結論は最初から

 恐ろしいことに、アイゼルはたびたび湖にやってくるようになった。頻度は低いが、ウルーラは短命種がやってくるようになった場所に行くわけにも行かず、遠くからそっと様子をうかがうことにした。  アイゼルは朝にふらりと現れたり、昼にちょっとだけ顔を出して帰って行った。その後は来る様子がないことに気づき、ウルーラはアイゼルが帰った後にそっと湖に足を浸すことにした。  その日もアイゼルが帰ったのを確かめた後、湖に足を浸して休んでいると「お嬢さん」凍り付いたウルーラは弾かれたように振り返った。  男は数メートル先に立っている。一人のようで、白っぽい服に身を包み、青いマントを着けている。アイゼルとは違う見たことのない短命種は、柔和な笑みを浮かべて踏み出した。あからさまに怯えた様子を見せると、おやと首をかしげて立ち止まる。 「泉の精霊さん、アイゼルと一月前にあったのは間違いないでしょうか? 僕は彼の兄でシルトと申します」 「何のようです」 「弟があなたの事をかなり気にしていました。一度会っていただけませんか?」 「いやです!」 「きちんと謝罪しない限り湖に永遠に通い詰めるそうですが、そう言っても?」  それは困る。  短命種の寿命がどれだけかは知らないが、唯一の慰めが湖に来ることだった。最近は獣の訪れもなく、ウルーラは悩む。 「合えば気が済むの? もう二度とここへは来ないのですね?」 「それはわかりませんが、弟は毎日ここに来るようですよ」 「困るわ」 「でしたら明日、太陽が一番高く上がった頃に弟をここへ寄越しますから、そこで話をなさってください。兄としては弟を応援しようと思っているのでね」  そう言い残して、シルトは去って行った。  ウルーラは精神体を解き、百年は湖に行けないことがわかって酷く落ち込んだ。もちろん言われた時刻には顔を出さない。約束をしたわけでもないし、わざわざ短命種に会いに行ってやめてくださいとお願いしても聞いてもらえるかわからないからだ。  ならば、何もしないほうがいい。  毎日太陽が一番高く上がる時間にアイゼルは湖を訪ねた。数時間いることもあれば、すぐに帰る事もあった。共通していたのは何かを探すようにすること。  それから「お嬢さん、どちらにおられますか」とウルーラを呼ぶのだ。  一年も続いた頃、ウルーラはいっこうに自分を呼ぶのを止めない短命種に、本当に大切な用事があって自分を呼んでいるのではないかと思うようになった。用事があるからと言って顔を出すことはできない。  もう一年様子を見て、まだ呼んでいるようなら声をかけてみよう。  そうして彼を見つめることにした。  アイゼルは彼の言った通り山向こうから来ているようだった。そこには短命種が集まって営みをしている。以前はそこには川が流れていて、魚達が飛び跳ねていた。彼らの鱗は湖面を揺らし光を反射し、宝石のように輝いていた。見えなくなって久しい。湖は澄み切っているが魚はいないようだった。  こりずにやってくるアイゼルは、しだいに「お嬢さん」とウルーラを呼ぶことは少なくなった。代わりにたくさん紐をくくった不思議な音の出る道具を持ってきては音をならしていく。彼の独り言によると小さいハープという楽器らしい。小鳥のさえずりよりも繊細で水面がたゆたうよりも広く響いた。  そうしているうちに、一年が経ってしまった。  ウルーラは湖の周辺にある茂みに精神体を潜ませて、そっと辺りをうかがった。アイゼルは湖面を見つめながらやはりハープを弾いている。その背中におずおずと声をかけると彼は楽器を取り落としながら立ち上がった。 「お嬢さん!? どこにいるんだ」 「そ、そこから動かないで! う、動いたらすぐにどこかに行きますよ! ……あの、私に何のご用なの?」  ずっと前に彼の兄から聞いた事を告げると、アイゼルは「余計なことを」と前髪をくしゃくしゃ混ぜた。それから座り込むと「あの後、無事に帰れたか気になっていたのです」と話し始める。 「そんなことで毎日ここへ来ていらっしゃったの?」 「俺にとってはそんなことじゃない。あの後もう一度あなたを見かければ安心できただろうが、姿が見えなかった」 「あなたのお兄さんに会ったわ」  言えば、彼は不機嫌そうに口を引き結んだ。 「どうして俺は避けて兄上には会うんだ。不公平だ」 「あなたとだって会ってるじゃないの。何を言っているの?」  むっつりした彼は口の端を引きつらせてハープを引き寄せた。ぽろぽろと手慰みのように音楽を奏で始め、ウルーラは首をかしげながらも耳を澄ませた。  一曲が終わり、二曲目が始まり三曲目。次第にテンポも曲調も緩やかなものから早く変わってきた。そうして唐突に小さくなる。ウルーラは耳を澄ませながら茂みからそっと顔を出した。