進み

 黒猫の獣人ダグラスは、目を瞬いてぽかん、と口を開けた。  鋼鉄色の髪に金の瞳。鋭い双眸はよく研がれた剣のようで、触れれば切れてしまいそうだ。人間のような滑らかな肌はぬけるように白く、幼いながら巨大な戦士のような威圧感を纏っている。  おそらく亜人だろう。隣に立つ緑色の髪と目をしたモリトと同じように、何の種かダグラスには全くわからなかったが。 「お初にお目にかかります、巫の護衛殿」 「ハルと言います。何のご用で、ここに」  す、と細まった双眸に怯みながら白紙の書を差し出すと、ハルは黙って受け取った。子供らしさが抜けきった鉄の人形のようだ。 「共に旅をする者との顔合わせと、洞の中を見せていただきたく参りました。ファズザラーラ様には許可をいただいたとのことですが、お許しいただけますか?」 「……………」 「中を拝見させていただいても?」 「神木自らがそう言うなら、わたしに否はありません。……が、そのような物をみて、どうなさるおつもりです」 「それはもちろん、スケッチします! その白紙の書に全て記して帰りますとも! 神木の洞はかつて、何人もの神官が中に入りたいと懇願し――いえ、猊下もそうなのですが、特別な結界が張られ、未だかつて入れて貰った者はいないそうなのです」  その道の場所が許されると知って、飛びつかないわけが無い! そう大仰に力説するダグラスを白けた目で見つめながら、ハルは本を返した。  洞に結界を張っていたのは神木によって理由は違うだろう。だが、短命種が中に入れば歴史的な価値がどうのと言い出すに決まっている。  そして、中の記述の全ては獣が書き記した物だ。獣から見た世界、地理、そして自分達の生態や病気のこと、歴史だ。  それをさらすというのは、一体どう言う事だろう。 「なるほど、洞の中に興味を持っているのはわかりました。……それで、持ち帰った記録をどうなさるおつもりですか」 「許されるならば公開したいと思っております。できなければ個人的に学ぶことになるかと思いますが……」 「学ぶ、ですか」 「全て神語で書かれているとモリト殿から聞きました。もしかしたら創世の時代に近づくことができるかもしれません」 「世界の始まりについてですか……。経典をお疑いに?」  意地悪だったか、と思ったのは猫耳がへにゃりと下がったからだ。ダルドに使わされたというなら、少しは話を聞いているのだろう。 「ごめんなさい」 「いいえ、とんでもない! 不勉強な僕らが悪いのです。そしてそれを知らしめるに足る証拠を発見できればと」  証拠が無ければ信じない。それは当たり前のことだ。  創世の記録というのは神々がどうやって世界を作ったか、という所の部分だ。教会は世界にいくつも存在し、宗教戦争こそ無いが自分達の作った創世記を掲げているところもある。  例えば亜人至上主義を歌っている宗教は神様は最初、亜人から作ったと言って憚らない。勝手に泡から出現したのに想像力が豊かだ。他にもあるが似たような物なので割愛する。  洞の入り口に立ち身をかがめたダグラスは緊張で乱れる息を止めて手を伸ばした。一瞬、入り口に張られた透明な結界が指を留めたが、力を込めればゆっくりと中に埋め込まれていく。  は、と息を吐いたダグラスは、ゆっくりと中へ入っていった。 「一時的に短命種が入れるようにしたけど、普段は獣と仲間達しか入れないんだ。中に虫が入るとむずがる子供がいたからね」  懐かしむような表情をして、ファズの精神体が現れた。 「怒っている? 君達だけの場所を見せたことを」 「洞はファズの一部だから、あなたが不快じゃなければいいと思うわ。ただ、どうしてなの」  つれないなぁとつぶやいたファズは首をかしげた。わかっているくせに、はぐらかそうとしている。睨みつけると両手を挙げて、参った! と微笑んだ。 「共に旅をすると言ってたけど……」 「あの短命種は次の旅でハル達と一緒に王城へ向かう事になる」  みるみる強ばったハルの顔を見て、ファズは頬を突いた。 「次の旅では、まっすぐ王城の神木に会いに行ってほしい」 「何を企んでいるの」 「そう見えるかな? でも、悪い事じゃないさ。二人はここへまっすぐ来られなかったと言ってたね?  あの短命種は高位神官だから、城に入るのを拒まれることもない」  その通りだったが何かがおかしい。  懐疑的な眼差しをモリトに移すと、地面にしゃがみ込み、蟻の行列を眺めている。本当に怪しい。 「隠し事をしてる。わたしに知られたくないと思ってること……この間の約束の事?」  