見ないふりをしていた

「フリュイが目覚めないと言ったでしょう……あれはきっと私のせいなのです。私は毎日”まだ、目覚めないで”と囁き続けたのですから」  そんな世界に誰が目覚めたいと思うだろうか。 「そうして、ある日。シルトが名前を変えると言いました。初代国王と、山向こうに国を移すまで国民を守った英雄王の名前です。それはリノン国では特別視されていましたが神木を見つけた自分はその名前を継ぐのに相応しいと。シルト王はゲデラー三世となり、アイゼルを殺しました」  オールドガム教を作り、彼の権威を脅かす者は異端審問にかけられ、国民に経典を配り思想を植え付ける。実に悪辣で賢いやり方をとった。  神木によって悪魔から脅かされる生活から抜け出したばかりの国民は、盲目だ。 「アイゼルは最後までリノン国に神木は相応しくないと主張し、舌を切られ首を落としました。その首は三日間、私の目に触れるように配置されたのです」  少しでも枯れかけたら二番目の王子が脅しつけた。ウルーラは彼が死ぬまで従い、死んでからも従うしかなかった。周囲は短命種で囲まれ、フリュイを守ってくれる者はいない。  沈黙を保ち続けて数百年。根の上に宮殿が建ち、辺りはすっかり様変わりしていた。愛していた湖も森も動物たちの声も聞こえない。 「あなたを最初に責めてしまいましたね」  どうかしていました、とウルーラは泣いた。 「でも、ようやく私は全てから解放されるのです。一番信頼するあなた達に、私のフリュイを渡すことができた。もうダメだと思っていたのに間に合った!」 「ウルーラ?」  涙は悲しみでは無く、歓喜だ。 「長い長い時間をかけて、私は少しずつゲデラー三世が行ったことを覆してきました。経典の内容、彫刻の無意味さ、ゲデラーを支持していると言うことを」  そうして少しずつ火種は燻り、前王は国の正しいあるべき姿に気づいた。行幸だった。ゲデラー三世を習うように欲望の塊となった王侯に気づいたのだ。 「今、外にいるマーシャも気づいた一人でした。彼は国としての正しい姿を取り戻そうと仲間達と共に王の足下に膝をつきました。――しかし王は死にました。毒殺だったと聞いています。王に成り上がったあの男はゲデラー三世によく似ていましたから、前王は廃嫡しようとしていたのを知られてしまったのですね」  ですが、と興奮するようにウルーラは続ける。 「一度ついた火種は消える事は無く燻り続けました。短命種は、この国の民は知りました。過去あった国の姿を、安寧の芽を摘んでいた者の正体を! そうして今日、全ては決行され彼らは自らの姿を見るのです」  さあ、迎えが来ましたよと、ウルーラは手を放した。戸惑うハルの頬を優しく撫でぎゅっと抱きしめると洞の外へ連れて行く。  そこは一面燃えさかる炎に巻かれていた。 「ウルーラ!!」  周囲を警護していた神官が事切れ、真っ赤な血が噴き出している。周辺の木々は燃えさかり、その火はウルーラにも及んでいた。 「これでお終い、全部のお終いです。短命種は自らの姿を見るでしょう。残虐で愚かしく、学習しない己の醜悪さをです。ハル、私はね、ゲデラー三世と約束を結びました。自ら枯れたりしないと、死に際に!」  引きつるような声は洞の入り口に駆けつけたモリトへ向けられていた。 「最初からこういうつもりだったの? 死んでしまうつもりだった? どうして、わたしがくるの遅かったからなの!?」 「違うわハル、何にもあなたのせいじゃないのです。これは私の選んだこと。愚かな短命種に安寧の地などやりたくなかった、私の恐ろしい心が掴み取った全部」  モリトは、悲しそうに呟く。 「生きる意味を失ってしまったんだね……」 「フリュイはどこへ?」  ダグラスと共にある。今頃は国境を越えただろうと聞いて花が咲いたようにウルーラは微笑んだ。 「ああ、よかった!」 「全然よくない!」  何もいいことなんてない、とハルは叫んだ。  膝をついたウルーラは戸惑いと困惑、絶望や悲しみといった感情がごちゃ混ぜになって奥歯を噛みしめるハルの顔をのぞき込んだ。 「フリュイを守るためだけに、今まで生きてきました。でも、もうそれも終わり」  モリトが後ろからハルの手を引く。続いてやってきたカリオンが、ウルーラの足下にマーシャを置いた。 「連れて行けない」 「……マーシャ、どうしますか?」  あの花を摘んできて、というような気軽さで聞けば、かすれた声で答える。頷いたウルーラは彼の頭を持ち上げるとそっと根に頭を乗せて顔をのぞき込んだ。 「ハル、モリト。最期にあなた達に会えてよかった。フリュイがいつか目覚めたときに伝えてちょうだい、私がどうやって滅びたかを。これまで神木がどうやって最期を迎えてきたかを」 「うん、きっとそうする。約束する」  規律がモリトに絡みつく。  