業を背負う子供に
「春ちゃーん!」 「わぁ!?」 通学途中の道で背後から飛んできた何かがわしっと胸を握った。甲高い声で数センチ飛び上がった彼女はぎょっとしながら振り返り様に不埒な両手を払った。 「おはよー」 「やめてよ胸掴むの!」 「いや、この嫌がる様子が萌えて止められない」 びきりと青筋がたったのが、自分にもわかる。 「ちょっと顔かしな。そこの角曲がってイケメン見に行こうぜ」 半眼になった春は手荒く友達の頭を掴んで歩き出した。「あ、あっそんな所もステキだけど角曲がった所って新しく来た警察官のお兄さんがいるとこじゃないかな!?」と慌て出す友達は最終的には交番に行く前に真摯な態度を取り繕い申し訳なかった旨を伝えてきた。後で契約書を書かせるべきだろう。
拇印 付きで。 「そう言えば、さっきぼーっとしてたみたいだけど、どうかした?」 「空耳が聞こえたのよ」 誰かが自分を呼んでいた。優しそうな声で、慈しむように。 首をかしげながら学校へ続く道を賑やかに歩き出した。 空が青い。 蒼く。 その碧さは変わらない。 ★★★ これは常世の夢のようなものだ。 大学の講義室で黒板を見つめながらペンを握る。風の匂いも暖かさも感じず、何もかも無機質だった。 自分の視点で自分の過去を振り返る事は以前にもあった。 耐えられないほど心が軋んで痛んだとき、魂は悲鳴を上げて精神を閉じ込めようとする。これは、防衛本能のような物だろうか。 モリトは心配するだろう。それに、約束のことも早く聞かなければ。 考えたとき、世界に皹が入る。 浪々と呪文のように説明を続ける教授。黙々とノートにペンを走らせ、視線を黒板とノートに行き来させる生徒。 それらが紙のように千切れていく。 「わたしは、何を怖がっているの」 問いかけに世界がはじけた。 暗く塗りつぶされた世界。最期に見た景色。 恐ろしい記憶と共に恐怖に囲まれているのを痛感する。 「わたしは不安に思っているの?」 ここはハルの心の中だ。千よりも多く景色を変える、混沌とした場所。 ぬるり、と空間が歪み左腕が現れる。外から侵入しているようで、中から出てきているのだとハルは知っている。 ――そう。今、自分は"ハル"なのだ。 滑らかな手足に直立しているが、側面に付いた耳はふさふさとしていた。擬態を止めれば簡単に獣の姿に戻る。 前脚で顔を洗いながら、思考する。 「わたしは不安に思ってる。それは何? 自分のこと? ううん、違う。モリトのこと? そうだわ、心配してる。何を心配してるのかしら、短命種に騙されてるんじゃって思ってる? そうね」 左腕がどんどん抜き出て膝が見える。それがぴたりと止まった。自分の心がどうなっているか当てなければいつまで経っても相手は現れない。 「モリトが騙されてるのが心配。それだけじゃない。もしそうだったら、わたしは守れるかしら。ウルーラは守れなかった。わたしは獣失格なのかしら。そうじゃないって思いたい」 一気に上半身が現れた。 確信に震えながら言葉を続ける。 「わたしは何のために生まれたの」 顔だけを残し、生前の自分が現れる。のけぞるようにして、不気味な姿だ。 「神様はどうしてわたしを選んだのかしら。役割があるはずだわ。輪廻転生をさせてまで、わたしに生きて欲しいって言った!」 ハズレだ。闇に、体が消えている。 ハルの心は知りたくなくても正直に心を見せる。目を避けたくても避けさせてくれない。 なぜなら、自分だから。 「わたしは……生まれた理由が欲しい」 自分は騙せない。 「生きたかった。あんな思いをしたまま死ぬのはいやだった。けど、今は違うの」 顎がぬるりと現れて、髪の先が見え、 「誰かに必要とされたい。じゃなきゃどうして生きてるの?」 顔の半分が出て、 「わたし、寂しいんだ」 全てが現れた。 恐怖で、不安で、混乱し、泣きながら、もどかしそうに、戸惑いつつ、その心は途方に暮れ、 「わたし、どこへ行けるの? どこに行っていいの?」 