その目の前にアイゼルが立っている。  瞠目する間もなく腕を引き寄せられ、ウルーラは茂みから体全部を取り出された。 「いやああああ! 離してっ! 誰か、誰かっ」 「落ち着け、誓って何もしない」 「どうしてっどうしてっ」 「……。あなたは警戒心はあるが不注意だな」  ハープを置き、怖がって泣き出したウルーラを持ち上げアイゼルは顔をしかめた。ウルーラの足には靴がなく、つま先の丸い爪が覗いていた。いけない物を見た気分になりながら、茂みの中を探しても靴はどこにもない。 「あなたはどうやってここへ? 年頃のご婦人が靴を履かないのは危ない。ご両親は何をしてるんだ」 「お、お父様もお母様も天へ還りました。私はここに一人でいるのです。ねぇ、もうご用はお済みでしょう? か、帰していただけないかしら」 「一人? この辺で一人暮らしなのか、女性が?」  恐ろしい顔をしたアイゼルはそのままハープを拾うと歩き出した。 「いつからだ」 「どこへ行くの? や、やめて恐いっ!」 「いつからだ!」  やはり声をかけるのではなかった。  後悔に胸が押しつぶされそうになったとき「我が家に向かい入れる」とアイゼルが言い出した。住み込みの仕事があるから、それをすればいい、と。  彼にとってウルーラの境遇は誰かの庇護下に置かれるべきものだという。若い女性が世捨て人のように森に一人で住むなど危険であり、暴漢はもとより森の動物に襲われる可能性だってある。男手の必要な事も往々にしてあるだろうし、病気一つしたところで看病する者などいないからだと。 「病気なんてしないわ! それに、暴漢はあなたじゃありませんか。どうして何でも勝手に決めつけて思い通りにしようとなさるの! もういや、誰か助けて……」  哀れっぽく泣く彼女にばつの悪そうな顔をしたアイゼルは渋々降ろすと膝をついて手を取った。 「確かに強引だった。俺はよくそう言われ諫められるんだがあなたに会えて少々自制を忘れたらしい。どうか泣かないでくれ。怖がらせたかったわけじゃなく、あなたを保護したかったんだ」 「保護?」  思っても見ないことを言われ、ウルーラは涙を止めアイゼルの顔をじっくり見つめた。嘘を言っているわけではなく本気でそう思っていたことがわかり心の底から驚いた。驚きをどうとったのか、アイゼルは不意に視線を外した。 「本来なら女性が一人で生きていくのはとても大変な事だろう? 食事や家を保つのもそうだが、あなたは狩りが得意そうにも見えない。できそうなのは果物を採ることか? とても手が綺麗だ……あ、いいや! とにかく女性が困っているなら手をさしのべるのが男というものだろう?」 「そうなの、かしら……」  同族の男達を思い出し、ウルーラは首をかしげた。獣伝に話を聞くしモリトの頃は一緒にいたがそんな気配みじんも無かった。時々話しても今は情報のやりとりが多いか、いつの間にか枯れていることが多い。  知り合いがいつの間にかいなくなっている。  洞に書かれた世界図には少し前まで新しく根を植えた神木の場所や名前が記され続けていた。今はそれに線が引かれることが多く、獣がやってこなくなってからそれも途絶えている。  彼らの安否に暗い顔をしたウルーラにアイゼルは慰めるような視線を送る。奇妙なことだ。彼は会ったばかりのウルーラを心配し、二年も湖に通い詰めた。 「あなたが私の事を本当に心配してくださっているのがわかりました」 「そ、そうか」 「どうぞお立ちになって」  耳が赤くなっているのが気になったが、ウルーラは初めて彼に微笑みかけた。 「でも、安心なさって。私はずっと昔からこうして暮らしてきたし不自由だと思ったことはないの。あなたも私の事を心配して湖に毎日来るのはよくないわ」 「だが……それでもあなたのことを心配させてはくれまいか」 「なぜ?」  立ち上がった彼はウルーラより頭一つ分高かった。目を伏せるようにウルーラを見つめたアイゼルはもごもごと口の中で言葉を租借すると、言う。 「俺のために」  おそらく彼にとっては渾身の口説き文句だったのだろう。しかし神木たるウルーラが短命種の風習や生活を知るわけもなく結局意味は通じない。首をかしげたウルーラに内心泣きたい思いになりながらも彼は賢明に次に会う約束を取り付けなければならなかった。  本人を知る者がいたら涙ぐましいまでの努力だったと言うだろう。幸いにも目撃者はおらず、ハープの音を合図に二人は少しの間だけ話すこととなった。  アイゼルは強引だが根は素直で優しい青年だというのはすぐに分かった。まず、彼は嘘をつかなかったしウルーラに酷いことをしようとは考えていないようだ。言葉の端々から彼女を大切にしようという思いが伝わってきたし、ハープと共にもってくる街の品も物珍しかった。  