白い世界の中で
生き物は必ず、二つの器を持って生まれてくる。 肉体と魂だ。 肉体は内臓や生きるのに必要な物の器。そして魂は精神の入れ物である。 マトリョーシカのように魂は肉体の中にしまわれているため、外傷によって魂が傷つく事はまずない。 では、魂が傷つくのはどんなときか。 深い肉体の損傷を受け、体が死ぬと共に魂も傷つく。 外傷を受けずに魂に傷が付くことは殆どあり得ないが、そのありえない損傷を起こしていたのがハルだ。 彼女は生まれた時から魂に傷を負っている。 死した生き物全てが必ず負う傷であり、神の腕に戻ったとき魂の損傷は癒やされ前世の記憶は消える。この過程を経て肉の器の中へ魂は入り、生まれ落ちるのだ。 輪廻転生はあり得るのだ。 今回の事は特異事項であり、本来なら起きるはずが無かった事象だ。地上に生きる者達は魂の傷を癒やす術を知らない。思いつきもしないだろう。その必要が無いのだから。 「魂に傷が入っていると、どうなるんだ」 「精神が外に出やすくなって、廃人になりやすくなるっておかあさまは言ってた。意志がなくなるんだから、体はただの器になるって……」 「ハルの魂は、壊れたのか?」 「……まだ傷が深くなっただけだと思う。でも、今後はどうなるか分からないよ。このまま眠り続けたら、体の方が先に弱るから一緒に死んじゃうかも」 「どうにかならないのか」 カリオンは詰るような物言いを止めることができなかった。ダメだと思っても口を接いで出てしまう。 沈痛な表情でベッドの端に座っていたモリトは眠り続けるハルの背中を撫でた。 擬態が解け、四肢を投げ出している獣が一匹。かすかに上下する胸元で生きているのが分かるほどしか生気を感じられない。 倒れた日からちょうど四日が経った。 目立った外傷も無く、目を覚まさず昏睡し続けるハルを医者に診せたりもしたが、原因がわからないと言う。ただ、外傷ではないと断言していた。 押さえていた胸の音も正常なら、考えられる事は一つだ。 モリトは魂の損傷を確信した。それなら倒れて意識を失った直後に擬態が解けたのも納得できる。 擬態は肉体を変化させるが、まず魂を変化させなければならない。簡単に言えば、魂の形を体に反映させるのだ。 そのためハルは己の変身を擬態すると言い、神木などは肉体の変身ではなく精神の形を外に作り出すことから精神体を取ると言う。 魂に何らかの問題が発生したため、正常に擬態をとれなくなった。 これ自体はよくあることだった。 ハルは元々傷付きやすく、どうしても認められないことや辛いことがあると擬態できなくなった。 しかし眠り続けるまでではなかった。最後にもがくように倒れた姿に不安を覚える。息ができず、カリオンが口を塞いで息を何度も吹きかけなければ死んでいたかもしれない。 傷付きやすいことを知っていたのに、思いをぶつけるようにして蔑ろにしてしまった結果がこれだ。守りたかったはずなのに傷付けてばかりいる。 「ごめんね、ハル。ごめんね、死なないで……」 額をこすりつけるようにして、モリトは呟く。 「……おかあさまの所に、一度帰ろうと思う」 「モリトの母親? ……神木の元にか?」 うん、と頷いて顔を上げる。 いつもの快活さは也を潜め、カリオンもまた、表情が硬い。 「そこへ行けばどうにかなるのか?」 「わからないけど、ここに留まるよりはいいと思う。だって、もうすぐ冬が来るから」 空気はますます凍って、確かに冬は近かった。 既に降り始めそうな天気に町はどんよりしている。 リノン国から逃げ出すようにしてたどり着いたのは、国境を越えた場所にあった小さな町だ。 「そうだな……。それに治安も悪くなりそうだ」 リノン国から逃げ出した国民が続々と押し寄せている。彼らは口をそろえて神木が燃えた事を告げ、噂は鷹よりも早く飛んでいるかもしれない。神木が枯れれば悪魔がやってくる。他国も無関心ではいられないだろう。 彼らの証言が自分達の事に繋がらないとも限らない。一刻も早くこの場を離れるべきだ。 何も悪い事はしていないが、巻き込まれるのもごめんだった。今はハルにどんな衝撃も与えたくない。たとえ眠っていて周囲の状況がわからなくとも。 「目的地はどこなのですか?」 黙って壁際に控えていたダグラスが呟いた。目元に隈ができているのは毎晩何か書き物をしたり、ハルの様子をつぶさに観察しているからだ。ダグラスも何か方法がないか思いつく限り試している。 「最南端にある「
