獣になって

 世界の名はエディヴァル。
 滅びと退廃の香りがする、死を待つばかりの世界である。
 世界が始まったばかりの頃、異界から進行してきた悪魔の一団が全てを食いつぶそうとした時代があった。それを退けたのは世界全土を見守っていた一万本の|神木《ドレアーブル》と|獣《テール》。

 悪魔を滅ぼすには至らなかったが、神木は世界を覆う結界を張り、獣は結界を張る神木を守るようになった。
 比較的平和になった世界はしかし、内側から壊れる事となる。
 神木と獣とも違う|短命種《クオルト》が誕生し、神木を守る獣と対立した。
 獣は圧倒的な数に命を散らし、守りを失った神木は切り倒された。

 しかし薄くなった結界から悪魔は再び大地を荒し始め、数の力で押していた短命種は悪魔の扱う雷撃の前では無力だった。
 多くの国が滅ぼされ、短命種が悪魔の出現原因に気づいた頃には神木の数は二十四本まで減り、その内の三本を除いた二十一本は枯れかけている。
 葉が落ちるたびに悪魔は結界を突き破った。
 これが彼女の知る現在までの歴史である。
 しかし、短命種達は愚かにもこんな話をする。

「――悪魔が現れた今、これまでの行いを悔い、神木を守らなければなりません。そのためには一人一人が心を改め、祈りを捧げる事が必要です。神木には一つの芽も成ってはいません。祈れば願いは聞き届けられ、神木の芽も出るでしょう。悪魔達に脅かされる生活も、祈りによって終わるのです」

 馬鹿馬鹿しいと内心吐き捨てた。
 祈りによって救われるなら、獣は滅びなかった。
 祈りによって神木の芽が出るなら、もうとっくに芽吹いている。
 自分達がしでかしたことを祈るだけで解決しようとしている演説者に反吐が出た。
 もっと気分が悪いのは話をありがたいと聞いている賛同者。町の中心部にある広場には人だかりができている。

 誰もが空から落ちる悪魔を恐れ、何かにすがりたがっていた。報いを受けることを恐れ、逃れようともがいている。
 濁流に飲まれる蟻のようだ。だが、その蟻も神木が枯れる前に滅びるだろう。
 短命種達はこの恐怖に耐えられないと彼女は思っていた。
 パイロン王国にある小さな町の中で、彼女は煉瓦造りの町並みを睥睨する。

 石畳の道を人の波に逆らいながら宿屋に戻り、二回へ向かう。カウンターにいた太った女店主は一瞬だけ彼女を見て、今日の客だと思い出すと編み物を再開する。
 固い石の階段を音もなく駆け上がり、彼女は奥から二番目の扉を開けた。瞬間、飛び込んできた小さな体を危なく抱きしめる。

「おかえりハル! ボクちゃんとお留守番してたよ」

 柔らかな緑色の瞳をした少年が腰に巻き付くようにして見上げてくる。頬は紅葉して触れたところから伝わる体温は暖かい。

「そう。なら窓枠の足跡は何かしら」
「そんなはずないよ、ちゃんと拭いたもん! ……あ」

 怯えた目を、ため息をつきながら見返す。
「神木の子モリト、部屋から出ちゃだめだって言ったでしょう」
「だってだってだって! ずっと籠もってたらつまらないよ! ボクだってもう十歳だから、一人で外に出たって大丈夫だよ」
「短命種の十歳とモリトが十歳である事は違うのよ。だからわたしがいるんじゃない。それとも、わたしはもういらない?」

 凍り付いた表情に気付かないまま、ハルは続ける。

「わたしがいらないなら、そう言っ――」
「どうしてそんなこと言うの!」

 どん、とハルの腹を殴ったモリトは丸い目いっぱいに涙を盛り上がらせた。あ、と思う間もなく目尻からぼろぼろと涙があふれ出し、小さな子供は走り出す。
 逃走する背中を声も無く見つめながら、残されたハルはしまったと頭を抱える。また気に障ることを言ってしまったらしい。
 殴られた箇所はクッションが当たった程度の衝撃だったが、泣かせてしまった事に項垂れた。

