始めた旅は

 辻馬車は大通りに停まっていた。  二頭の馬が引く荷馬車に長椅子をつけただけの設備だが、安さと速度でそこそこの需要がある。道中は椅子の堅さと道の悪さに尻を叩かれているような気分になるが。  行列に並ぶと大荷物を背負った夫婦が乗り込むところだった。傍らにいた男が、彼女達に問いかける。御者だろう。 「あんたら、どこまでだ?」 「次の町まで二人。荷物はこれだけ」 「銀貨二枚だ毎度あり! 出発は十分後だが買い出しするなら声をかけてくれ」 「このまま乗るわ」 「ならどうぞ、お嬢さん方」  袋に銀貨を詰め込んだ御者はしっかり紐を閉じ、腰にくくりつけた。御者台に乗り込むと車輪が少し揺れる。  出入り口に一番近い席に座った二人は、ベルと共に走り出す馬の足音を聞きながらゆっくりと町を後にした。  ロンドネル領は国の三本に入る活気がある領地だ。同じくらい治安も悪く、大通りから外れた場所では人がよく消えると評判だ。暗闇に引きこまれたなら、二度と日の目を見れないほど影が濃い。  着いたのは日も暮れる頃。  子供やまともな人間は家路につき、そうでない者は酒場や女を探している。道の裏を覗けば連なるドアの前に娼婦が立ち並び、怪しく微笑んでいた。髪をなで付け扇で口元をかくしたり、ドレスの裾を直している。  ハルはモリトの手をしっかり握った。  安宿に泊まれば身ぐるみを剥がされ殺されるのも覚悟しなければならないし、宿自体が盗賊の根城だったりする。大通り沿いの高い宿を二人は捜した。空き部屋はなく、ほとんど満室だ。三件目で一部屋確保する頃には、道中の屋台で買った食べ物は両手いっぱいになっていた。  宿は素泊まりで一泊取った。湯は注文し、タライに貰って部屋に引き上げる。食堂はすでに酒の匂いと酔っ払い、姦しい声が響いている。中には角の突き出た猪頭や、巻角を乗せた人に似た者もいる。獣人と亜人だ。  扉を閉めると彼らの声は壁によって遮られた。設備は最悪だが壁が厚いのだけは最高点をやってもいい。内心独白し、内側から鍵をかけた。 「ハル、おいも食べたい」 「先に身繕い。こっち来て、洗ってあげるから」  ぶすっとしたモリトは恨めしそうに蒸し芋に未練たらたらな視線を寄越したが、湯に足をつけると、とたんくつろいだ顔をした。元が植物のせいか水が好きなようだ。  白い肌に端切れを濡らしてこすれば砂や煤がこびり付く。  モリトの背中には緑色の紋章が浮き出ている。硬質な光を持っているものの、感触は肌そのもの。  紋章は丸い盾に、上から杖と水、葉と獣の横顔がはめ込まれ蔦に巻かれている。これはモリトの証みたいなものだ。  モリトの本性は小さな赤い実。精神体と呼ばれる人型をとれば背中に現れるが、成木となると根を下ろした大地に広がるだろう。モリトの母木は紋章の上に生えていた。  神木が成木となるのは生きた年数で決まらない。心で大人になることを決めたとき、神木は成木となると言う。 「前洗えた?」 「洗ったよー」  指先から爪先までしっかり洗ったモリトは頷く。濡れた髪をしっかり拭き清めてやった後、ハルも湯の残りを使った。  本性が獣になったためか、あれほど毎日入っていた水に体をつけるのは抵抗があった。元の獣の姿では特に抵抗がある。  人の姿で体を洗い流したハルは、見事な鋼鉄色の髪を乱雑に洗い、油と埃を落とすために指を何度も滑らせた。  洗い終わった髪を絞り布で拭いていると、いつも体を震わせて雫を飛ばしたくなる。  ふかした芋が冷めないうちに桶を廊下へ放り出し、買ってきた食事に手をつけた。  芋は芯まで煮えて噛めばぼろぼろと崩れ落ちた。パンに挟み、肉と野菜を煮込んだどろどろのスープをかけて口に放り込むと、肉のタレとスープの辛さが混ざる。慣れない味の濃さは労働階級の者に人気だろう。  塩分の取りすぎに注意しなければならないと考えるが、獣の生態を教えるはずだった親と会話をしたことがなく、母木は詳しく知らないと言った。  幼児期にあらゆる物を口にしたが体を壊したことはない。なら、大丈夫だろうと高をくくって適当に口の中に入れる。  焼きたてパンは既に表面が堅くなっているが、フランスパンのようなものだ。中のもちもちとした感触と合わせれば悪くない。噛み下してモリトを見るとスープを気に入ったようで、ハルは自分のぶんもやった。薄味を好むハルは芋の方を多く口に入れ、ぺろりと飲み込む。  食事を済ませると、うとうとしだしたモリトを寝かしつける。その横で擬態を解く。淡い光が体を包んで消えると、そこには鋼鉄色の獣がいた。  