泣きながら叫んでいる。 自分の心がそんなふうだと思いたくないが卑屈に声を荒げ、 「誰か助けて!」 死ぬほど嫌いな言葉を絶叫した。 惨めな姿だとハルは思う。 「わたし、考えてることが変わったわ」 「寂しいの。でも、触れられるのも怖いっ」 前世の春は泣いている。 そんな姿を見ながら理解して、ハルは考えた。以前は全ての恐怖の中で生を渇望していた。今は現状と未来を考えて泣いている。 成長したのかどうかわからない。しかし、明確に自分の中の心が変わってきている。 「誰に触られるのが怖いの? モリトは怖くない。神木も――短命種はそういう事にはならないわ」 「でも、誰かと寄り添いたい。寂しさを埋めたいの」 「もうわかってるでしょう? 欲に濡れたあいつらの言葉はすぐにぶれて駄目になる。人を見捨て、蹴落とし、罪悪を持ちながらも止められない。いいえ、持たない者もいる。息をするように人を傷付ける。神木はわたしが寄り添う相手……それじゃだめなの?」 「神木は寄り添う相手なの?」 奇妙な一人と一匹の問答は続いていく。 「……ファズは、神木 はそう言ったわ」 「信じられない!」 「どうして?」 「わたしは獣として、とても中途半端じゃないかしら。彼らはわたしを見て、寄り添いたいって思ってくれる? だって、わたしの中身は短命種のようなものじゃない」 「確かに規律を持たないで生きた記憶がある。嘘をついたことも。でも、今は違うっ」 「違うと思いたいだけよ。モリトだっていつか気付いて離れてく。そうじゃなくても……いつか大地に根を張るの。ずっと一緒には居てくれないわ!」 「そうよ。そして、わたしは神木を巡って生きてくの」 寂しいと、惨めな自分が叫び出す。 「一人で巡るの? 思い知ったじゃない。レイディミラーの洞を出てどうなった?」 「わたしが望んだ事よ!」 「それでも寂しかった!!」 「裏切られて、弱い者を食い物にする奴らの汚さに自分も汚れるみたいだったのに!? 優しさは虚栄で何度も騙されたじゃない。信じるのは愚かなことよ!」 「でも、本当はそんなふうに考えたくない……善意を信じたい」 「何馬鹿な事考えてるの? そんなことしたら殺されちゃうわ!」 「疑いたくないの」 「死んでもいいって言うの?」 「疑い続けることは辛い、許したい」 「許すって何? 誰を許すの。わたしを騙した人達を?」 「全部を!」 「付け入られるわ。諦めたほうが賢いの」 「楽になりたいからそんな事を言うの?」 「楽になりたいとかじゃなくて、事実じゃない。綺麗な人だって、わたしの事を怖がるし、受け入れるわけ無いわ!」 ハルはしゃがみ込む彼女の膝に乗って、柔らかい肉球を押し当てた。 「カルフさんは、そんな事なかったわ」 「……でも」 「あの人は確かにわたし達の事を利用しようとしたけど、それは酷いことじゃなかった。目的のためだったし、なにより庇ってくれたわ。逃がそうとしてくれた。嘘は言わなかった! 信用に足る人だと思う。彼は、逃げなかった。今までだって、いたでしょう? 彼だけじゃなかったはずよ。思い出して」 「違う違う!! あの人達は大切な者のために命を賭けていたのよ。わたしじゃない。それに、けっきょく死んじゃったじゃない!! 皆、目的を果たし使命をとげ、誰かのために心を捧げて!」 「カルフさんは死ななかったわ!」 「偶然よ!」 獣は吠えながら丸くなる。 「わかってる、辛いわ。心を許した相手が死んだ事を忘れられない。行き先がどんな場所か知ってるから、余計に」 「楽園は無いわ。神様は何もしてくれないって思い知らされるの。奇跡は無いし、あるのは循環の流れだけ」 星屑を集めたようなきらめきが、天の川のように神の御許に還る。多くの傷を癒やすために。 「ウルーラはそれでも、救われると思うわ」 耳を折りながらハルは言う。 「本当にそうなの?」 「そう思わなきゃ、心が痛くてやってられないじゃない」 「無理矢理納得してどうするの? 