「何がいけなかったの……」

 だが、反省するには彼女はあまりに無知すぎた。モリトがなぜ泣いたのか本当の意味では何一つ、わからなかったのだ。
 自嘲と共に吐き出した思いを払拭するために、ハルは荷物をかき集めると部屋を出た。

 すぐに追いかけないと見失う。
 モリトは見かけとは違い足が速い。身体能力も高く、十メートルある建物を跳躍無しで飛び越えられる。神木の生態を調査した者はいないが長寿で強い。
――ならばなぜ、むざむざと切り倒されたのだろうか。獣がいなくとも、彼らは短命種を撃退できたはずだ。
 エディヴァルを守る神木達の思いはわからない。
 モリトの母木は、別の神木に聞くよう言うだけだった。

 悲しくなると、すぐに泣いてしまう自分を不甲斐なく思っていた。
 涙が瞬きと共に落ちるのを手の平でぬぐいながら、辛いことしか言わないハルを思う。
 その時だ。
 後ろにぬっと現れた大きな影が周辺を包むように大きく広がったのを感じた。
 一瞬にして辺りは暗くなる。モリトがいるのは大通りにある出店の端。人の行き来は多く、周りの者達はすぐに異変に気がついた。

「悪魔だ。悪魔が出た!」

 誰かが叫べば悲鳴が連鎖する。
 黒い影はその間もゆっくりと伸び上がり、太陽を覆い隠す。中心からは巨大な角と赤い目を持った悪魔が顔を出し、鱗の張り付いた顔で左右を見回した。逃げ惑う者達を見つめ、いやらしく目を細めたとき右の瞳孔から銀色の剣が生えた。

「モリト、下がって!」

 生えたと思ったのは柄まで鋼鉄製の特殊な剣。
 悪魔が絶叫を上げて顔をそらすのとハルが剣を抜き払いながら着地するのは同時だった。
 悪魔の血は黒い。
 漆黒の涙を流しながら己に危害を与えた下等な者を見つけるために、悪魔は身を乗り出した。たった数センチ影から出ただけなのだが、周囲はますます黒く陰る。

 人払いをしなくても、誰もが走り、押し合いながら逃げている。
 二人きりになった事を確認したハルはもう一度下がるように言うと、ふらりと揺れだした。足が酔ったように右、左と地面を柔らかく蹴り――一瞬で悪魔の太い角に肉薄する。大人の太股ほどもある硬質な角が一瞬にして削がれた。

 天をつくような角を持つ悪魔は、そこから雷撃を放つ事が多い。
 悪魔が怒号を上げ、言葉にするのも難しい鳴き声に顔を顰めた。
 断面を見る間もなく顔を蹴り上げ跳躍。先ほどまでハルがいた場所に、太い腕が虫を叩くように過ぎ去った。爬虫類の腕のように爪が太く尖っていて鱗の付いた皮膚は分厚い。

 確認するまでもなく中級の悪魔だ。一個小隊が三つそろって相手取るような凶悪な悪魔。
 だが首を落とせばどんな生き物も即死する。
 悪魔の醜い腕が肌を切り裂くより疾く、体をねじって避けた。鱗に滑った刃先が耳障りな高音を発するのを遠くに聞きながら、ちょうど上向いた悪魔の、もう片方の角を切り飛ばす。

 一本目の角が地面に食い込んだ音が響く。小さなクレーターはそのまま角の重さを示し、支える悪魔の首は、この世に存在するどの生き物より強靱だ。皮膚も厚く、筋肉も鋼のようだろう。
 音を立てず着地したハルは疾走し、首の脇に張り付くように身をひねる。悪魔が視線を戻す前に剣を滑らせ、一線。切り上げた刃先を返し、もう一線。手首を返して剣先を太い首に叩き付ける。が、刃先は鱗にはじかれた。

