時は過ぎていく
死ぬ前の名前は「春」。 彼女は大学生だった。 母と父がいて兄弟はいない。大切にされて、そうと知らずに生きていた。家族がとても自分を大切にしてくれて、同じように大切にしたいと思っていたのを死んでから自覚した。 死んだのは溺れたからだ。 もう全てが終わったことで、どうにもならないが海辺に友達と二人、遊びに行った。人気は無くて、冷たい水に足をつけながらクラゲや小魚を追い回していた。大学生がする遊びでは無いが、なぜかそう言う流れになった。 そこに、灰色のバンがやって来て二人は追い回された。三人の男達は道路や足を使って二人を追い詰める。 「きゃあ!」 「シズちゃん立って!」 転んだ友達を引っ張り上げればビーチサンダルが切れている。これでは走れない。どうしようか一瞬迷った春は動揺に青ざめ小刻みに震えている友達の肩を強く握って獣道に入った。 背後からはやし立て、からかいながら追いかけてくる声の恐ろしさに二人とも身を縮める。 「わたしのTシャツ足に巻いて! はやく!!」 「下着になるよ!」 「あいつらに捕まったらもっと酷い目に会うでしょう! 速くして!!」 声には隠しきれない恐怖が滲み出て自分で自分を追い詰める。 震える指がうまく動かずシズは焦っているようだった。春も「ぐずぐずしないで!」恐怖に自分を見失いそうになりながらシズの肩を指が痛むほど握っていた。そうしなければ今にも見捨てて逃げそうな自分がいたからだ。 「走って!」 声はもうそこまで来ていた。 肩を引っ張って前を走らせながら彼女が転びそうな度に腕を掴んで引き上げた。二人はめちゃくちゃな方向に走り回った。 ただ一心に、人の居る場所を望んで。 「まって、もう走れない!」 「襲われてもいいの!? 頑張ってよ!」 「お願い春ちゃん、先に行って! 私足遅いから、一緒に居たら捕まっちゃうよぉ!!」 「何言ってるの!!」 繋いだ手が汗で滑る。 「だ、大丈夫! この近くに隠れてるから助けを呼んできて、お願い、待ってるから! 隠れて待ってるから!!」 「わかった、隠れる所を探そう! もうちょっとで町に付くわ……道路沿いは車で見張ってるみたいだから、どこか民家に逃げ込もう。あいつらをやり過ごして、大丈夫、きっと助けてくれるから!」 「ダメだって! 春ちゃん、お願いっ。足がもう、だめなの」 それくらい我慢しろと怒鳴りかけた春は言葉を飲み込んだ。 結び目がほどけかけ、中に入った小石が食い込み出血している。転んだときにひねったのだろうか。歩き方すらおかしかった。骨折はないにしろ、罅が入っているかもしれない。 シズの息は完全に上がっているが、春はまだ走れる。 「わかった、足跡消して小さくなって隠れてて。もし見つかったらあいつら殺してでも逃げるのよ」 大きな石を握らせて、ハルは迷ったように足踏みして―― 「わかったから、はやく行って!」 今思えば、彼女も必死だったのかもしれない。明るくて少し馬鹿で抜けてておちゃらけていたけれど、驚くほど献身的で優しい女の子だった。母親になったなら、とても心配性なお母さんになっただろう。 そして春が迷ったのは一瞬だった。 恐怖に理性が塗りつぶされて冷静な判断力ができなかった。できたなら、きっと春は迷わず一緒に隠れ、彼らが通り過ぎた後、逆の方向に逃げただろう。 「必ず助けを呼んでくるから、それまで無事でいて、絶対よ!」 春は約束を守れなかった。 逃げる内に、道を見失った。焦りから海を目指し、切り立った崖に出てしまった。笑い話にもならないが、そこを追いつかれて後ろから殴られ、海に落ちたのだ。頭から火花が散って。何も出来ずに沈んでいくと慌てた声が聞こえたような気がする。 友人がどうなったのかも、家族のことも考えられなかった。 痺れたように体が動かず、息が苦しくて全てが暗く、自分の吐く気泡を見ながら、そうして死んだ。 ★★★ 「あいつらを呪いながら神様から天罰が下るように願ってた。そうお願いしようと思ってたの。でも、あったのは循環の流れ。神様は何もしてくれないし思ったような存在じゃなかった。奇跡なんてない。皆自分の創った嘘だらけの神様を崇めて祈ってただけだった。――そこで、あの後の顛末を知ったの」 シズは捕まり、後一歩の所で春を殺した男が帰ってきた。 そうしたら彼らは事の露見を恐れ、彼女を口封じのために殺してしまった。 町では大きな事件として取り上げられただろう。 「シズちゃんに会ったの。あの子泣きながら神様の所へ還って行ったわ。わたしを一人で死なせてごめんねって凄く後悔して、自分も死んじゃったのに。