炎は勢いを増していた。まるで生き物のようにうねっていく。 「忘れないで。今日起きたことは明日も当たり前に起こりうることなの。どんなに心を尽くしても、どれほど大切に思っても、世界は思うとおりに回ってはくれません。あなたが短命種と新しい約束を結ぶなら必ず争いは起きるでしょう」 「約束って、なに?」  ハルは、喉の奥がからからに乾いたような気がした。 「わかってる。でもそれを乗り越えてボクらは全てを巻き込むんだ。その先に欲しい物があるから」 「モリト……?」 「全部の悲しみをボクは知りたいよ。でもそれに飲み込まれて希望を捨ててしまいたくない。望んだ未来が欲しいから。この後ウルーラがどこへ行くのか知らないけど、その先で待っていて。いつか同じ所に行ったとき、たくさんお話がしたいから」 「モリトっ! 約束って何? 短命種とモリトが結ぶの?」 「そうだよ。そのためにボクは神木を回るんだ……。後でちゃんと話すから、今は逃げよう」 「二人とも背中に乗って捕まるんだ、火がそこまで来てるぞ!」 「でもウルーラは」 「ハル、行こう」 「でもっ!」 「ハル!」  狼狽えるハルの背中を押し、倒れかけたところにすかさずカリオンが胴体を差し込む。それを押さえつけるようにモリトがのしかかってくる。 「放して!」  ハルは振り返り黄金の瞳でモリトを射貫く。 「助けられないんだ! 火を消したとしてもウルーラは死を望み、フリュイをボクに託した。革命は成功するよ。でもここには悪魔がすぐにやってくる。血と涙の沼になって短命種達との醜い覇権争いは、いつまで続くかわからない。カリオン行って!」 「やめて!」  暴れるハルを押さえつけるようにモリトは強くカリオンに押しつけた。カリオンもハルの服の裾を噛みしめ、走り出す。 「神木が、ウルーラが死んでしまっても良いの!?」 「ウルーラはそれを望んでる」 「死を望むだなんて!!」 「怒らないでハル。ウルーラにとって死は安寧なんだ。フリュイを守りながらそれだけを望んでいたんだよ。彼女を苦しめる者がいないところにやっと行けるんだ」 「だけど、それは死よ。死の向う側に安寧なんてなかった、なかったのよ!!」 「ウルーラにはそれしかないんだよ。ウルーラの死は誰のせいでもない。だから許してあげて」  わからなかった。  死は全ての恐怖の根源だ。手荒く心臓をつかみ取り、引き抜いて生を奪う。孤独と別れに身を引きちぎられ、摂理が体を還元させようと腐らせ始める。  思い出したくもない過去が音を立てて魂を軋ませる。  苦しかった。  息をしているのにちっとも肺に空気が入らないような、誰かに胸を押さえつけられているような不安が足をすくませる。  炎に全てが巻かれていく。枝の先まで枯れ果て乾ききり、炎は芯まで食い込んでいくだろう。  人々の悲鳴の間を突き進み、三人は背を向け逃げた。  炎に巻かれながら、青年は横たわる。その頭をそっと自分の膝に横たえ直したウルーラは、彼の頬にこびり付いた煤をぬぐう。  そんな彼女に、マーシャは苦笑したようだった。もう殆ど力は残っておらず、かすかな変化だったが。 「ウルーラ、知っていますか? あなたのよく話してくださった、アイゼル。彼には息子がいたのです」 「まあ」 「あなたに婚姻を申し込み、懸想していながらも子を残した……」 「その子達はどこに?」  目の前に、とマーシャは血を吐きながら言う。 「アイゼルの子は、国を追われ諸国を放浪し……最期に、ここへ戻って来たと言うことです」  生前、アイゼルが綴った日記が呪いのように子孫達に受け継がれていた。マーシャの手には既に無いが、内容を改めたことがある。彼の献身やウルーラに対する切望、熱、赤面するほどの本音や愚かさも書かれていた。  王族と言えどアイゼルは凡庸な男だった。だが、だからこそ善意ある心を持てたのだろう。処刑される場面は別人の手記だったが、それでもマーシャは先祖が悪人だったわけではないと知り、心強かったのを覚えている。  そしてアイゼルが愛した神木に会ってみたかったのだ。人によっては神官を目指すには不純な動機と言うだろう。だが、ウルーラを祭る宗教に関して言えば、それ以上の理由は必要ないように思えた。  話し通りウルーラは怯えやすく泣き虫で、率直な彼女は偽ると言うことを知らなかった。  誰よりも素直で少女のような魅力的な女性だ。 「……あなたを守りたかった。たとえ、あなたが短命種クオルトを嫌いでも」 「どうして?」 「アイゼルの子孫だと痛感しましたよ――愛しています」  まあ、とウルーラは口元に手を当てた。  そのたおやかな仕草が好きだった。無防備な姿は心臓がぐちゃぐちゃになるような、もっと見ていたいような気がする。  この思いも時を経れば、アイゼルのように穏やかな波の揺らめきのようになっただろうか。  