見つめ続けるのはやめて

 ファズの目を盗んで神木の洞から出たハルは、食事の入っていた籠を持って川へ来ていた。モリトに難しい話をしていたのか、気付く様子はない。  神木の悠々とした姿が遠くに見あげ、視線を下ろした。  険しい山も、ハルの強靱な足にかかれば平面のようなものだ。クマのように仁王立ちになったハルは水面を睨みつけ、意気揚々とやって来た獲物を素早く飛ばした。鮭に似た種類の魚は、びちびち跳ねながら籠の中へ落ちた。中には既に絶命した仲間が何匹もいる。 「お見事ですね」 「ええ」  人が近づいてくる気配がしていたので、さほど驚く事なく返す。  木の陰から出てきた彼は一人のようだ。よく来られたな、と思いながらハルは川からあがって籠を差し出した。 「あの時は、ありがとう。お礼です」 「……。皆、あまり魚を食べる機会がないので喜ぶでしょう」 「殺生がダメって事?」 「そういう事ではないのですが……」  ディラーは困ったように顔を顰めた。ハルのように道具も使わず、巧みに魚は捕れないのだと言う。  まだ生きてる魚を一匹掴むと、尻尾からかじりついた。みずみずしい肉と鱗のぱりぱりとした感触が絶品だ。たまには魚もいい。  口の周りを魚の内臓と血だらけにしたハルが、頭まで丸呑みするのを見届けたディラーは若干視線をそらした。こういうとき、ハルは転生して自分が獣になってしまったことを実感するし、それが悪い事だと思えないことに苦笑する。 「神木の元へ行って、帰ってこないからどうしたのかと皆が心配していましたが、どうやら大丈夫そうですね」 「ありがと。もう一匹食べてもいいかしら?」 「どうぞ。……火を使いませんか」  焼き魚もいいかもしれない。二人はせっせと火の準備をした。ディラーは火打ち石で火をおこし、ハルは木や魚に刺すための枝を綺麗に洗った。ディラーはきっと、内臓は食べない方がいいだろう。人間は腹に虫が入るだけで具合が悪くなるのだから。  鱗と一緒にとってやった物を三匹作り、減ってしまった魚を見て、また獲ろうと頷く。 「ここへはよく来るのですが、魚を食べるのは初めてだ」 「そう」 「……猊下より、あなた方が神木に招かれた「巫」とオンドロード領の英雄だという説明を受けました」 「巫?」 「神木と言葉を交わすことのできる、特別な存在だそうです」 「そう……探りに来たの?」  反面焼けた魚をひっくり返すと火がぱちぱちと鳴った。 「……いえ。いいえ、はい。それが本当か、本当ならば目的が何かお聞きしたい」 「前と同じ態度でいいわ。……わたし達の事だけど、あなた達の猊下の言葉を信じればいい。それに、わたし達はずっとここにいるわけじゃないの」 「逗留、と言う事ですか?」 「行き先を知りたいの? 興味本位なら止めてたほうがいいわ」  焼いた魚を頬張ると香ばしさと皮のぱりっとした感触がした。味は素材そのまま。塩は獣の舌にはいらない。それだけで十分美味しかった。  考え込んだ風のディラーも、もそもそ魚を食べ始める。 「……リンガルは元気? 共に旅する仲間はできたのかしら」 「あの子のことを覚えていましたか。……ええ、元気ですとも。ディミュクルもいなくなりましたし、アーレイとは親しくしているようです」  魚から顔を上げると、ディラーは表情を硬くする。それだけで事情がわかった。  タイラード・ディミュクルと断定して言わなかった理由は、叔父にあたるディミロも共にいなくなったと言う事だろうか。 「死んだの?」 「降格され、地方に配属となるでしょう。タイラードは家を出され、五年の巡礼へ出る予定です。……しかし二人が総本山から出て行くには、まだ時間がある。接触してくる可能性があります」 「教皇がわたしに神官が会いたがっていると言ってたわ……」 「別の者でしょう。巫の噂は教団中で持ちきりです。信者達の口から他国に噂が渡るのも、時間の問題だ」 「警告、感謝するわ。でも、タイラードはもう何もできないんじゃないの? ……ああ、叔父ね」 「野心の強い男です。このまま素直に引き下がるとは思えない。身辺に十分注意なさい。あなたは具合が悪いのだから」  そっと人差し指の関節が目元をなぞった。 「調子はどうです。私が触れた後、酷く痛がっていたのが気になっていました」 「本当に大丈夫なの。だから心配しなくていいわ。痛くなったのも、あなたのせいじゃないの。本当よ? 病気だったの、体の循環がおかしくなって……だから気にしないで」  ええ、と短く返事をしたディラーは目元を柔らかくした。きりりとした表情が驚くほど柔らかくほぐれる。  ずっとそうしていればいいのに、と言いかけて止めた。女性に対する口説き文句のようだったからだ。