嫌なことを見ないふりして飲み込んで、それで何かが変わるの?」 「でも、このままじゃ永遠に続く終わりの無い平行線よ。どこかで区切りをつけないと」 「わたしは頑なだと言われるし、そうだと思う。でも、それは駄目なことなの?」 「生きにくいわ」 「生きやすく生きるって何? わたしの中の何かを変えたら、この気持ちは楽になるの? 無くしていいって言うの!?」 「わからない。でも、折り合いをつけなきゃ。大人にならないと息もできない」 「大人になるって、そういう事なの? どうしても、そうしなきゃダメなの? それは素晴らしいことなの?」 「良い悪いの問題じゃ無いわ。そうしないと何も変わらない」 「そうやって大人ぶって分かったふりをして辛いことを忘れるの? 逃げてるだけじゃないの? そんなの狡い!」 「じゃあ、誰かと辛さを分かち合う? そうしたら、別の道が見えるかもしれない」 「誰が居るって言うのよ!」 「探してみましょうよ……」 「……でも、わたしは重いわ」 「嫌われるのが不安だわ。呆れられるかも。わたしの悩みは取るに足らないと言われたらって思うと怖い。でも、そうじゃないかもしれない」 「勝手に期待して、勝手に失望するのはもう嫌よ。それだって、相手にしてみれば迷惑でしかない」 二人の立場は逆転し、獣はごね、泣いていた。暗闇は深まり全てが冷えていく。 全てがごちゃごちゃで何も整理が付かない。根本にあるのは寂しさと恐れなのだろうか。心の奥にある根っこが、何も見えてこない。 「わたしは怖がってる。一人になるのが怖くて立場を求めて役割をこなそうとしている。でも、求められていないかもしれない。モリトは短命種と約束を結ぶって言った。ファズは神木のために短命種に利用されるのは許さないって。メロゥーラは、ファルバは種じゃなくて個を見ろって。でもウルーラは、わたしが来るのを待ってた! ……どうしたら良いの」 「わたし は滅ぶ」 「わたしが最後」 「でも、神木は新たな道を歩き出すわ」 「血を繋ぐ必要はないってファズは言ってた」 「わたしを気遣って言ってくれたんだと思う。でも、鵜呑みにして良いの?」 「善意を善意として受け取るべきだわ。疑ったり悩むのは失礼よ」 「受け取って、わたしはこれからどうするんだろう」 「神木を巡って暮らす?」 「……………」 「役割をこなし続けることに意味はあるの?」 「他の神木はわたしを待ってるかもしれない」 「それをして心は救われるっていうの?」 「わたしは救いが欲しいの?」 世界に波紋が広がった。それは違うと叫んでいる。 けっきょく、ハルは寂しいのだ。どうして寂しいのか明確に言葉にならない寂しさが胸の中にたまっている。 「……役割をこなしても埋まらない。誰かのために何かをすることでも埋まらない。もう疲れたわ」 どうして生きている。 かつて神に誓ったからだ。 誓って、エディヴァルに生まれ落ちた。 新しい体に入ったとき、力が体中に張った瞬間を思い出す。 しかし、考えてしまう。 「わたしは逃げたのかもしれない」 「死ぬことは怖かったわ」 「忘れることも怖かった。わたしは何もしてあげられないまま、死んでしまったから」 「今度こそと思ってた。でも……生きる事に必死になった」 一人と一匹は寄り添いながら項垂れる。 「そうしてる内に様々な事があって、モリトが生まれて……守らなきゃって思ったの」 「役割を見つけて嬉しかった?」 「ええ。でも、もう終わりかもしれない……。転生した意味はあったの? 最初に願ったことは未だ叶えられてない」 「わたしが転生を望んだ理由」 「もうぐちゃぐちゃね」 「堂堂巡で何もわからない」 肯定したがる自分と、否定したがる心を持て余す。顔を上げれば諦観を抱いた自分が乾いたように微笑んだ。 「なら、これで最後にしましょうよ」 「全部を聞いて」 「それから決める? ……ここから出れば考えずに全部が終わるのに?」 春はハルの手を引っ張って、腹から頭に入る一本の亀裂に触れさせる。