じゃぞ」  つんつんと鼻先でハルを突いてきた老いた獣が一匹。毛艶も悪くぱさぱさしている。瞳は厳格そうな性格をそのまま表したように固い。  言葉少なに呼びつけた老獣はすぐ側で腰を下ろした。 「さあ、昨日のおさらいから」  ハルは眠い目を擦りながらもぴんと立ち、瞼を閉じ――開けた。 「遅い。もう一度」  赤く煌めく瞳を見て叱咤が飛ぶ。 「遅い!」  もう一度、もう一度とやり続けて三十分ほど経った時、全身から冷や汗が噴き出してきた。しかし"勉強"は終わらない。  <神眼>は神力といくつかの条件で目覚める。恐怖、絶望、望み、切望――様々な感情を引き金に。しかし、その後使えるかどうかは本人の訓練次第。 「<神眼>は神が授けた物。悪魔と戦うために神が授けた。しかしその全ての力を使いこなすことは出来ない。なぜならば神が持つ力は「創造」この一点につきるからじゃ。そのため<神眼>もまた、創造の力と言える」  使うことによって体内の神力を変換し、肉体に変化をもたらす。それが<神眼>の特徴。悪魔の使う術とは違う。短命種の扱う魔術とも違う。 「体の隅々まで意識しろ。全てを感じ、把握しろ。そうすればいずれ、三つ目の<神眼>が目覚める」 「それは必要な事なの?」  今でも十分暮らしていける。ここには悪魔も短命種もいない。  何も恐れることは無いと言うのに、厳しい老獣は首を振るばかり。 「お前は選ばれた。誰がなんと言おうと神が選定し、選んだ。ならば三つ目の<神眼>だけでは無く、全ての目をお前は必要とするじゃろう」 「それはお爺ちゃんも同じでしょう?」  全ての獣の魂は神が選んで神木に託す。ならば自分と彼らに違いは無い。  だが、老獣は再び首を振る。 「違う。いずれ分かる。どれほど拒もうと旅の終わりに悟る。――お前を生かすために多くの者が心を砕き、死した我々も力を貸す。これは特別なことだ。特別な贈り物を貰う者はそれと同等の定めが降りかかる。お前の未来には高い壁がある」 「……。わたし、勉強したくない。このままでいい」 「だめだ」 「翁、それではハルが怯える。もっと言葉を選んではくれまいか」  見かねたアシミが口を挟んだ。老獣はちらりと彼を見て威圧するが怯まない。しばらく睨み合えば「今日はこれにて」老獣は背を向けた。 「……。あの、ありがとう……ございました」  去る背中に呟いたハルはおどおどとアシミを見上げた。 「大丈夫だ、怒ってない」 「本当?」  上目遣をして耳を折っているハルを膝に乗せたアシミは囁く。 「あの方は厳しいし俺もよく絞られたが声を荒げたところを見たことがない。本当は穏やかな獣だ。君のこともずいぶん心配している」 「どうして? あったことは無かったのに」 「会わなくても同族のことなら気になるだろう? ……ここに残った獣はまだ神の御許へ行きたくなかったり、今の自分のままでいたい者達が大半だが」 「そういうことって、できる物なの?」 「本当はできない」  だが、六つ目の心眼がそれを可能にさせたという。 「六つ目の<神眼>は何ができるの?」 「いずれ目覚めればわかる。もしかしたら翁の言ってた壁に当たったときとかね」 「……高い壁って何?」 「ははぁ、心配になったか? だが、翁の言う事は大げさなときもある。乗り越えられない事なんて起こりはしない」 「本当に?」 「ただ、辛い事はある」  押し黙ったハルに「ぼくも言葉が悪いな」頭を書きながらアシミは続ける。 「全ての事柄には終わりがある。夢も希望も命もだ。寿命がないものなど存在しない。世界もいずれ滅びる。だから怖がらなくていい。終わりは誰もが迎え、誰もがそれと寄り添って生きている。皆同じで、辛さや喜びに胸を躍らせる」 「じゃあどうして死ぬと傷が出来るの?」 「痛いのは嫌か?」 「恐い」  するりと言葉が飛び出した。アシミの前ではハルは素直に自分の思いを言える。それはアシミがハルの言葉の裏を正確に捉えるからだ。そして静かに耳を傾け、ハルの知りたかったことを不足無く教えてくれる。 「痛みも無く、幸せの内に死んでも傷はできる。それはどうして?」 「現世と引き離されたどうしようもない痛みが傷になる。例えるなら喜びの対価。傷を癒やした魂は必ず次の生を望み、死ぬときに払う」 「全部等価交換なの? アシミがわたしの話を聞いてくれるのも、わたしから何か欲しいからなの?」 「生命の循環が等価交換であって、ぼくらの思いまで等価交換は有り得ない。君はぼくと話をして何かを求めてる?」 「……一緒にいたい。おかあさまとも、一緒にいたい。皆も、ずっと一緒にいたい」 「ぼくもだよ。でも、思いがどれくらいかなんて測れるかな。神にだって出来ないことだ。だからこそ奇跡が生まれる」 「奇跡なんて無い。神様は何もしてくれないわ」 「神はしないさ。するのは生まれ落ちた者達だ」 「わたし達が?」  「いずれわかるよ」とアシミは遠くを見つめる。それは誰かを待っているかのようだった。同じ方向を向いても緑の木々しか見えない。 「奇跡は起こる、辛いままの人生なんて無い。必ず喜びが。それを迎えるために今は眠ろう。ぼくは信じたい。君が幸せな運命を選ぶと」 「運命?」 「枝葉のように広がる選択肢の流れ。ぼくも持っていたし、君にもある。君は常に選んで進んでいるよ。きっと大丈夫だ」  言葉の意味はわからなかったが、尋ねる前にアシミが歌い出す。釣られたように周囲の獣が集まって声をそろえだした。  世界がまだ、神木と獣だけだった頃。  歌を歌って暮らしていた。  音楽は風に乗ってどこまでも遠く響き、世界を振るわせる。 ★★★ 「あっちだ」  尖った耳がぴくりと動く。  声に誘われてカリオンは走る。  その背中に乗ったレイディミラーは不安を隠しきれず口元を歪めた。死んだ者がいつまでも道筋に留まれるのだろうか。今までこんな事はなかった。  獣達が何を考えているのかわからない。