夜の寒さからモリトを守るように身を寄せる。 「おやすみなさい。良い夢を」 *  朝日が昇るまで微睡んでいたハルは、起き上がって服を被ると擬態する。ぐずるモリトをたたき起こして荷物を袋に詰め込んだ。  カウンターに鍵を返して宿を出る。  日が出たばかりの薄暗さだというのに、出稼ぎの者達がゆっくりと歩いていた。すでに稼働している屋台もあり、肉の匂いにつられたモリトが目を覚ます。  絡め取られるように鳥を煮込んだスープ屋により、隣で芋と肉の揚げ物を買う。座席のある総菜パン店で腹を膨らませた二人は辻馬車の待合所へたどり着く。  そこには磨き抜かれた光沢のある銀甲冑に身を包み、剣帯した男が仁王立ちしていた。マント止めに打ち込まれた紋章は、頭が二つある鷹が盾を抱えている。パイロン王国騎士の紋章だ。  なぜあんな所にいるのかは知らないが、関わり合いにならない方がいいだろう。騎士は仁王立ちのまま乗員予定の者達をしげしげと眺めている。かなり目立っていた。  嫌な予感がする。  通行人に紛れたハルは何食わぬ顔で労働者達と共に待合所を通り過ぎた。 「あそこ行かなくていいの?」 「しっ! 今日は歩きましょう」  ふーんとモリトは呟いたが振り返ることはなかった。あわよくば途中で辻馬車に拾って貰えば良いのだ。こういうときの勘は外れたことがない。  目的地に向かう道すがら、ちらほらといる旅人に混じって景色を眺めていると辻馬車が遅れてやって来た。手を上げて乗車の意志を示したハルは御者と交渉して乗りこむ。  カタコトと揺れの激しい辻馬車に乗るときは、しっかりモリトを膝に乗せて押さえておかなければ落ちてしまう。  膝の上でもしゃもしゃと屋台で買った肉を租借し終わったモリトの手はべたべただ。顔を顰めながらぬぐっていると、隣から微笑ましそうな眼差しが注がれていることに気づいた。  振り返ると、若い女性はにこにこしながら「可愛らしいですね」とモリトの頬を指の腹ですった。付着していたソースは綺麗にぬぐわれ、女性のはぺろりと指を舐める。  ハルは一瞬、言葉に詰まった。  それは仕草が艶やかに見えたからでも、幼子を誑かす売女に見えたからでもない。労働で荒れた手だが、若い輝きが皮膚の下から地脈のようにあふれ出していた。生命力に富んだ緑の瞳が聖母のような眼差しを引き立て、薄汚れた格好も気にならないほどの高潔さが滲み出ている。  生き様によって磨かれる輝きを備えた女性は、内面が美しいのだとすぐにわかった。多くの短命種とすれ違ったが、十本の指に入るほど彼女は綺美しい。  それは皮膚の表面が淡く輝くような目に見える形でわかるときもあれば、感覚で告げるときもある。  二つの違いはハルにもモリトにもわからない。確かなことは彼ら、または彼女は美しいと言う事で、普通の短命種とは違い律師のような生き様を演じるのだ。誰に言われるでもなく、崇高な意志を持って。  モリトにもわかったのだろう。他人が触れようとすれば猫のようにするりと逃げるのに、大人しく撫でられたままにされている。 「お姉ちゃん、ボク達と同じ場所に行くの?」 「ロンドネルならそうね。お二人はご姉弟? 仲睦まじそうで羨ましいわ」 「そういうあなたは一人? 女の一人旅は危ないわ」 「終着地がロンドネルなの」  吐き出した言葉に隠しきれない疲れ、同等の安堵が滲みだす。  長い旅をしていたのは女性のすり減った靴底や、飛び散った泥で汚れたスカートの裾を見れば明らかだった。スカートから滑らかに視線を上げたハルは、コートの下に隠された首飾りに目をとめた。 「巡礼の?」  彼女は微笑んだ。 「修行の五年でした。着いたら教会へ行くのですが、お二人はどうしてロンドネルへ? 見たところ、二人とも未成年でしょう」  女性でも若い方と思ったが訂正しなければならないだろう。見かけほど彼女は幼くなく、背筋を伸ばし優しげな眼差しは敬虔なシスターのようだった。  二人は首を振って否定した。故郷を追われたわけでも失ったわけでもない。  彼女は何かを考えていたようだがそれ以上詮索はしない。  三人はこれから向かう街の話をしたり、今まで訪れた場所、美味しい食べ物や美しい景色の話をした。  彼女は五年の間にかなり広範囲にわたって旅をしていた。二人の知らない街の話がたくさんあった。  聞き入る様子をほほえましく思いながら続きを話そうと彼女が口を開けた時、唐突に辻馬車が横に揺れた。  薄い木材が貼られただけの馬車の側面を突き破り、鋭い爪が彼女を引き裂くようにつまみ上げた。辺りに血が飛び、悪行を成した何かはそのまま飛び去る。