何の感触も無いそこをくぐり抜ければ全ては終わりだ。 「もう考えるのは嫌、疲れたわ。休みたい」 「……ううん。きちんと聞いてくるわ。恐いけど、でも……そうしたいの」 「なら決まり」 人間の手と獣の前足を合わせれば、そこから二人は混じっていった。 「これでダメなら」 「もうお終いでいいよね?」 二人は溶け合い、亀裂がその場に残った。そして薄暗い世界にたくさんの細い亀裂が生じれば、肌にあった細かな亀裂が裂けて血が滲むような、そんな小さな痛みを感じた。 ハルは目を開ける。 眩しかった。 誰かが顔をのぞき込みながら泣いている。 「ハル!」 自分と似ているようで違う顔。カリオンの横にモリトが転がり込んできた。柔らかな毛皮に包まれながら、未だ眠っているのかと錯覚する。暖かく、泣きそうになるほど懐かしい香り。 誰かが口元を丁寧に撫でた。指先から肘へ、肩へ視線が登り、三つ編みが二つぱたりと落ちている。黒髪の女性は目尻に涙をためながら「おかえり」と大切そうに撫でるのだ。 「レイディミラー?」 いつかの時のように、彼女は宝物を見つけた瞳で頷くと安心したように息を吐く。ダグラスも、人が動く気配に目を覚ます。寝ぼけた顔をしながらきょろきょろと見回した後、ハルを見てホッとしたような顔をした。 「ハル、ごめんね。こんなふうに傷付けたかったわけじゃなかったのに!」 「でもモリトは、約束をしたかったんでしょう?」 はたはたと落ちて来る水滴に顔を濡らしながら聞けば、モリトは正直に頷いた。 「どうしても諦めきれない。嫌になった? もうボクと居たくない?」 答えず、ハルは聞く。 「モリトが住みたい世界のために短命種と約束を結ぶって聞いたわ。何と引き替えに、約束を結ぼうとしてるの?」 「ボクら神木の種としての滅び。約束を短命種が破ったとき、神木は一本も残らずに枯れる。――代わりに短命種が約束を守るなら、続く限り結界の維持をする。だから神木一本一本を巡って、約束を結ぶに足る条件を聞こうと思ってた」 「獣が命を削らない世界がほしいとも言ってた。それはなぜ?」 「ハルは自分のことを神木を守る戦士だと思ってる。そんなの嫌だよ、そんなふうに思わないでほしい! でも、ボクの言葉は届かないから平和になったらハルも回りに目を向けるんじゃないかって思った。ボクの事ちゃんと見て、話を聞いてくれるんじゃって! それに、ハルのここを守りたかった」 「そこって、心臓? まさか、わたしの心を守るってずっと言いたかったの?」 戸惑う言葉に頷かれればハルはやるせなく叫んだ。 「そんなこと、しなくてよかったのよ!」 「ボクがしたいんだ! ハルはボクのために何でもしてくれる。でも、それはボクの事が好きじゃないからだ。だから、いらなくなったら言ってって言う。辛かった。ボクはずっとハルと一緒にいたいのに、ハルはそう思ってくれないんだって」 「いつか成木となったならモリトとずっと一緒にはいられないのよ」 「それでもずっと一緒にいたいって思ってほしかった。ボクはずっとハルの味方だって!」 思わぬ事を聞いたかのように、ハルは息を止めて目を見開いた。 真剣にモリトはハルを見ている。 もし、かつてのハルだったら。曖昧に言葉を濁して信じなかっただろう。なぜなら、獣は神木のための戦士だと思いたかったから。 けれど今まで出会った神木の全てがハルを歓迎して、けれど戦うように強要はしなかった。膝に乗せて背中を撫でて、神木と短命種と、今までの営みを話して聞かせる。 混乱した頭のまま口を開いたとき、かぶせるように、 「誰もが皆、愚かなのだろうか」 レイディミラーは困惑に頭を振りながら言う。 「その約束は成就しない。断言できる」 「おかあさま、どうして?」 「お前の約束は悪魔の脅威あってこそ成就する。百年以内に短命種が約束を破るなら、それでよかっただろうが」 首をかしげる面々を見て、レイディミラーは告げる。 「魔界は、あと百年で滅びる」