「爬虫類型……。固いわね」

 唸った悪魔が体の半分を出せば、残りは後ろ足だけ。
 体の全てを出したなら、すさまじい勢いで周囲を破壊し駆け回るだろう。
 その前に、

「切り、飛ばす」

 きつく握った指先に血管が浮き、筋肉が盛り上がる。裾を破る勢いでふくれた筋肉は、そのまま力の強さを表していた。
 ハルの瞳孔が縦に変化する。虹彩が虹色に瞬き、ほんの数瞬、悪魔が怯む。
 それだけで十分だった。

 一度も使われる事がなかった牙を砕き、口内、喉、前足を半分に切り落とす。悪魔の腹まで裂いた鉄剣が心臓を二つに裂いた。
 どれほど堅い鱗や強靱な筋肉を持っていても内側はやわらかい。バターのように裂けた悪魔が完全に絶命すると、変色した紫色の空も消えた。
 はみ出していた体は見えていた部分だけを残し、残りは消失している。悪魔側の世界――魔界では上半身が消失した死体が転がっているのだろう。
 血糊を払って鞘に戻したハルは角を拾い上げた。地面に食い込んでいた断面を見ると鉄のようだ。

「行こう。路銀に変えて次に行く」
「待ってください!」

 遅い到着を果たした衛士達が悪魔を見て、さらにそれが死んでいる事を確認し目を見開く。
 衛士が事情聴取を要求するのを拒否しながら、少し進んだ所で面倒な追加がやってくる。
 やって来た荒くれ者の集団と、それを束ねる小山のような男が厳しい表情をして周囲と二本の角を担いだハルを見る。小山男は背後の死骸を見つけると汚らしく唾を吐く。

「緊急招集は終わりだ。解散しろ!」

 へーい、と拍子抜けた面々はしかし、去らずにハルと横にいるモリトをしげしげと眺めた。好奇心を讃えた視線から、余った悪魔の死骸を少しでも盗み出そうとハイエナのように鼻を効かせるのが大半だが。
 顔を顰めながら突き進めば人垣が割れた。しつこい衛士は小山男が現れた時点で足を止めている。

「なぁあんた、仲間に入らねぇか?」

 ハンターがつける紋章がないのを見ると、小山男が言った。
 全てを無視してハルは突き進んだ。悪魔の部位を買い取る課金屋は西側に居を構えていたはずだ、と胸中で独白する。
 モリトは色々と言いたいことがあったが賢明にも口をつぐんだ。ハルはいつも、他人と必要以上に関わらないし話そうとしない。そのせいで一部の界隈で酷く目立っているのを、抜け出したときに盗み聞きしたモリトは知っている。

 ハンターとは、正式にはデーモンハンター。名称のまま物理的に悪魔を狩ることを生業としている者達のこと。
 出現予測のできない悪魔の討伐はどの国でも最重要事項となっている。軍もその任を負っているが、どこに出るかわからない悪魔のために兵士を分散させるわけにはいかない。
 そこで世界中の国々から寄付を募り運営されているのがハンターギルド。

 他にも教会が悪魔払いエクソシストを束ねて運営しているものもある。これも世界中に散らばっている。
 ハンター達が悪魔を殺しに命をかけるのは悪魔の皮や角やあらゆる部位を剥ぎ取って売り、個人の資産とできるからである。
 強い悪魔は強い武器や素材になるし、性能の良い魔術道具になるという。そのため毎日のように登録する者が出る。同じくらい死んでいるが。
 無論ハルのように登録せずとも悪魔を狩れば同じルールが適応される。ほとんどの人間がギルドに登録するのは、同じ目的を持った仲間と徒党を組める事と、悪魔の最新情報を受け取れるというメリットがあるからだ。誰も彼もが剣の達人ではなく、その日暮しのチンピラが小銭欲しさに入る例も珍しくない。

 課金屋は大抵ギルドの隣にある。ハルと小山男の目的地は最終的に一緒だが少しでも時間をずらしたい。すれ違ったときに絡まれても面倒だ。
 少し早足で進むと心得たモリトはぴったりと横に付く。
 大きな紋章が描かれた店を見つけた。四分割された盾の中に木と杖と雫と葉が描かれ、周囲に斧と剣が重なったそれはハンターギルドの紋章だ。

