何一つしてやれないまま

 エディヴァルの他に世界は数多存在しているという。そして魂達は新しく生まれ変わるために傷を癒やしながら、眠りに付く。  誰が、そう言ったのか。  エディヴァルを創った神が言った。  神の言葉を神木が聞き、それを伝えた。 「神は救済をしない。いずれ世界は滅び神は再び創造する。ではなぜ世界を創るのか。循環のためだ。それが役割だからだ。改変を加えるとき、なぜそうするのか。慈悲ではない、神には私達が思うような慈悲など無い。神は魂の循環という役割を担っている。それを決めたのは誰だ。これはわからない。無いのかもしれない。神は知らないと言う。神は万能ではない証明だ」  お前達は短命種と約束を結びたいと思っている、とレイディミラーは自分が理解するために呟き続ける。 「その約束は破綻するだろう。魔界は滅びるのだから」  悪魔が滅びると言う事は脅威が無くなると言うこと。 「私の洞にはあらゆる言語に関する記述がある。どうやって文字ができたか、その背景、使う種族。無論、悪魔文字の成り立ちもここに記されている。――それを教えてくれたのは短命種が生まれる前、悪魔との戦いが激しかった頃。エウリュアレーという女悪魔が私の前に現れた」 彼女はこう言った。 「罪をまき散らしながら生きるのは罪悪ではありませんか。その答えを知るために彷徨っています。エディヴァルが欲しいと望む悪魔は滅びるべきでしょうか。全ての統計の後、私は結果により死か生かを選びたい」  レイディミラーは問いかけた。 「その前に教えなさい。あなた方はなぜエディヴァルが欲しいのか。我々と共に大地に生きることは考えられないのか」  これは、太古の話。 「それはできません」とエウリュアレーは言う。 「なぜ」 「共に生きれば必ず悪魔は大地を腐らせ、あなた方を殺すからです」 エウリュアレーは濃い目の隈をこすりながら二度頷く。 「私達は神人を殺してしまいました。惨く。神人は悪魔が望んだ救い主。与えた神は怒りました。救いを望みながら自ら殺してしまった我々の愚かさに。神はお怒りです。全ての悪魔にこれ以上の生はいらないと我々の体に種を植えました。毒の種です。種は芽吹き、悪魔の体を創り変えました。生まれてくる子供も全てその身は毒となりました。毒は大地を腐らせました。私達は罪深い。神は魔界を滅ぼし再びの創造をお望みです」 「神が怒る? まさか」 「そのまさかなのです。悪魔は望んだ救済を台無しにしたのですから。神が望んだ運命を破壊したのですから」  言って続ける。 「悪魔の吐息は大気を汚し、その体は大地を腐らせます。吐息は霧となって太陽の光を隠し、植物は枯れ果て、悪魔達は一所に住むことができなくなりました。そして一度毒に侵された大地はけして元に戻りません」 「だから悪魔はエディヴァルを襲うのか。この大地が欲しいと」 「悪魔は嘘つきで汚物のような存在で、生きる事に執着なのです」 「お前は違うと?」  エウリュアレーは一瞬言葉に詰まり、首を振った。 「神木よ、どうか答えてください。私達悪魔は滅びるべきなのでしょうか」  痩身の悪魔を見てしばし考えていたレイディミラーはゆっくりと背を向けた。 「お前を私の洞へ招こう」 「私は悪魔です。この身は大地を腐らせます。それはエディヴァルでも同じなのです」 「それでもいい、お前を招く」 「なぜです」 「休息が必要だ。私にも、お前にも。ここは雪で覆われた大地で何も無いが静かに過ごせるだろう。エウリュアレーと言ったか。お前は私の答えが出るまでここで寝起きすれば良い」 「慈悲をかけると言うのですか」 「勘違いするな。私はすぐに答えを出すほど愚かではないつもりだ」  伏し目がちに言って、レイディミラーは精神体を解いた。  戸惑うように立ちすくんだエウリュアレーは長旅の疲れも手伝ってレイディミラーの洞へ入る。中は暖かく、彼女は冷え切っていた。  そして泥のように眠りに付く。  此の後、三年もの期間居着くことになるとは双方思ってもみずに時は流れた。 ★★★ 「彼女は悪魔としては異端だった」  当時を振り返りながらレイディミラーは呟く。懐かしむように洞の壁へ指を這わせ、 「いつも苦しんでいたのか傲慢さの欠片もない萎れきった態度で何度もいらいらさせられたが、悪魔の事情をよく話してくれた。彼女にとっては私に速く答えを出させるためだったのだろうが」  神人とは、神が使わした循環の為の創造物だったと言う。  生き物でありながら存在するだけで大地を癒やした。  そのたびに争いごとが大好きな悪魔は、その土地で生きるのが困難になるほど大地を荒らし回ったが。 「神の役割は循環の流れを滞りなく行うこと。そう知っていれば、これは救済ではないとわかる。神はただ役割をこなしただけだ。では、悪魔が神人を殺したときに種を植え付けたのはなぜか」  余興ではないかとレイディミラーは呟く。 