袖を引くのをやめて

 ダルドが最初その話を聞いたとき、恐ろしさに膝が崩れそうになった。  だが、受けなければ神木は枯れる。それは現実になるだろうと言うだけの確証が、既に彼の中にはあった。  要求は様々で、まとめるだけでも寝る暇がなくなった。やっと第一案が認められたとき、半日も深い眠りについて――翌日である。  数時間しか寝ていないが頭は冷えている。ついでに膝の関節に力が入らない。歳だろうか、それとも――と考えてやめた。  これからやることに言い訳がましいことは通用しないのだ。  彼らと始めて会った部屋の前に立ち、見上げたダルドは無造作に踵を鳴らした。底が削れ、少しだけ窮屈な気がする。  大きな扉を見上げ、息を吐いた。精密な彫刻の施された赤みがかった木材を使って造られた扉は、左右対称に女神が微笑んでいる。右手には木の種を持ち、左手からは水が滝となって落ちていた。  恭しく神官が扉を開くと、円卓があった。白い大理石を切り出して造られた重厚なテーブルはつるりとして傷一つ無い。あわせて造られただろう椅子も大理石で造られており、緻密な彫刻がここにも施されていた。  総勢七人。着席せずに立ったままそれぞれこちらを見ていた。  そのままの格好では示しが付かないと言う事で、モリトはダルドが持ってきた服に着替えている。白い長衣は薄く、幾重にも重なり柔らかく肌を包み込み、金の刺繍が襟元に施され、袖には黒い布をあて白い布で刺繍がされている。丈は長く造られ裾を踏みつけてしまいそうだ。  濃い緑の目と髪をしたモリトは、柔らかい人相も相まって天使のように可愛らしかった。 「よくぞお越しくださいました」  拝礼するように頭を下げた彼らを一瞥し、着席した。本来なら教皇が座る上座だ。それを譲るという形でモリトの身分が彼らに示される。  次にダルドが左側に着席すると、高位神官達はやっと腰を下ろした。  見たところ、半分は巫という突然現れた神木の下僕の存在を疑っているようだった。それもそうだろう。彼らが初めて二人を見たときは、ハルは倒れていたし、モリトは強行突破を試みて涙を流していたのだから。 「初めて顔を見る者もいるだろう。この方達が神木の巫となったモリト様とおっしゃる」  本当はモリトの名前は総称であって、大地に根を下ろしたときに神様が名前を与える。  そんな事を知らない面々は静かに頷いた。 「この度、神木の言葉を聞ける巫の誕生、我ら一同お喜び申し上げる」  向かって右側、一番扉に近い白髪の目立つ羊の獣人が言う。のんびりとした獣顔とは裏腹に眼光は鋭い。 「しかし、我らの中には懐疑的な者もおります。何千年もの間、神木が言葉を解し、または呼びつけると言う事はありませんでした」 「ファズザラーラはボク達を呼んだよ」 「庭にいる神木の、本当のお名前だ」  神官達は囁くように視線を交わしあい「本当にございますか」ダルドに疑いの眼差しを向けた。  周囲の視線を浴び、順番に見返したはダルド言った。 「そなたらは私の言葉を疑うか。では枯れかけていたファズザラーラ様が花を咲かせたのはなぜだ? この、巫をお呼びになったからだ。それはさんざん話たであろう。そなたらも納得したではないか」  その話はすでに広く知られている。彼らは口を閉じた。 「では、神木は何と仰っていたのですか。我らの言葉をお伝えすることが叶うのでしょうか」  今度は羊の向かいに座っていた、獣相が薄い男が言う。眼鏡をかけ神経質そうな印象の、初老の男性だ。 「今はその話をするために、そなたらを集めたわけでは無い。ただの顔合わせでもない。通達したはずだ。私は神木と一つの契約をしたいと言った」 「世界全土にはびこる悪魔の事と伺いました。儂らは神木が新しい芽を出したのではと愚考させていただいたが……」  違ったようだ、と髭を生やした老人は言う。  神経質そうな眼鏡の男の隣に座った老人で、坊主頭に真っ白な髭は三つ編みになっており、ひょうきんな印象を受ける。