雪白木 の森」だよ。ここからなら、そんなに遠くないと思うんだ」 「……常に雪に覆われた春を知らない魔境。かなりの準備をしないと氷の彫像です」 「二人は冬ごもりの準備をした事はある? あそこは一度吹雪いたら外には出られないよ」 「そこまで厳しい寒さの中で暮らしたことはありません。……カリオン殿もそうではありませんか?」 「ああ、俺も無い。……必要なのは薪と服と、シャベルか?」 「布もあれば魔術を施しましょう。暖房に最適な魔術を知っています。それよりも、ここから南なら既に雪が降っていのでは? 猶予はあまりないかと」 二人は頭を付き合わせて相談を始めると、必要な物をリスト化していった。それをモリトが見てもよく分からないため、最終的には町で食料品や荷車を買うことになる。 南に向えば防寒用の道具が売っているだろうということで、カリオンとダグラスは手持ちの金貨を数える。どれくらいの金額か見当が付かないため、道中でカリオンが狩りをすることになった。悪魔がいれば殲滅して丸ごと課金だ。 「しっかり捕まっていてくれ」 カリオンは分厚い滑り止めのついた手袋をはめる。荷物は紐でしっかりくくりつけられ、しがみつくようにモリトとダグラスが乗っていた。 膝の上に乗せたハルは分厚い布でくるまれている。紐でモリトとしっかり繋がり、鼻先をちょんとつつくと、 「それじゃ、飛ばすからな」 カリオンはハルの耳元に唇を寄せ、荷車の取ってをしっかり掴むと歩き出した。 商人のように品を買い集めて整えた彼らは、スピードを徐々に上げていき、すぐに町は小さくなった。 ★★★ 雪が溶けることの無い氷の大地を見下ろしながら、彼女は一枚、また一枚と葉を落とす。でなければ積もった雪で折れてしまうから。 こうして一人でいると、何もかも忘れてしまいそうだ。笑い方も言葉も心も。 しかし送り出したのは自分で、便りが無いのは仕方ないと言えた。 ただ一人、全てが沈黙する大地で滅びを待つのだ。かすかに思考だけを動かしながら。 この地に初めて来たとき、何て美しい場所なのだと感動が溢れた。しんしんと積もる雪は全てをなめすように平らにし、一つの痕さえ許さない。寒さに特化した動植物の逞しさに胸を振るわせた。それは今も変わらずあり、しかし見慣れた物でもある。 物足りないと思うのは寂しいからだろうか。だがこの地は住みよいとは言えない。 「幸福を抱けるのか」 獣にとって、ここは寂しい場所だ。身を寄せ合う暖かな生き物、心を許せる何か。一つとして無い。 「雪の溶ける先に希望はあるか」 わからない。 地平線まで雪が積もっている。その先のことを彼女は知らない。 送り出したのは正解だったのか。 いいや、悩むまでもなく正解だった。なぜなら幼子は獣である。ならばたった一人でも出て行ってしまうだろう。事実そうだった。心の安定している内に外へ送り出さなければならない。 傷付き不安定になるだろう。しかしモリトがいれば多少周りと接点を持つはずだ。悪い短命種とも、良い短命種とも。 もし。 もし帰ってくる事があるならば、そのどちらかにも会い―― 「私は愚かだ」 断言し、レイディミラーは精神体を取る。 雪の中にぽつり。 ほんの些細な異変があった。それは確実に自分を目指してやってくる。 数は三つ。 短命種が二人とモリトがいる。 あの可愛い子はどこにいるのか。 腕の中だ。ぐったりとして擬態が解けている。 もし帰ってくる事があるならば、酷く傷付いていると思っていた。魂に負った傷は、そう簡単に治らない。 わかっていたはずなのに、真実理解していなかった。実感していなかった。共感してやれなかった。痛みをわからなかった。 「私は間違ったのか」 獣は心を傷付け最悪の状態で帰ってきた。 顔が見えるほど近づいてきた彼らの元へ進み出れば、灰色の分厚いコートを被っていた男がフードを取った。頭に乗っている尖った耳を見て、少しだけたじろぐ。 「混血児か……。私の息子を連れてどこへ行く」 「あなたがレイディミラーか。俺はカリオン。後ろに乗ってるのはあなたの息子とハル。そしてダグラスだ」 目が覚めないんだ、とカリオンは力なく首を振りながら続ける。 「モリトは魂に傷が付いたと言ってる。たのむ、ハルを助けてくれ」 「お前に頼まれる筋合いは無い」 背が伸びている息子を見つめ、その腕の中の獣を見つめる。 「それは、私の娘だ」 レイディミラーは己の洞に彼らを招き入れた。 ――長い長い冬が始まる。