「神は基本、飽いている」 「悪魔を弄ぶために、そうしたの?」 「おかしくはない。あれらに慈悲は無いのだから。悪魔が他界に侵略しても神は何もしない。もがく様を見て楽しむのがあれらの常だ。……だからお前が短命種と約束を結んでも、場合によっては報復者がいなくなる」 「ウルーラはそれを知っていたのかしら? だからこの時期に滅びを選んだの……?」  間に合ったと言っていた彼女は悪魔が滅びる前に国を壊滅させたかったのだろうか。考え込み始めたハルにレイディミラーは首を振って答える。 「わからないが可能性はある。エウリュアレーは様々な神木の元へ行き、同じ問いかけをしていたと言う」 「では、あと百年耐えればエディヴァルは救われると……?」  ダグラスの言葉に嘲笑を漏らしたレイディミラーは言う。 「嬉しいか? しかし、お前達の言葉はいつもおかしい。エディヴァルは救われる? 違う、救われるのは短命種だ。世界にとって自分達がさも大事かのように言うのはどの短命種も変わらないな」  すっかり耳を折ってしゅんとしてしまったダグラスは、 「おっしゃるとおりです。しかし、この事を他の短命種が知れば、約束を結ぶことが難しくなるのではないでしょうか?」 「無いな。お前達は百年後の未来のために、今を踏ん張れるのか?」 「……できないでしょう」  誰もが明日の未来より今日の自分を大切にしている。いつ死ぬか分からぬ世に生きて、将来のために何かすることを考えられる者がどれだけいるだろうか。 「約束を結びたい理由はわかった。問題があるのもわかったが、じゃあ解決する手立ては無いのか? 黙っていれば短命種はわからないぞ」 「ボクは嫌だ」  即座にモリトは声を上げる。 「必ず報復は必要で、そうじゃなきゃファズもメロゥーラも納得しないよ。もし短命種が約束を破るならボクは滅びてでも悪魔をけしかけたかった。でもそうできないなら、別の方法が欲しい」 「……。止めないの?」  呟いた言葉に即座に激しく首を振ったモリトを見て、ハルは言い知れない薄ら寒さを感じる。そして疑問も。 「約束を結ぶことに意味はあるの? 短命種は必ず裏切るわ。それにモリトの運命をあいつらが握る事でもあるのよ。それでいいの? いくら条件を突きつけたって守られなくちゃ意味なんて無い。そもそもそうしなきゃ手に入らない物が本当に大切なの?」  守られる事を前提にした約束は相手を信じている証でもある。危ういとしか言いようがなかった。少なくともハルはそう思う。 「どれだけ言葉を尽くしても相手が自分と同じ思いを抱いてくれるとは思えない。平和のために身を削って、いつか後悔しても結んだ後に変えることはできないのよ。短命種は狡猾よ。きっと約束の抜け道を見つけて、見つけられなくてもモリトの目の届かない場所で破るに決まってる!」  人目が無いときこそ、その者の真価が試される。  果たしてどれだけの者が恥じない行動をとれるのか。 「全部の悲しみをモリトは知りたいって言ったわ。でも知ってどうするの! 誰もが別の事を考えて、受ける苦しみは他者にとっては取るに足らないことかもしれない。知ったとしても、その苦しみと同じくらいの苦しみを感じることなんてできない。それはモリトもわたしも同じ事よ」 「ボクはハルの心がわからない。でも、知りたいよ。理解しようとするのはいけない事? そうは思わない!」 「わたしは知って欲しくない!!」  どうして、と独白するように言葉が漏れる。 「どうして放っておいてくれないの。わたしは獣と違うの、きっと違うのに!」 「なぁ、何が違うんだ」  破裂しそうなほどの緊張が膨れ上がったとき、カリオンはそうと知らずに切り込んだ。ハルの口元を指先で覆うように撫で、問いかける。 「違うと、何がいけないんだ」  凍り付いて身動きのとれなくなったハルを不可解そうに眺めたカリオンは思う。違って悪い事などないのにと。 「それに、どうしてモリトのやることを頭ごなしに否定するんだ。ハルはモリトが嫌いなのか? 仲良くするのが恐いのか」 「なにそれっ!」 「怖がってるように見えるぞ。モリトはただ、ハルと仲良くしたいって言ってるだけだ」 「じゃあどうして短命種と約束を結ぶ事に繋がるのよ」 「言ってたろう? 話がしたいって。それは友達になりたいって事だ」  ぱちりと見開いた目を見てカリオンは笑った。 「モリトも遠回しだったな。一緒に遊んで仲良くしてほしいし、友達が大変ならどうにかしてやりたいって思うのは普通のことだ」  同意を求めればぐずぐず泣きながらもモリトは頷いた。 「難しく考える事なんてない。それに、モリトを応援してやればいいじゃないか。悪い話じゃないと思うぞ? 短命種が信じられなきゃそれでいい。あった事もない人間なんて信じる方がおかしいんだ。そのかわり一緒に考えてやろう?」 「一緒に?」 「そうだ。