その時わかったの、あの子を見捨てたって。足手まといが居なくなれば逃げられる。死んだ後は、わたしだけじゃなかったって思った!」 なんて汚く、浅ましいのだろう。 「神様がわたしに新しい生をくれるって言ったとき、きっと次はうまくやろうって思ってたの。前にできなかったことをするの、お父さんとお母さんに何もできなかったし、戦えるようになって今度こそ守るんだって、近づく奴は皆、殺してやるって」 もし、無念が形を取ったなら、こんなふうになるのだろうとレイディミラーは考える。 「もう二度と約束を破らない! 規律がわたしを縛らなくても自分に誓ったことは守るの。どんなことをしてでも絶対に!」 哀れで悲しく、後悔の塊だ。 「獣がどんな生き物か聞いたとき、嬉しかった」 神木を守る戦士。きっとうまくやるんだと思っていた。そう、思いたかった。 「でも、けっきょくわたしは、わたしだった。獣のように気高くなれない。独りよがりだったみたい。……ねぇモリト、教えてほしいの。わたしはモリトを守れていたのかしら」 ハルは前足に頭を乗せ丸くなる。 「ちゃんと守ってくれてたよ。ハルはボクに汚いものは見せないようにって、恐いことがないようにしてくれてたんだね」 「でも、モリトは見たかったんでしょう? わたしがしてきたことは余計な事だった。……もし、わたしじゃなくて別の人だったら、本物の
獣 だったらどうやったのかしら。彼らの生き方がわかれば、少しはマシになると思ったけど……」 今でもどうすればいいのか迷っている。 「ハルは、生まれ変わって後悔してる?」 「少し」 よかったと言う事が出来ない。 「全部を後悔してるの?」 「……いいえ」 「ねぇ、ハルは自分の事を気高くないって言うけど、尊いものをたくさん持ってるよ」 「それはなぁに?」 「愛 しみの心」 見れば、どこまでも見通すかのような眼差しを注がれる。 「死んでしまったハルのお友達の事も、ボクの事も愛おしんでくれてる。誰にでもできることじゃないよ。……どうしてハルが色んな事を隠すのかわからなかったけど、ハルはその人との約束を守りたかったんだね」 でも、と続ける。 「ボクもハルを守りたい。ハルが思ってる以上にボクらは君が好きなんだ。だから今から言うこの言葉を疑わないで。――前世の記憶を持った今 のハルを愛おしいと思うよ」 ぼろりと、ハルの目から涙が零れた。 「意固地で融通が利かなくても?」 「うん」 「短命種との約束に反対しても?」 「うん」 「約束を破ったことがあるの」 「わかってる」 毛皮を濡らす涙をぬぐってやりながら、モリトは続けた。 「その人は死んじゃったけど、いつかまたどこかの世界に生まれる。いつ生まれるのかわからないけど、もしエディヴァルに生まれるなら今度はそんな事がないような世界を創ろう。短命種とボクとハルと、その人も皆幸せになれるような。誰かが辛い目にあってたら、差し伸べられる手があるように。だからそんな世界ができるまで待っていて」 「……。その約束は絶対に成就しない。頷くなんてできない。……どこまで行ってもわたしは変わらない。自分で嫌になるくらい頑固なの。でも、止めるなんて無理なのね」 独白し、ハルは首を振って目を閉じた。「ハル?」と不安そうに尋ねてくるモリトに、 「短命種の為に神木が命を削るのは許さない。あいつらが神木の最期を握るのも。だから全ての神木と約束を結んだとき、もう一度問いかけるわ。――それまでは目を瞑ってる」 しっぺ返しを喰らうのか、奇跡のように守られるのかはわからない。だが、頭ごなしに否定するのだけは止めようと思った。 神木は新しい道を見つけなければならない。それは獣が居ない未来でも彼らが暮らせるように。 獣は絶える。 これは変えられない事実であり、短命種は増え続けるだろう。 世界は新しい時代へと変わりつつあるのかもしれない。取り残される自分は、せめて一言告げて退場するのが相応しいのでは。 これが諦観なのかハルはわからない。 「では、魔界のことはどうするのですか」 「一度お話を聞いた方がいいと思うんだ」 誰に、と言うダグラスの問いに答える。 「魔王」 全ての元凶。 ★★★ 藍色の世界に沢山の罅が入っている。起きる前にできていた物より、ずっと大きく細かな罅だ。撫でながら、もう一人の自分が横に立っている。 モリトと話をして心は晴れた。 なのに、亀裂は細かく広がっていく。 一体自分は何を切っ掛けに眠りについたのか。 「本当にこれでいいのかしら」 「良いも悪いも、事態は待ってくれないわ」 そうね、と返す。 誰もが急ぎ足で運命を踏みつぶしている。