彼はプライドを傷付けられ拗ねるかもしれない。 「タイラードは、この後死ぬわね」  無感動に言い放ったハルを叱咤する訳ではなく、手を止めたディラーはよく焼けた魚の表面を見つめた。  あまりにも元気がない様子だったので、ハルは骨を囓りながら聞く。 「何か言いたいことがあるんでしょう?」  しばし迷ったディラーはぽつり、ぽつりとつぶやき始める。 「エクソシストが消える事を報告しました。しかし、反応は芳しくなく、高位神官達は空席になったディミュクルの席ばかりを気にしています。……状況は改善しないでしょう。猊下もそこまで手を伸ばしてくださるかどうか」 「黙って見ているのも間違いじゃないわ。あなたがどうこう出来る問題じゃないもの」 「私は下級貴族の出ではありますが、かつて王国騎士として働いていました。今は神官やエクソシスト達に剣を教えています」  腕を買われ、教職へ導かれてからは教団の膝元にずっと住んでいる。平民から見れば出世街道を突っ走っているだろう。 「しかし、何年もここにいるうちに、私は戦闘本能という物を忘れてしまった。体は確実に訛り、現役とは言いがたい。果たして私の教えで生徒達は身を守れるのか。職を優秀な人間に明け渡した方がいいのではと最近は考えます。……申し訳ない、こんな話をして」 「懺悔じゃないから、わたしであってるわ。あなたは初めてあった時みたいにツーンとしてればいいのよ。そのほうが似合ってる」 「それは! あなた達が無茶なことをしたから怒ったのであって、私はいつもああいう状態ではありません!」 「そう、失礼したわね。……要は、鈍った体をどうにかすればいいってことでしょう? だったら、手伝えるわ」 「調子が悪いのでは?」 「目はもう治ったの。……わたしの荷物、今はどこにあるの? 鉄剣があったでしょう?」  串に使った枝を鉄剣に見立て、眼前に構える。刃のようにつり上がった目を見て、気圧されたようにディラーは生唾を飲み込んだ。 「噂は本当よ。わたしはオンドロード領の悪魔と戦った。これ以上の戦士がいるなら、そっちに頼めばいい」 「対価は?」  顔を顰め、ハルは視線をそらした。 「これはお礼のようなものよ。……言わせないで。それに、わたしも体が鈍ってるのよ」  彼は苦笑する。 「失礼。お願い致します」  膝に手を突き、深く下げた頭が上がれば、そこに弱弱しい気配はもう無かった。 ★★★  洞に帰ったハルは、真っ先にファズに話をつけた。  明日からディラーと剣を交えること、不穏な動きがあるらしいが、どうにかなるだろう事を伝えると、渋い顔をしたファズは反対した。 「でも、約束をしたのよ」  そう言ってしまえば反対することはできない。般若のような顔をしたファズはいくつかハルに約束させ、仕方なく洞から送り出すことになった。  それが、今朝のことである。 「……話と違うわ」  ぶすりと告げればディラーは悪びれずに、 「真剣でのやりとりはここでしか認められていませんので」  涼やかに告げられた言葉に舌打ちする。  踏み固められた剥き出しの地面は半径数十メートルはあるだろう。遠目に小さな小屋が見え、周辺にこちらを伺うようなギャラリーがひしめいていた。その中にはリンガルとアーレイの姿もある。 「始めましょう」 「あなただけって話だったのに……」 「何を言っているんです、戦うのは私だけですよ。嘘は言っていません」 「短命種が狡猾で厚顔無恥なのをすっかり忘れていたわ」  けれど、約束してしまったものは覆せない。これから滞在が終わるまで毎日ディラーと剣を交えるのだ。憂鬱になったハルは「生徒にみっともないところを見られても良いの?」挑発混じりに鉄剣を抜き放った。 「ルールは二つ。相手を殺さないこと。参ったと言ったら試合を止めること。いいですか?」 「いつでも……ああ、言い忘れてたけど」 「なんです」 「対人戦と悪魔との戦闘はまるで違うわ」  だから、と続ける。 「わたしのことを悪魔と思ってかかってきて。そのつもりで行くわ」 「なるほど」  くるりと鉄剣を回せば、腰を落としたディラーが上体を貸すかにひねり、長剣を振り切った。  虹彩が虹色に輝き始めた。 ★★★  本日はその辺を優雅に飛んでいた鳥がおやつである。 「……もう何も驚かねぇよ」  諦観を抱いたかのようなアーレイは手慣れた様子でたき火に小枝を投げ入れた。最初は火打ち石がないとつけられないなどと甘えた事を言っていたが、今や魔術によって火花を散らせる事ができるようになった。  その横には遠い目をしたリンガルが羽をむしっていた。最初は引きつった顔をして腰を抜かしていたのだが、今や四つ足の動物から魚まで様々に捌けるようになっている。 