これは平和のための約束なんだろう? なら、皆で考えるべきだし皆が幸せになる道を探すべきだ」 「わたしの問いに答えてないわ。わたしと仲良くしたいって思うことと短命種と約束を結ぶことに何の関係があるって言うの!! モリトを引き合いに出してわたしを誤魔化そうとしてるなら止めて!」 「そんなこと思ってないし、やる必要も無い。約束を結ぶ理由だって簡単だ――こんなに苦しんでる」  指先が目元を撫でる感覚すら頭に入らず、ただ真っ白になって自失する。  この男は今、一体何を言ったのだろう。  聞こえた言葉を理解するのを脳が拒否している。 「苦しくないなら声を荒げたりしない。辛くなければ、そんなに人を疑わない。幸せなら笑うはずだ。なのにこんなに強ばってる」 「うるさい!」  振り払うように頭を振れば、簡単に指先は離れた。 「カリオンに何がわかるの! わたしは死んで、生まれたの。自分で選んだのよ! わたしが望んだの!」 「だから苦しくて辛くて幸せじゃなくても我慢しなきゃいけないのか? そんな事ない、もっと自分の事を大切にして誰かを頼ったっていいじゃないか」 「神様の前で好きなように生きて死ぬって誓ったわ! その通りにしてるし、あなたにとってそう見えても全部わたしが選んだ事なら、結果がどうなろうと責任は全部わたしの物だし、他の誰かに押しつけるのも間違ってる!」 「押しつける? 違う。分かち合うんだ。そんなふうに考えるから不安になる。人を頼らず生きる事なんて無理だ。今、この時だってハルは誰かに生かされてる。モリトは眠ってる間ずっと君が冷えないように抱いていたし、食事は俺が作ってた。ダグラスもレイディミラーも君のことを心配してずっと側に居た。これだけ周囲に気遣われて、でも相手を突き放すのは信じてない証拠だ! 馬鹿にするな!」 「馬鹿にしてなんていないわよ!」 「信じないなら同じ事だろう! モリトが約束を結ぼうとしたのもレイディミラーが自分を愚かだと言うのも全部ハルのせいだ。ハルを思って苦しんでるせいだ。なのに君は彼らを遠ざけて蔑ろにする。馬鹿にしてないなら侮ってるのか? ここまで来るとタチが悪いぞ! 俺がいくらハルを好きでも怒るからな!」 「な、なに……なにを」 「たとえ誰の恨みを買おうと、自分を蔑ろにしようとも大事にしたかったからそうしたんだ、みんな君が大事だから。それを否定するのか?」 「わたしの事はわたしが決めるし誰に心配して貰わなくても大丈夫なの! 約束だって代償があんな事じゃなきゃ反対しないわ! モリトが新しい大地に根付く為に短命種と約束を結ぶならいい。でもそれ以外の理由ならやめてっ! わたしは何もしてあげられないの」 「……。ボクはハルに何かしてほしくて約束を結ぼうとしたんじゃないよ」  息が詰まりそうだ。ハルは喘ぐように息を吸う。 「わかってる。神木はいつもそうだもの。何もいらないって言ってわたしに沢山の事をしてくれるけど――苦しいの」  無償の愛が重くて潰れそうになる。同じくらいの思いを返すことができないのだ。 「わたしは崇高な精神の持ち主じゃないし、立派でもないってわかってる。短命種と一緒だわ。一番守らなきゃいけないときに約束を破ったの! こんなわたしに心を砕くのはどうして? わたしが獣だからよ、それ以外に何も無い。もう止めて、見限ってよ! そうしたらどこへだって行けるのにっ」 「それは違うよ! ハルはどこにも行けずに彷徨うんだ」  モリトは両手を伸ばした。ハルの面長な顔を掴んで柔らかな毛皮に指を埋めて引き寄せる。 「ボク達は種族的に離れては生きていけないってわかってる。でも、それが無くたって一緒に居たい。平和な世界があればそれが叶うよ。きっと世界が始まった時みたいに、皆歌って暮らせるんだ」 「獣でなければモリトはわたしに見向きもしなかったわ。わたしの精神なかみはとても打算的で自己中心的で、いざとなったら友達を見捨てるの! だから大事にしないで! されればされるほど汚い自分が見えて苦しいの!」  だからお願い、自分を理由に入れないでほしい。自分のために神木が何かを削ることもしてほしくないのだとハルは呻く。 「黒服の獣が現れたとき、ハルはボクに逃げてって言った。ハルはそんな事しなかったよ、逃げなかった! ……でも納得しないんだよね? なら教えて、どうしてそんなに苦しいの?」 「言ったらわたしの為に何もしないでくれる?」 「わからない」 「……。モリトにわたしの心が見えたらいいのに」 「教えてハル。ハルの悲しみを、ボクは知りたいよ」  渦巻く感情を持て余しながら泣くように告げた。 「今のわたしが生まれる前。こことは違う世界に生きてたの。ずっと前に言ったのを覚えているかしら。あそこは懐かしいと思うけど、戻りたいとは思わないって」  それは自分が人でなしだからだ。  短命種と変わらず醜いからだ。 「約束を破ったのは、その時か?」  カリオンの言葉に頷く。 「わたしは自分の本性を思い知った」