 迷いなく入り込んだ建物の内装は、思いの他広かった。壁が薄いのかもしれない。このご時世、悪魔が現れれ堅牢な城壁だろうと一瞬で吹き飛ぶのだから、経費削減したくもなるだろう。もちろんギルドの支部が世界各地にあるせいで、純粋に経費削減しているだけかもしれないが。
 ブーツの底が床の堅い感触を伝えてくる中、真っ直ぐに中央カウンターへ向かう。

 周囲には雑談用に配置されたテーブルもあるが、背を預けて情報や仲間を待っている者達もいる。彼らは見てないようで必ず見ている。特に金の匂いには敏感だ。視線は素早くモリトとハルの持っている角に集中し、離れた。
 カウンターに座っている受付嬢は愛想の良い顔で微笑んでいるが、抜け目ない眼差しで二人を見た後、丁寧に頭を下げた。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「買い取りを」
「ハンター証はお持ちですか?」
「いらないわ」

 持っていなければ登録を進められるのはいつもの事で、受付嬢は頷くと慣れたように札を差し出した。
 鉄壁の微笑みを持った受付嬢に見送られながら二人は隣接している小屋に入った。

 課金屋は扉の音に気づいて顔を上げた。ざっくりと頬と額にかけて傷があるのは元ハンターか、因縁をつけたハンターにやられたのだろう。愛想は受付嬢の十分の一もない。
 課金屋は差し出された札を受け取ると新聞をカウンターに投げ出し「いらっしゃい」と不機嫌そうに言う。

「角が二本か」
「お金に変えて」

 角をカウンターに置いただけで台が軋む。
 眉を跳ね上げた課金屋は眺め、肌触りと重量を量った後、金槌で叩いた。

「鉄の中に何かある。詳しく見るから、かけて待ってな」

 二本とも担ごうとして一本の重さに顔を顰めた課金屋は諦めて往復した。舌打ちと機械の動作音がして、結果が印刷される音。そして帰ってきた課金屋は渋い顔のまま言う。

「中に雷魔石が入ってる」

 雷魔石はその名のとおり雷の溜め込まれた魔石のことで、未使用の雷が詰まっているとのことだ。
 証拠と重さから言ってなかなかの金額になった。金貨の山を丸ごと銀行に預ける事にすると、渋面の課金屋は用紙を取りだした。素早く金額とサインをして写しを貰い懐にしまい込むと、二人はその場を後にする。

「辻馬車に乗ろうと思うの」
「どの街へ行くの?」
「ここじゃない所がいいわ。ご飯は何がいい?」
「串焼き食べたい!」

 植物のくせに雑食な神木の子モリトは立ち並ぶ屋台に視線をやって物欲しそうな顔をした。

「いいわよ」

 たくさん食べて寝て、ころころ転がるのが子供の役目なのだから反対しない。モリトは目を輝かせてハルの手を引っ張った。先ほどの諍いなどすっかり忘れてしまったように。
 屋台から濃厚なタレの香りが漂い食欲をそそった。

「六本ください」
「はいよ!」

 恰幅のいい男が愛想よく言えば、モリトは待ちきれないと言うようにつま先立ちをする。
 現金な子供をすべすべと撫でながら、辻馬車で次の街にかかる時間を脳内算出していると嫌なことを思い出した。
 悪鬼のような表情になったハルにびくついた店主は串焼きのタレをけちるのをやめ、モリトは「どうしたの」と聞く。

「今からだと一度あそこに戻らないといけないわ。時間をずらして迂回する。別の町で一泊して、早朝出発するから」
「……カリオンの事、まだ許してないの?」
「その名前は禁句なの」

 異変を察知した串焼き屋は、焼きたての串を生け贄のように差し出し客を追い払った。
 熱々の串を仇のように噛み千切るハルを、モリトは横目で見上げる。無表情にしか見えないが、むっつり不機嫌顔である。

 一口で食べられないくらい大ぶりの串焼きをもぐもぐと租借しながら数えれば、おまけも含めて七本もあった。
 串を生け贄のように渡しながら、モリトはしかたないな、と大人になって何も言わないであげた。