愚かしい

 そうして国境付近まで歩き夜が深まってくる頃に野営をした。明日には国をでて、配達人とはわかれる。聞こうと思ったことは何も聞けず、彼らは早々に食事を済ませると寝る準備をした。ダグラスは書き物をしたいとのことで、火の番は最初が良いと言う。次にハル、モリト、カリオンと続くことになった。  本当は眠っていても周囲の気配はわかるし、動物が近づいてくればわかるのだが、ダグラスは全てを人任せにすることを嫌がった。布に包まれると火が小さく跳ねる音が聞こえる。それから紙をひっかく音。  モリトはすぐ隣で一緒の毛布に丸くなっている。少し離れた所にカリオンが転がっていた。彼も毛布にくるまるようにして眠り、荷物は枕になっている。  リノン国まで来る間、彼は三人一緒に寝たがったのだがハルが嫌がれば半泣きになったりで大変だった。  耳を澄ませ、配達人とカリオンが眠ったことを確認したハルは、モリトを見る。ぐっすりと眠っているようで、起きる気配はない。ゆっくりと枕にしていた荷物を動かすとモリトの腕の中に突っ込む。すると、もそもそ動いたモリトはそれを抱きしめた。  よだれを指先でぬぐってやりながらそっと顔を動かし、ダグラスが書き物に集中している間に、地面に指を滑らせた。そして誰にも気づかれないように抜け出すと来た道を全力で戻り出す。  ハルは獣だ。  獣はずっと、神木を守って生きてきた。  ならばウルーラを守らなければ。  それが正しいことだとハルは信じている。 ★★★  炎が見える。  暗がりを埋めるように松明を掲げた群が見えた。煙にのって濃い油の香りがする。手入れをされた皮防具の香りだ。そして高ぶった生き物の気配。森の動物達は異変に耳をそばだて遠ざかろうとしている。  王宮側は既に気づいているようだ。城門に慌ただしく騎士達が隊列を組み始め、住人達は荷をまとめ家に隠れようとしている。走る子供が転がった。すぐに起き上がり大人が引きずるようにして戸口に押し込む。  注意は完全に前方へ動いている。騒がしい方向とは別へ走り始めたハルは王城の壁を目指す。勢いを付けて木に飛び乗り人気が無いのを確認した後、登り始める。施された彫刻のでこぼこに手足をかけてのし上がれば金属がかち合う硬質な音が聞こえ始めた。  登り切って周辺を見渡せば近くに階段がある。なんて攻略しやすい城なのだろうか。箱のように四角いリノン王城は城壁も薄く実用性に乏しいどころか何も考えずに設計されている。いや、芸術的には実に美しい城だ。しかしそれではただの住居。王族は己が城が攻められることなど考えられなかったと言うことなのか。  愚かしい。  階段ですら優雅な曲線を描き、敵を阻む仕掛けの一つも無く、常駐する兵士の勇ましいかけ声も聞こえない。 神木はどこだったか。  侵入者を惑わせる仕掛けすらない庭をつっきればあっけないほど簡単にステンドグラスの大扉を見つけた。そこまで来れば簡単だ。  ハルはマーシャに案内されたとおりに道順を行く。 「何者だ!」  神木の周りに人が集まっている。  掲げられた松明の光に入るように足を止め、見上げればマーシャは顔をしかめた。 「なぜ来られたのです」 「わたしが獣だから、神木を守りに帰ってきたの」  意味がわからないと言うように顔をしかめたマーシャは膝をついた。 「いけません、なんのためにあなた方を逃がしたと思っているのです。全てはウルーラ様の望んだことゆえ案内を付けてまで安全を図ったというのに! これでは水の泡だ」 「マーシャ様、革命軍と騎士達が応戦を始めています」 「……わかった。お前達は近づく者がいたら排除しろ。神木には一歩も近づけさせるな。――今すぐお逃げください。ここは危険です」 「これ以上の危険の中をくぐったこともある。わたし、戦えるわ」  そっと鉄剣を抜き放つと何者かがハルの肩をつかんだ。振り返りざまに剣をかまえかけ、降ろす。 「ウルーラ」 「なぜ、ここへ来たのです……」 「わたしは|獣(テール)だから、今度こそあなたを守るの」  動揺したように瞬いたウルーラはハルの背を押した。そして洞に放り込むと一通り体を確かめて鉄剣をしまうよう言う。