ハルは視線を戻し、ファズの目を覗きこんだ。 「それとも、わたしが反対して邪魔すると思うような事を持ちかけて、その見返りに洞の中身を見せると言ったの?」 「それは完全な誤解さ。交渉を持ちかけたのは本当だけどね。……これからモリトは世界中の神木に会いに行くことになる。生き残った神木の話は聞いておいた方がいい」  それはハルも賛成するところだ。  だが、ハルは心の中に空洞ができたように空しくなった。  これからモリトは神木を巡る旅に出る。しかしその横には沢山の護衛が付くだろう。 「じゃあ、わたしは用済みになったってこと?」  握った手の、指先が冷たくなっていく。 「どうして!?」  飛び上がったモリトが、胸に顔を埋めるように抱きついてきた。よろめいたハルの背中に手を回し、ファズが顔を顰める。 「短命種と旅をするのがそんなに嫌だったのか?」 「そんな事ないわ。でも、これから短命種がモリトを守るようになれば私はもういらない。だから――」 「いらない!! いつ私達がそう言ったんだ! まったく、本当に、まったく!」  尻餅をつくように座り込んだファズに巻き込まれ広い胸に閉じ込められた二人は慌ててもがいた。ファズは二人の腹に手を回して引き寄せると、己の太ももに座らせる。ハルもモリトも膝を抱えるように丸くなった。 「ハル、獣と私達の話を聞いたね? なら捨てる、捨てないの関係じゃないのはわかるだろう? 種を賭けて私達を守り続けた隣人を、今更捨てるような薄情者に見えるのか?」 「別れの時は来ると思ってたわ」  まったく、これは苦労すると嘆き、額に手を当てながらファズは嘆息した。隣の膝でモリトも頷いている。ハルは自分が分からず屋のように言われるのに納得いかなかったが、懸命にも口を閉じた。 「そんな不満そうな顔をして……。いいかい、私達神木は君がどう生きようが、多かろうが少なかろうが変わらぬ愛を捧げる。信じないのは侮辱に等しいぞ。モリトにはハルが必要だ、突然いなくなったら寂しいだろう?」  寂しい、と言われハルはそろそろとモリトを見つめる。ちょっと大きくなったと思ったのだが、目にいっぱい涙をため、絶望したように下唇を噛んでいる姿を見ると、あまり中身は変わっていないように見える。  ハルは申し訳なさと、混乱と、少しの羞恥でうつむいた。頑なだったかもしれない、と。  くしゃくしゃに歪めた顔を見せたくなくて、ハルはファズの長衣に顔を押しつけた。そこからは花の柔らかで甘い香りと、果実の香りがした。布は柔らかい葉のようにハルの肌を包む。 「ああ……、やっぱり獣は可愛い、ずっと膝の上に乗せておきたい……。モリトはいいなぁ。私も、もう一回モリトになりたい」  そんなの無理に決まっているのに、でれでれした顔でハルをなで回す。これが街の大通りであれば勾引が出たと半眼で見られるレベルである。運が良ければ衛士が来るだろう。  しかしここはヘリガバーム教団の総本山で、普段教皇しか立ち入れない区域である。そんな助けなど来ず、ハルは気恥ずかしい思いでいると、ボクもされたい! と仲間に入ったモリトと一緒にしつこいほどの頬ずりをされた。  それはダグラスが洞から出るまで続き、二人は存分に撫で繰り回された。 「熱中して申し訳ない、夕餉の時間も過ぎてしまいましたね。……おや、お二人とも片頬が赤くなっていますね」  それは頬ずりによる摩擦熱で赤くなっただけだが、ハルは無言で視線をそらした。誰が頬ずりしたかなんて言いたくない。  また明日も来るというダグラスを見送って、その日は三人で川の時になって眠った。  こうしてハルは、誤魔化された。 ★★★  大変です、と訓練場で剣を交えていたハルの元にリンガルがやって来た時、ようやくか、とハルの中に感慨にも似た気持ちがわき上がった。  渡された手紙を開いてみれば、差出人はタイラード・ディミュクル。すでに総本山から追い出され生家に返されたはずの男の名前だ。彼は五年の巡礼に出たはずだが、ハルに決闘を申し込めるくらいには近くにいるらしい。  リンガルの後を付いてきた使者は恭しく頭を垂れた後、是非を問うた。 「受けましょう。こちらの要求は前と同じよ」 「かしこまりました」  少し動揺した様子の使者は書類のサインを要求してきた。速やかに確認した後、ハルは親指を噛みきって血判を添える。その後、血文字で名を書いた。 「よ、良かったんですか」 「ええ」 「本当に?」  重ねて問い返すリンガルに、周囲は不安そうに目配せ会った。