足を止めることができない

 カリオン、と呼ぶ声に彼は顔を上げた。走ってきたのか髪が絡まり撥ねている。月の光がかろうじて届く場所は、そうとは知らずハルを案内して別れた場所だった。 「ハル」 「ずっと待ってたの? ……ごめんなさい、あなたの手紙、さっき遊撃部隊長から受け取ったの」  既にハワードの名前を忘れていたハルはそろそろとカリオンを見た。彼は頭をかきむしって「皆グルかっ!」と謎のうめき声を上げた。手紙を渡そうとすれば配達員から同僚までこそこそとやって来ては持っていってくれていたのだが、罠だったとは。  はっとして、ちょっと申し訳なさそうにしているハルを手招きする。 「ハルのせいじゃない。晩ご飯は食べた?」  横に置いてあったバスケットを指すと、ふんふんと鼻を鳴らしている。肉厚のミートパイが入っていた。お皿が三枚、食器がナイフとフォークを合わせて三人分。 「お昼ご飯食べなかったの?」 「いや、先に食べるのもなって思ったから。だから一緒に食べてくれると嬉しいんだけど……だめかな?」  ちろり、と見つめてきたハルはカリオンが引いたレジャーシートの端に座った。カリオンとの間にはちょうど一人分開いている。何だか切ない。  豪快に二つに切り分けたパイを皿に乗せると、ハルは挨拶もそこそこに食べ始めた。カリオンも、フォークで突いてみるが冷めてもまぁまぁの味だ。 「美味しい?」  一心不乱につついていたハルは、はっとした様子で頷いた。 「……。ねえ、カリオンはテールの事を知ってるの?」 「ハルの種族名だな。神が創りだした種族。銀色の毛並みを持ち、強靱な四肢はどれほど険しい谷でも飛び越える。彼らは季節を問わず世界を回り、神木を回る。……そんな事聞くって事は隊長に何か聞いたのか?」  曖昧に頷くハルは何かを言おうとして迷っているようだった。思わず頬に触れそうな手を諫めながら続きを待てば、ぽつりと告げる。 「カリオンが、わたし達と一緒に旅に行きたいから、仕事を辞めたいって」 「ああ」  どうして、と問われ返答に困る。 「……二人と暮らしてたとき、ずっと思ってたんだ。一緒に旅ができたらすごく楽しいだろうなって」  見たことも無い景色を見て、知らない道を歩くとき気心に知れた人が隣にいたら。  思い描いたカリオンは緊張した面持ちでハルを見つめた。 「だからハル、俺のことを考えて欲しいんだ」 「それはどう言う意味で……」 「一緒に旅をして、美味しいものを食べて危険と向き合う。三人でなら凄く楽しいと思うんだ」  だめかな、と顔をのぞき込んでくる。うっすらと目元が赤らんでいるのは緊張しているせいなのかわからない。ただ、言葉に嘘はないと思った。  ハルは考える。  今回、謎の黒服の前に一向に歯が立たなかったこと。もう一度出会うまでに腕を磨いておかなければ今度こそ死ぬだろう。それはモリトを巻き込んでの死だ。  動かない右腕をさすって表情を暗くしたハルにカリオンは苦笑した。 「深く考えないでいい。利用されたっていいんだ、一緒にいられるなら」  迷って、俯いたハルは小さく頷いた。 「ごめん、つけ込むようなことをして。でも絶対守る、大切にするから」  すりすりと手の平でしつこく頬をすられ、半眼になってたたき落とす。  気安く触らないで、と言えばカリオンは涙目になった。 ★★★  王城の借りている一室で、三人は膝をつき合わせた。 「お二人には、労りの心というのが欠如していると思います!」  ぶっすり膨れているのは当日、完全に見捨てられて忘れ去られていたダグラスだ。真っ黒な毛並みを膨らませてぷんぷん怒っている。   別れた後、城の周りには地面から這い出してきたリビングデッドがどしどし押し寄せ、王国騎士達も含め、阿鼻叫喚だったらしい。中には今までの自分の行いを暴露して神に祈った結果、独房で待機中の貴族もいるとのことだ。王国騎士の働きを思うと切なくなってくる。  ダグラスは一通り、置いていかれた鬱憤を吐き出すとお茶をすすった。すっかり存在を忘れていた者としては申し訳ない気もするが、彼の横で頬を赤らめながら給仕をしているメイドを見るとそうでもないな、と思う。  持ち前の実直さと道中のちょっとした苦行で精神的に図太くなったダグラスは、城にリビングデッドがはびこると、物音を立てないように言って、近くの女性達を一つの部屋に押し込め数人の男達と一緒に戦ったのだそうだ。  ヘリガバーム教団は、基本的に魔術を中心に教えている教会だ。教育を施すのは学問だけでは無く、剣も含まれるため何かしらの武術を習得している神官達も多い。これが他の教会と少し違うところだが、ダグラスも少しは戦えるようだ。  雄志を見せた男共は女性達の羨望と尊敬を一心に集めているらしい。 「ともかく、猊下から手紙が来ました」  噂は風のように広がって、沢山の尾ひれが付いたらしい。  正しい事のあらましをしたためた後の返信は、開封済みだった。受け取った二人は頬をくっつけるように中身を改めた。 「メロゥーラ様のご様子はどうですか?」 「ちょっとずつ話す時間は増えてるみたいだよ。話し合いも進んでる」 「それはよかった。……お二人とも、もう耳に入っているかもしれませんが、今や世界中がお二人に注目しています。ヘリガバーム教団の神木が生気を取り戻し、次は既に無いとまで言われていたパイロン王国の神木が蘇りました。王城にもひっきりなしに面会を求める使者から手紙が積み上がっています」 「ダルド教皇はそれについては何て?」 「御心のままに」  頼もしくも難しい解答だ。世界に点在する国と地形を思い浮かべ、ハルは熟考する。  エディヴァルは平たく、葉のような形をしている。その上に浮く巨大な大陸の東にパイロン大国はある。これから神木を尋ねて回るとなると、東の果てに足を伸ばし残りの神木を回るのか、それともぐるっと回ってファズの所へ帰るのか。 「……少し考えたいな」  そう言った表情が疲れているようで、前髪を指先で摘まんでみた。モリトは「なぁに?」と首をかしげる。ハルは数泊それを眺め首を振った。 「じゃあ、もう少しダグラスとお話するけどハルは?」 「それなんだけど、壁まで行って記録を見てきたいの」 「記録! 僕も是非行きたいですが……いやしかし、ハルさんは腕を骨折しています。安静にしていなければ」  ゼーローゼ達が読み、記録し続けてきた文書は膨大な量だと聞いている。数日は帰れないだろう。 「滞在中に見ておきたいの」 「でしたら僕が行って記録をしてきますよ。カリオンさんに案内を頼めば大丈夫でしょうし、ちょうど彼に話したいこともありましたから」 「それって、一緒に旅をするってこと?」  問い返したハルに「おや?」と首をかしげたダグラスは頷く。ハルが怪我をしてしまった以上、護衛は増やした方がいい。大人数でぞろぞろと行くよりも少人数で行く事をモリトが好んでいるため、カリオンは適任と言えた。彼もまた旅をしたがっていると聞いてダグラスは王に交渉を持ちかけてもいる。  直接話に行ったのかな、と二人の関係をあまりよくわかっていないダグラスは手間が省けたと内心喜んだ。もともと知り合いであったらしいし、顔見知りなら安心だと。 「ご本人も望んでいるようですし、これで決まりましたね」  微笑みにそっと視線をそらしたハルは頷いた。折れた右腕が憎らしい。