大人しく従えば、他の者はどうしたのか彼女は聞いた。 「皆は先に行ってるようお願いしたわ」 「一人で来たのね? ……今すぐ王城からお逃げなさい、ここは酷いことになるわ」 「なら、一緒にいるわ」  ぎゅっと手を握ればウルーラは泣き出した。 「だめだわ! この土地の短命種は恐ろしく欲深いのです。あなたに何かあったらどうするの?」 「そんなこと気にしなくていいの。好きでここに来たのよ」  だめよ、と繰り返してウルーラはますます泣いた。 「やっと念願叶ってフリュイを逃がせたのにどうして大切な者は私の懐に戻ってくるのでしょう。もうあんな思いをしたくないのよ」 「昔、何かあったの? 短命種と約束を結んだけどウルーラは大切にされてこなかったの?」 「私は傷つけられることこそ無かったけれど、それはただ外傷がなかったと言うだけのこと。恐ろしい男がいたわ。優しい人は殺されてしまった。私が見つかってしまったばかりに……」  ウルーラは語り始めた。  まだゲデラー三世もオールドガム教も無かった頃、短命種は神木の重要性にやっと気づき、奪い合うように戦争が勃発。大陸は戦火に焼かれ焦土が広がり怨嗟に隠れて悪魔が暗躍する、そんな地獄のような時代の話。  東の端、険しい山々に囲まれた場所に根を張っていたウルーラは、日に日に仲間の数が減っていくことに震え、今のように隠れることにした。周囲にある木にそっくりの姿に身を変える。窮屈だったが滅びの際に神木達が伝える嘆きはあまりに辛く恐ろしかった。  当時、この周辺には美しい湖があった。底が見渡せるほどに澄み切り、晴天を鏡のように反射する神がかったほどに美しい湖が。  澄み切った湖は見る者を惑わせるようだった。例えば深さ。落ちて溺れてしまう子が出るからと、ウルーラの洞にくるのは大人の獣が多かった。  少し寂しかったが、溺れて死んでしまう獣が出ない方が良い。それにこの場所を選んだことをウルーラは後悔したくなかった。  周辺の森の緑は濃く、動物達の声や虫の鳴き声に耳を澄ませれば心が落ち着き、季節に咲く花は湖を囲うように咲き乱れる。  ウルーラは隠れ住みながら、ときどき周囲を伺って湖面に足を付けて景色を眺めるのが唯一の楽しみだった。洞に寝かせているフリュイは目覚める兆しはなく、時は穏やかに過ぎていくと思われた。  ある日、突然腕を捕まれ引き倒されるまでは。  目の前に影がさしかかる。それが短命種であると分かったときウルーラは恐怖に絶叫していた。男は錯乱するウルーラを慌てて押さえつけ頬を叩いた。 「おいっ大丈夫か! しっかりしろ!」  それでもなお逃れようと身をよじる彼女を胸の中に抱き込んだ男は、子供をあやすように辛抱強く落ち着くのを待った。  ウルーラが恐怖に震えながらも叫ぶのをやめて男を見上げたとき、彼はほっとしたように微笑んだ。 「落ち着いたか? 急に驚かせて悪かった。だが、この湖は思ったよりも深いから危ないだろう」 「え?」  ほら、と立たせたものの足が震えている様子を見て首をかしげた男は、次いで思い当たったかのように彼女を座らせると、その隣に自らも腰を下ろす。 「女性に不用意に触れて申し訳ない。俺はアイゼル。この山向こうに住んでいる者だ。あなたはこの辺りに? 娘一人でいるのは感心しない」  腰が抜けたのが治ったら家まで送ろうと彼は言う。ウルーラは顔を引きつらせて激しく首を振った。 「いいえ! いらないわ。早くどこかへ行って!」 「お、驚かせたのは悪かったと心から謝罪する。すまなかった。だが最近はここも物騒なのだ。女性一人では危ない。家の者は迎えに来るのか?」 「あなたこそが危ない人かもしれないわ。どうやって自分が危なくないと証明なさるの? 放っておいてくださいな!」 「わかった、では俺はここを立ち去るから、くれぐれも気をつけて帰りなさい……。本当に驚かせて悪かった」  涙をためたウルーラに男は申し訳なさそうにすると背を向けて行ってしまった。姿が見えなくなり足跡も聞こえなくなった頃、ウルーラは周囲を見回して恐る恐る立ち上がった。ゆっくりと指先で涙の残骸をぬぐいながら精神体を解く。  それがウルーラとアイゼルの出会いだった。