説明が面倒になったハルは寄越された用紙を渡し、嘆息する。 「タイラードが決闘を? あの後タイラードに会って何かしたのですか」 「知らないわよ。会ってもない。でも、向こうは名誉を汚されたと決闘を申し込んできた」 「これは家名を使って出されています。教団で行われる決闘と違い、異議があるなら裁判を申し立てれば戦う必要などない。パイロン王国はそう言う法律が敷かれています」 「それは知らなかったわ」 「嘘おっしゃい。おおかた面倒だから殺してしまおうとでも思ったんでしょう。どうにかできないか掛け合いますから大人しくしてなさい」  ぎょっとした周囲は「まさかそんな……」と首を振ったがハルが舌打ちしたことで黙った。半分以上本気だったのだが、ディラーは抜け目なく観察している。 「決闘と言うからには、要求もあるんですよね? どんな内容で行われるんでしょう」 「あ、オレも知りたい」  リンガルとアーレイに手紙を渡してやれば、彼らは好奇心を持って奪い合った。  しげしげと読んでいくうちに顔色が悪くなっていく。 「おい……五十人抜きとか、ばかげてるぞ」 「代役にしても多すぎます……。中にはハズメンド兄弟も入ってますよ。叔父のディミロ・ディミュクルの差し金でしょうか」 「それも含めて調べます。さぁ、行きますよ」 「僕達も手伝います! アーレイ、知り合いに聞いてこようよ。タイラードの取り巻きはまだ教団に残ってたよね?」 「ん、おお! そうだな!」  行くとも言ってないのに、ハルはずるずると引きずられていった。  ディラーは真面目な教師だ。人望も在り出世欲がないためか、同僚も協力的な者が多い。そのため花に群がる蝶のように四方から情報が集まった。噂から確かな者まで。これで五年の巡礼の内情を知らなかったのは嘘みたいだ。  言えば、彼は苦笑しながら「神官――特に貴族に対する情報が飛ぶように広がるのは早いのです」と言う。誰もが自分の進退に深く関わる事だから、だそうだ。納得がいかない。 「話をまとめると、タイラード・ディミュクルは”英雄の名を騙る者に制裁を加え、偽物だと世に知らしめるべきだ”という叔父のディミロの口車に乗せられているようです。本人は五年の巡礼を嫌がっているようで、なんとかエクソシストの称号を金で買えないか苦心していたようで、ディミロの話に飛びついたそうです」 「裁判をすれば、わたしへの賠償請求。勝っても賠償請求と、ついでに恨みを晴らせるってわけね。短絡的だわ」 「オンドロード領の英雄の話は今だ正しい情報が民間に出回っていないようですし、向こうの言い分が裁判で通る可能性もあります」 「……前から思ってたけど、その英雄がわたしって疑わないのね」  「あれだけ痛めつけられればわかります」とディラーは肩をすくめた。  最近タイラードは実家にも居づらくなって、その辺を放蕩し、暴虐の限りを尽くしているらしい。実家の金を使ってその日暮らしの傭兵達を雇ったりもしているようだ。チンピラを従えたガキ大将のようなものである。  何ら脅威にもならないな、と内心考えながら聞き込みの途中で庭師から貰った野菜スティックを囓った。ぱきん、と取れたての野菜がしなやかな音を立てて折れ、歯の間からじわりと野菜の甘みが広がる。  決闘の申し込みには、期日と要求があった。 「ディラー、ここまでありがとう。後は自分でやるわ」 「裁判の手続きでしたら――」 「いいえ。必要ないわ」  端的に言って続ける。 「決闘は十日後、撤回はしないわ。五十人だろうと百人だろうと、順番に首をはねれば良いだけだもの。――ところで、ディミロの情報がこうも早く流れる事って今まであったの? その人、高位神官まで上り詰めたんでしょう?」  鳥肌の立った腕を押さえるように擦ったディラーは目の前にいるのが、本当に自分と同じ生き物なのかと疑った。まるで鉄のように冷たく刃金のように鋭い。慈愛や怒りと言ったおおよそ多種であっても持つ感情が抜けてしまったかのように無感動である。  道端の羽虫を指先で潰すような気軽さを敵に向けるのは、味方となったら心強いだろうか。いいや、恐ろしい。一つ間違えばすぐにでも羽虫と同じ道を辿るのは明白だった。 「元々、強引な手法や他者を陥れることに長けていた人物です。権力が離れれば人望はあったものじゃない。こんなものだと思いますが?」 「そう……。手紙の出し方を教えてくれる?」  どこに、誰に出すのだろうか。  思って追求するのは止めた。深追いは首と胴が離れる結果になるかもしれないのだから。