ほとんど見えなくなっていたが、かすむ視界の中でも炎の色が見える。それは神木をも燃やし始め、取り返しがつかないところまで広がっていた。 「最期に、あなたの本当の姿が……みた、か――――」  ふう、と息を吐いたマーシャにウルーラは微笑んだ。 「短命種なんて大嫌いよ。私を苦しめることしかしなかった。でもあなた達といるときだけ、辛いことを忘れてたわ」  ウルーラは自らを隠すのを止めた。  木は飛び移った火で紅葉しているかのように鮮やかだった。炎が影をかき消すようにちらちらと輝いている。 「ねえ、見ている? あれが私です」  マーシャの頬を撫でながらウルーラは指差す。  炎から生まれるように白いつぼみが現れた。限界まで膨らんだ花は弾けるように開花し、ふわりと熱風で舞い上がる。 「どうか、届きますように」  この死の先には何があるのだろうか。  何も無いのだろうか。  もし何かがあるならば、綺麗なものだけがある場所だったらいい。  ウルーラはそう願う。  願いながら仲間達が消える時に聞いた言葉を、自分が怯えたその言葉を告げる。 「短命種よ、自らの欲に濡れた者達よ、我らを切り倒した者達よ、この声を聞け。その身に降りかかるのは、この国全ての者が掴み取った全て。お前達に災いがあらんことを!!」  刹那、ウルーラの体が黒炭のように染まり始めた。神木の中心から枝葉の先まで塗りつぶされるように黒くなると、端から崩れていく。 「マーシャ、お休みなさい。もうあまり時間はないけれど子守歌を歌ってあげましょう」  かつて眠る獣の背中を撫でながらそうしたように、ウルーラは歌い始めた。  声は風に乗ってどこまでも遠くへ運ばれる。  恨みの声も、慈しみの歌も一緒にして。  黄金の絨毯を食いつぶすように赤色は栄えた。 ★★★  歌が止まった。  周囲を覆っていたものが酷く薄くなったのを感じる。結界が薄くなったのだろう。  ウルーラは滅びたのだ。  炎の赤を塗り上げたような空に、ぽつり、ぽつりと不自然に紫色が浮かぶ。巨大な首がのそりと覗きこみ身を乗り出してくる。  悪魔がやって来た。  山の頂上付近で国を見ていた三人は無言で見つめる。  ウルーラによって悪魔の恐怖を知らなかった彼らはどれだけ戦えるだろうか。おそらく民のほとんどは今夜のうちに命を絶たれるだろう。  そうわかっていても助けようとは思わなかった。  どうして、と空虚な問いだけが繰り返し頭の中を回っている。  紛らさせるように足下に落ちた白い花を拾い上げると、独りでに花びらが口を閉じ、ハルは潰さないようそっと飲み込む。  樹液の香りが口の中に広がった。 「もう行こう。ダグラスを待たせているから」 「ダグラスも約束のことを知っているの? カリオンも?」 「知ってるよ。でもカリオンには詳しく言ってない」 「だが、そういう話は聞いた」  「いつからなの」  胸が苦しい。  呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ。 「いいえ、わかってる。ファズの所からでしょう」  取り憑かれたように王城を見つめ続けるハルを背に乗せたカリオンは、後ろにモリトが乗るのを確かめると歩き出した。 「わたしにだけ、どうして言わなかったの?」 「反対されると思ったから」 「当たり前よ!!」  見たでしょう! と振り返れば強い視線が返ってくる。 「モリトが何を考えてるのか、わからないわ。ウルーラが言わなきゃ最後まで知らないままだったの?」 「ごめんね。でもボクは短命種全体と約束を結ぶって決めたんだ」 「何のために? ウルーラを見てもまだ慈悲をかけるって言うの?」 「ううん、ボクらのために。ボクが住みたい世界を作るために。理不尽に泣かず、傷つかず、短命種の思いに惑わされないように、獣がもう命を削らない世界が欲しい」  それだけならば、ハルは強く反対しない。  もっと別の要因があるはずだと考えて顔を強ばらせる。 「何と引き替えに、交渉を持ちかけたの」  もうごまかせないとモリトは頷いた。 「ダグラスの所へ行こう。そこでちゃんと話すから……ハル? ハル!?」  電撃が走ったかのような衝撃に、視界が白く染まった。  左手がとっさに心臓の上を掴んでいる。  急停止したカリオンは慌ててハルを寝かせると顔色をみる。 「ハルッ!」  胸が痛い。  確かに痛いのに、心臓が痛むわけでは無いとなぜかわかる。もっと別の大切な部分が壊れそうになっているのだ。  ああ、と唐突に気づく。  割れそうなのは魂で、亀裂から死の記憶が吹き出している。  全てが終わったはずなのに、暗い場所で自分の吐く気泡を見ながら死んでいくのがわかる。  水中に投げ出されたようにハルはもがいた。  息ができない。 -------- 四章(完)