真っ黒な羽が散り、怪物の大きさと凶暴さを物語る。  いち早く恐怖を叫んだ馬は嘶き暴れ、車体は揺れに揺れた。大きく空いた穴からカラスのように黒く、兎のように真っ赤な目をした鳥が飛び去った。  巨鳥コラクスだ。  世界はいつも悪魔の恐怖にさらされている。道を歩けば悪魔に当たる確立は、黄金を拾うよりも高いと嘯かれるような世の中だ。その残酷さに慣れつつあったが、ハルは残酷な場面に出会うと、いつもモリトの目をふさぐ。  だが、しっかりと見ていたらしい。小さな手がハルの手を握りしめて言う。 「助けてあげて」  既に巨鳥は高く飛び上がっている。追撃すれば目立つだろう。  本当は、モリトを守って隠れるべきなのだ。  とりとめのない考えは、 「ボクじゃ、あそこまでとどかない」  涙を含んだ声にかき消された。  ハルは腰に差していた十字の鉄剣を握りしめると投擲した。真っ直ぐ風を切った刃先が深々と羽の根元に突き刺さり、骨を砕く。  不安定な辻馬車から猫のように身を躍らせたハルは、爪先で跳躍し、木に駆け上った。踏みしめるたび幹がしなり、弓なりになる。その反動を利用し飛び上がった。  弾丸のように跳ねたハルは、彼女を捕らえたまま落下する悪魔の背中に張り付き、躊躇なく剣を抜いた。  痛みで悪魔が奇声を上げる。身をひねり、落下を免れようと暴れる翼を切り落とす。彼女を捕まえていた足も撥ねた。  食い込んだ爪はそのままに、巨鳥の胴体を蹴り飛ばして柔らかな木の枝に飛び乗った。重さで枝を何本も折り着地したハルは、痙攣する悪魔の足から彼女を取りだした。  腕の半分は千切れかけている。出血は酷く、顔を歪めたハルに彼女は笑いかけた。 「……不覚を、取りましたわ」  繋がっている方の腕を伸ばし、彼女は胸元から飾を引きちぎった。  上着で見えなかったが、飾には白と黒の紋章が彫り込まれている。角の生えた闘牛の顔。それを二本の剣が刺し貫いている紋章を見て、知らず溜息が漏れた。 「巡礼の五年……神官ではなかったのね」 「これを、ヘリガバーム教団へ……お返し、くださ……な」  巡礼の五年間には二つの意味がある。  敬虔な神官が見聞を広げるために各地の教会を回る事。そして悪魔を倒す力を持ったエクソシストが一人前になるための試験。  遠くで重い物が落ちる音がした。巨鳥が落ちた音。けれど何の感慨も浮かばなかった。  彼女は血を吐きながら囁いた。ともすれば風に攫われてしまいそうな、かすかな声音で。 「――。……言づてを」 「わかったわ」  粛粛と任務を報告するかのごとく、遺言は伝えられた。  全てを言い終えた彼女は安心したように瞳から力を抜いた。生命活動が停止し、鼓動が止り、腐敗がこれから始まるだろう。  血の化粧を施しながら死んだ使徒を弔うには、少し回りが騒がしかった。彼女を横たえ立ち上がる。  羽を落とされ胴を切られた巨鳥は、それでもまだ息があった。  一線させた剣をゆっくり引き抜けば、首と胴が離れて落ちる。  撥ねた頭は一番価値がある。目玉は一時的に悪魔に匹敵するほどの生命力と力を得るための材料に、嘴は削りだして鏃と盾になるだろう。  恨み呪うかのように見開いたままの瞳を見つめていたハルは、無言で拾い上げ戻った。  辻馬車から追ってきたのだろう。モリトは彼女の顔元で跪いて、死に顔をじっと見つめていた。瞼が閉じている。 「無理だったわ」 「目が合ったとき、もうだめだってわかってた」  しゅんとした表情のまま顔を上げた頭を撫でて「そう」とだけ言ったハルは頭を放り投げた。音を立てて転がるそれに目もくれず、弔いのために膝を折る。  顔をぬぐい、服から貴重品を外し、千切れかけた手を丁寧にそろえた。荒らされないよう深く掘った穴に彼女を横たえて、モリトが積んできた花や種をまき優しく土をかぶせる。  乗せた石に名前を刻もうとして顔を顰めた。  名前を聞くのを忘れてしまった。  しかし彼女は既に死に、言葉を持たず、埋葬は終了している。 「精練なる魂。言寿を捧げます」 「どうかお迎えに来てください」  死者の魂が間違いなく還るよう、簡略化された弔いの言葉を告げる。墓石が淡く光った。  彼女の上着に包んだ貴重品はモリトに持たせ、ハルは巨鳥の頭を拾い上げる。血は全部出たようで一滴もない。 「辻馬車は行ったみたいね。歩来ましょう。日暮れ前には着くと思うわ」 「ルフュラを一緒に探してくれる?」  それは遺言を伝えるべき二人の内の一人。  ハルは立ち止まってモリトを見たが、 「それがモリトの願いなら」  モリトは一瞬変な顔をして、黙って歩き出した。