「……原始的すぎます」 「別に一人でもできるわ。その変わり分け前はないけど」 「リンガル! 薪もう少し拾ってくるぜ!」 「あ、ずるい! ボクは川へ行って内蔵とか洗ってきます!」  舌打ちしたハルは、今日もおやつが四分割される事に臍を噬む。  ディラーとの最初の手合わせで、初撃で昏倒させたたき起こすと言う拷問じみた事を繰り返したあと、ほんの少しだけ可哀想になって魚を焼いてあげたのが始まりで、それからはほぼ毎日なにか獲っては焼いている。  最初は淡泊な川魚を差し出され、周囲は拷問だいじめだ何だと騒ぎ立てたくせに、ディラーから魚を奪いむさぼり食った生徒二名の顔は忘れない。リンガルとアーレイのことだが。  野蛮人め、と言うような罵り言葉を引き気味に吐いた彼らは何をトチ狂ったのか、次の日には野営のやり方や山の歩き方を聞いてきた。ハルは拒んだ。拒んだがディラーの巧みな罠によって情報を吐かされた。まぁ、それほど重要な事ではなかったので口が軽くなってしまったのだが、釈然としない。  そうして今日まで見知った知識を強盗共に奪われたうえに、捕まえてきた食材までも奪取されるとは……自分は怒ってもいいのではないか。ハルはそう思う。  これが終わったら洞に帰れは、寝転びながら絵を見つめ獣の話を読み進めた。  毛玉を吐き出すために必要な草の探し方、その種類。毛の生え替わる時期や、子供でもできる狩りの方法。  スポンジが水を吸い込むように、ハルは知識を頭に入れた。わからなかったこと、戸惑っていたことの答えがあった。洞の中で天上を眺めているだけで、ハルは誰かと話をしている気分になった。  天上の爪痕は何も言わなかったが、一掘り一掘りに優しい気持ちが込められいるのがわかる。なぜなら、その全てが子供やここを訪れる同族に伝えるために丁寧に掘られた物だからだ。  レイディミラーの洞はその点、知識欲に溢れた好奇心がうかがえた。語源や短命種の古い文字、生活習慣や、どの程度の種族が存在し、どんな特徴をもっているか。様々な質問が書かれ、その下に答えがあった。  獣達は知識を分割して記したのかもしれない。そうならモリトが根を張った後、他の洞を見に世界を旅するのも悪くないだろう。  食事を終え、最後の一戦となった。  ぼう、と考えていたせいか初動が遅れた。たった数コンマだったが、眼前に迫った切っ先を撥ね除ける。鉄の重なり合う歪な音が響いた。 「っく!」  悔しそうな声と共に右斜め下から切り上げ、振り下ろされる短刀を柄で絡み獲って跳ね上げる。流れに任せ、手首を返すことで昨日のように短刀を取り落とすことを回避したディラーは半歩下がった。半身が沈み、つかみ取った石が二つ飛んでくる。  片足を下げ、体を横向きにすることで避けると、下からストレートに切り上げてくる刃先が左目を狙った。 「指三本分くらい、踏み込んで。それでも浅いときは蹴りでも何でもいい、追撃して!」  顔をそらして短刀を除け、空を切った腕を握る。鉄剣を持ったまま地面に手をつけ足を跳ね上げる。右肘がディラーの腹を押し上げ、腕を引く。彼は歯を食いしばったまま後方に飛ばされた。受け身を取ったのは、流石と言える。 「ありがとうございました」 「今日はもういいの?」 「いつもより時間がないんですよ。昨日の講義の続きをお願いしたい」  河原の大きな石に乗せていた革袋を持って、ディラーは座り込んだ。  戦闘の時はいつもの神官服ではなく、汚れても良いよう黒いブーツにズボン、肘まである戦闘用の手袋をはめ、かっちりとしたジャケットを羽織っている。  革袋から取りだした万年筆はずいぶん古い。ペン先を変えて長年愛用されているのだろう。それから白紙の書を取りだして、めくる。半分ほど書かれたそれは、彼の日記なのだそうだ。その日にあったことを書いているという。 「どこまで話した?」 「ミローネ地区であった抗争に巻き込まれたときの話まで」 「なら、どうして巻き込まれたかって所から続きを話すわ――」  ただ道を歩いていただけで、運悪く巻き込まれることがある。そのとき取った行動が模範的なのか、そうでないのかはわからないが知っておいて損はないだろう。ディラーは王国騎士だったが国内勤めで、それほど遠くへ行ったわけでは無いらしい。  国の外からやって来たような旅人の話は、それだけで興味を引かれるらしい。剣を交えた後、少しだけ話して聞かせるようになっていた。  そういえば、と話ながら思う。  次はどこへ行くのだろうか。  パイロン王国は今までで一番長く滞在している。そろそろ次の国へ赴き、土地を見て回ることになるだろう。  けれど、それはもう少し後になる事など、その時は知るよしもなかった。