しかし肌を見ると鱗がはり、しわくちゃな顔は爬虫類のようだった。灰色に濁りかけた青い目がハルとモリトを見る。抜け目ない視線だ。一番警戒すべき男だろう。 「その前にそなたら、自己紹介も待てないのか。……巫様から向かって左手前からグレース、ダグラス、カランド。右手前からジズド、オロンガ、ディゼアと申します」  それぞれが軽く黙礼する。順番に顔を確認したモリトは軽く頷いた。 「では改めて始めよう。議題は「悪魔の排除」について。私はこれを現実の物にできないか巫様に尋ねていただいた。その結果、条件を守れるのならばと」 「おお! それが現実になったら、歴史に名を残すことになりますね! いったいなんでしょう、その条件というのは!」  はしゃぐように言ったのは、モリトの右手に座るジズドと紹介された男だ。比較的若く、ダルドと変わらない年齢に見える。黒縁の眼鏡をかけ、黄色の嘴を持った白梟で好奇心旺盛に首を回している。 「”神木に対する絶対的な不可侵”。これはヘリガバーム教団が無くなろうとも絶対に守ることが条件だ」  うなり声が響いた。  彼らが考え込む間にモリトは頭上を見上げた。白い柱の上にはテントのような形になっており、四つに区切られていた。正面には神木の芽が想像で掘られ、時計回りにゆっくりと成長する様が描かれている。着色もされ、はっとするような緑が目に鮮やかだ。 「それはこの教団一つでお約束出来ることでは、到底ありません」  モリトの左、教皇の隣に座っていた鷹のグレースが発言した。黒い羽を撫で、ハルに似た金色の目がモリトの顔をぶしつけに眺める。 「教皇、私には疑問があります」 「よい、言ってみろ」 「神木は全部で二十四本。そしてこの話をお伝えしたのはこの教団におわすファズザラーラ様お一人……と言う言い方でよろしいですかな?」 「ああ」 「ファズザラーラ様ただ一本のご要望である、と言う事ではないでしょうか。この場で決められることとは到底思えません」 「その通りだ。地上にある神木全てに話し、協力していただくための第一歩と考えてくれ。場合によっては他の神木からも要望が出るだろう」 「では、神木にはそれぞれ独立した人格があると? ……全てをお伺いしてからの方がよろしいのではありませぬか」 「グレース、もっともな話だが、まず巫方を納得させるだけの案が無ければ、話にもならぬ」 「……それでは」  唸るグレースにモリトは言う。 「神木はあなた方が滅びたって心は痛まないよ。それを踏まえてよく考えてほしいんだ」 「小童が!!」  それが本音なのだろう。もこもこした羊の毛を膨らませるようにカランドは激高した。だが、ずっと神官として務めてきた殺気のない怒声など、モリトは怖くない。もっと恐ろしい事を知っている。 「それが神木の現状だよ。現にファズザラーラ、様は懐疑的だった。短命種は三代で約束を反故にしたと言ってた。昔、誰も覚えていないほど昔のことを神木は覚えてるよ。神木はおじさん達が嘘を付くことを忘れてないんだ」  噛みつきそうな視線を真っ向から見つめ、モリトは続ける。 「他の神木……特に枯れかけている神木は同じ思いだと思う。自分の子供を殺された相手を助けてくださいって言われたら、おじさん達は我慢できるの? 本当に悪魔から守ってほしかったら、平和になりたかったら覚悟を決めて、それくらいの事をやって貰わなくちゃ、ボクだって何もできないよ。二つの規律の違う命が手を結ぶためには、凄くたくさんの譲歩と努力をして貰わなくちゃ」  「神木の結界がほしければ、それに足るものを示してよ」と、モリトはたたみかける。 「現状のままでいいだなんて神木も思ってない。このままだと新しい神木は大地に根付かないよ」 「それはどう言う事ですかな」 「世界全体で神木の存在が重要視されすぎて、うかつに根を……ううん。芽を出す場所を決められなくなったんだ」  本当のことを少しだけ省いてモリトは言った。嘘はつかないが、全てを正直に言うには信頼が足りないのだ。