勿論、彼は短命種だ。  ウルーラはそのことを忘れたりしない。アイゼルはウルーラが神木だと気づいていないからこうやって親しくしているのだと言うこともわかっている。  湖の縁で二人はハープの音色と共に会話を重ね、ウルーラの裸足の足はアイゼルの持ってきたシルクの靴下とかわいらしい靴に包まれ、冬には鼻の先まで隠れるような大きなフードのついたコートにすっぽりと覆われたりもした。  洞には贈り物が増え、ネジを回すと音の鳴る箱は一人の時のウルーラの楽しみとなった。  しかし一つだけ彼女は失念していた。アイゼルが短命種であり、彼には寿命がアルト言うことだ。日々の中で少しずつ変化する姿はあまりにも早く出会って六年が経った頃、アイゼルは立派な青年に成長してしまった。  彼はすでにウルーラが少しおかしいと気づき始めていた。しかし彼女に聞くことは無く、内側の輝きを少しずつ高めていった。  ウルーラはあれほど警戒しなければいけないと思っていた相手なのに、アイゼルに対して無防備になっていた。彼もそれは分かっていたので、細心の注意を払ってウルーラに会いに来た。周囲の者達に知られぬように。そのため、訪れる頻度は少しずつ減っていった。  あるとき、アイゼルはウルーラに結婚を申し込んだ。これに彼女は飛び上がるほど驚き動揺した。楽しい一時はもう終わりの時間。ウルーラはそれを断り姿を消した。  ハープの呼びかけに答えることもなくなり、遠目にアイゼルが帰って行く姿を見送った。  アイゼルはしつこい男でもあった。  一年、二年見送っているが諦めることなく再びやってくる。  そうして出会ってから十年以上が経ったとき、大嵐がやってきた。五十年に一度やってくる嵐は容赦なくウルーラを揺らしたし、森の動物達も安全な場所で身を隠した。そんな中でハープの音が聞こえたときウルーラは絶句しながら湖を見つめた。  アイゼルがいた。 ★★★  かすかに拾った声は引きつりうわずっていたから、カリオンは目を覚ました。  跳ねるように起きた彼が鋭く視線をやると、モリトの目に涙が盛り上がる寸前だった。ダグラスの顔が強ばっている。周囲を見回せば配達人も目を覚ましたところだった。 「ハルがいない!」 「ハルはどこだ?」  カリオンとモリトは顔を見合わせ、状況を理解する。  地面に書かれた文字はハルの筆跡だ。先に行けという言葉に舌打ちせんばかりに顔をしかめたカリオンはダグラスを見た。 「ハルは神木の所へ向かったんだろう。俺達は彼女を迎えに行くから、二人はリノンを出た先で待機していてくれ」 「待ってください、それなら僕も共に行きます」 「ダメだ。これからリノンは戦争が始まる。ダグラスを連れてじゃ守りながらになるかもしれない。遠くで足音が聞こえる、始まっているかもしれないし――」  首元のボタンを外し、カリオンは指先をなめらかに下げていく。上着を脱ぎ捨て靴を放りだし、炎が半身を照らし出す。それが急に形を変えた。  二つ目の姿をとったカリオンの背に素早く乗ったモリトは首元の毛皮にしがみついた。 「あんたが乗ると足が遅くなる。これでも俺は村で一番足が速かった」  絶句している配達人に一瞥をくれ、 「このことは誰にも言うな。いいか、三日経って誰も戻らなければ教団へ戻れ」  四つ足で力強く地面を蹴り、走り出す。 「カリオン、ハルは無事かな。嫌な予感がたくさんするんだ」 「彼女は簡単に負けたりしないぞ」 「そうじゃない、不安なんだ。獣は神木を守るためなら絶対に逃げないから」  紅葉した紅葉のような服を纏った女性を思い出す。剣一本握ったことも無いような細い指、か弱い姿。そして、動けない神木だということ。  カリオンも心の底でわかっている。  その場がどんな状態になろうともハルは逃げない。  自分を大切にしないからだ。  それは、加減を知らない戦い方からも容易に想像できた。 ★★★  外が騒がしい。  ウルーラの膝に横向きに座っているが、ハルの尖った耳はしっかりと洞の外の様子をとらえていた。 「ウルーラ、外の様子がおかしいわ」 「大丈夫です。それより話の続きを聞いて」  そう言いながら彼女は片手を伸ばし髪留めを選ぶ。彼女の服のような真っ赤なかんざしには銀でできた花飾りが添えられ、中心には真珠が埋め込まれていた。それだけで一財産ありそうな高価な髪飾りである。  ハルの髪を器用に括り、編み込んだウルーラは最後に髪留めで固定すると剥き出しになった両耳を確かめるように触る。懐かしむかのように遠い目をしているせいで、ハルは何を言っていいかわからなくなった。 「よく、あの人がこうして私の髪を束ねました。――嵐の時の続きですけれど、アイゼルを洞に入れ、過ぎるまでかくまってしまったのよ」