ハルがこんなモリトの姿を見たらどう思うだろうか。  成長したと思うのだろうか。 「もし新しい神木が根を張ったらあなた達はどうする? その回りに集まって家を建てるでしょう?」 「だから、神木に対する絶対的な不可侵……根を張った土地をそのまま保てと?」 「もちろん、人が通ったりするのはいい。過剰に気にしてはいけないってこと」  これはモリトが旅をして思ったことだ。もし自分が根を張ったら、きっと短命種達が集まってくるだろうと考えていたのである。 「新しい神木が根を張る場所は、神木が自分で決める。つまり、その時の自然の状況がとても大切になる。なのに神木があるからと蟻のように群がってこられたら、どこを選んでも同じ。どこも選べないって事」 「もしや……。神木が現在枯れかけているのは」 「大昔、大地は緑で溢れてた。のどかで、平和で、毎日歌を歌って暮らしていたみたいだよ。……あなた達は仇に囲まれて暮らしても、毎日元気でいられるの?」  痛烈な言葉に神官達は青ざめたが、止めを刺す。 「もう一つ教えてあげる。神木には寿命は無い。いつ枯れるかは神木自らが決めるんだ」 「――こ、この事をすぐに神木周辺にある国や町に伝えましょう!」  微笑んで、モリトは尋ねる。 「伝えてどうするの? 根こそぎ排除する? そんなことをして他の者達は従うかな? 従わないとボクは思うよ」  では、どうしろというのだ。このままでは枯れてしまうのでは……。恐れを含んだ言葉にダルドは失笑した。 「だからこそ、この契約を守る価値があると思わないか。新たなる神木は静かな土地を手に入れ、我々は恩恵にあやかれる。この大地に神木が増えれば開拓できる場所は減るだろう。だが、悪魔による死者は減る」 「現在する二十四本の神木には、ボクから話を持ちかける事になる」  今度は誰もが押し黙る。その中で、ぽつり、とグレースがつぶやく。 「神木が芽を出さない理由はわかりました。強国を脅しつけてでも従属させなければならない理由も。ですが……守れるのでしょうか。守れなかったとき、どうなるのでしょうか」 「その時は神木全て、今度こそただの一本も残らず枯れるだろう……」  グレースの言葉に、切り捨てるようにダルドは言う。  それはファズもモリトも譲らない条件として提示したものだ。  獣はハルしか残っていない。それを知ったファズは長く生きる意味を失った。ハルが死んだ後、枯れたってかまわないのだ。  未だ枯れかけていない三本はともかく二十一本の神木は賛同してくれるはずだ。 「まず、この地に或るファズザラーラ様の納得いくものをつくらねばならぬ。そなたら、どうする? その様子だと巫の存在と言葉をやっと考えるようになったらしいが……まずは止めるかどうかの話し合いからするのか」  息を詰め絶句していた神官達の中で、それまで静かに話を聞いていたダグラスが口を開いた。 「僕はそのお話を進めることに賛成します」  どこかおっとりとした雰囲気の獣人で、大きな耳を持った黒猫だ。藍色の目を優しく細め口を開く様は、柔らかい人形が口を開けているようだった。 「皆さん、考えてもみてください。怯えていても世界は悪魔に攻撃を受ける。神木の葉が落ちるたびに、僕達は滑稽なほど怯え尻尾を抱えてうずくまる。実に情けない。そして神木の慈悲にすがる計画を立てている。これもまた、実に情けない実状です。ですが、神木に僕達がしてきたことの贖罪をすべきチャンスがやって来たのです」 「どう言う事じゃ」 「オロンガ爺、神木は大昔の、僕達が知らない事まで覚えていらっしゃるそうですね。……僕達が何をしたか。それは個人ではなく一つの「種」あるいは「神木以外」としてお考えではないのですか。そして僕達と同じように感情を持っていらっしゃる?」  視線を寄越され、モリトは頷いた。 「だったら、僕達は彼らにとって真に仇なのです。なのに最後の機会を与えてくださった。神木の慈悲におすがりし、僕達はもう一度、信頼を取り戻せるよう努めなければならないのです。切り倒してしまった神木へ贖うために。――僕は神官達に歴史を教えています。何をしたか、よく覚えています。僕達は根絶やしにされる程度では許されない罪を犯している。僕達は、神が造った慈悲深き命を殺したのですから」  朗々と紡がれる言葉は懺悔のように紡がれる。 「やらなくても悪魔の恐怖によって僕達は滅びるでしょう。そして僕達が約束を守れるなら生き残るでしょう。どちらがいいかなど、考えるまでもありません」  それに、と続ける。 「贖罪をし、生きる。……やっと僕はこの汚れた体を洗い流し、綺麗な体になって子供達を産んであげられる」  彼は黒い尻尾でパン、と床を叩いた。 「ダルド・パトリオティズム教皇、そして巫様。僕は心よりお二人に感謝申し上げたい。このような機会が与えられることは、もう二度とないでしょう」 「では、これより内容についての吟味を始めるが、よいな?」  誰も意義を唱えなかった。  頭がいい者は、怖い。  容易く上り詰めて、そうと知られる前に巧みに周囲を操作する。  何人かが気付いても、その他大勢が気付かなければ気付いたと言えないのでは無いだろうか。気付いた人間が対抗しうる力を持っていれば話は別だが。  そう言う意味では最後に口を開いたダグラスは巧みにやり遂げたといえる。少しの不満をまいたようだが、それは「この若造の口車に乗るようで悔しい」という思いだっただろうから。 「ダルド教皇、これでよかったのでしょうか? 余計な事を言っているのでは無いかと、ヒヤヒヤしていましたが……」 「助かった。そなたはいつも異議を唱えることは無いが、そのぶん言葉が重く響く。特に歴史の第一人者としての認識が、今回やつらによく効いたようだ」 「恐れ入ります……。あの、それでお約束の話は?」  ほっと息を吐いたダグラスは顔を上げてほんのり頬を染めた。三十に届かない最年少の高位神官は人よりほんの少し柔和で優しいが、知識欲が強かった。それは権力欲が強くなければ目指せない高位神官の地位をぶんどる程度の強さだったが、他の狸爺と比べれば扱いやすく、誠実とも言えた。 「うむ、巫殿達には話をする。これからな」 「え、ええっ! で、では反故になる可能性も……」 「そう耳をへたらせなくても大丈夫だろう。その……ハル殿はとても率直で心に響く言葉を言う」 「今回お越しいただけなかったもう一人の巫様ですね? ……図星と痛い所を刺すのでしょうか」 「まぁ、そのような言い方もあるが……」  まさか泣かされているとも言えず、ダルドは視線をそらし、自分の執務室を見回した。壁は白く、両脇には本棚がみっしりと詰め込まれ、普通の神官では閲覧出来ない物ばかりが集められている。だが、神木の洞に描かれたたった一枚でさえ、この本全部よりも貴重だろう。 「ダルド教皇?」 「ああいや、おほん! ともかく、そなたも共に来るがいい」 「ありがとうございます。神木の洞に書かれた物を写したと知ったら、ジズド様は死ぬほど羨ましがるでしょうね!」  意外と性格の悪い黒猫はそう言って優しそうに微笑んだ。  と、ノックと共にハルとモリトが入ってくる。手には紙束を抱えており、差し出された二人はそれを受け取った。 「見せてきた。まぁまぁの出来だって」 「どこがダメだったのでしょうか……」 「ええとね……」  半日かけて協議した骨組みだから、ダメだしが出るのは当然のことだ。端的にダメだった所を伝えたモリトは添削された紙を差し出した。 (……ふむ)  そういえば、この子はいったいどう言う位置づけなのだろうか。ハルは獣だが、モリトの種は未だにわかっていない。  見た目からはいい所のお坊ちゃまだが、どこか浮き世離れしている。獣が選んだ友なのだろうか。それにしては見守るような視線が気になる……と考えていると目が合った。  神木と新しい芽。根付く大地は自ら決める……。どうやって決めるのだろうか。  まさか、歩いて……?  気になるものの詮索を止め、ダルドは思考を切り替えた。