わがままを言った

 わざわざ教皇が下に降りて病人を受け取る訳にもいかず、ディラーは初めて教団の最上階付近に踏み行った。  庭に続く階段の前で教皇が立っていた。一介の神官が教皇を待たせるなど前代未聞である。自然とディラーの足が速くなった。  教皇は銀色の杖を持ち、引きずるほど白い長い裾の衣を纏っている。正装だ。胸には教団の紋章をつけ、ハルとモリトを見つけると顔を顰める。  ディラーに抱えられた少女は成人もしてないだろう年齢で、目を押さえて脂汗を垂らしている。噛ませている布を見れば、口を切っただけでは説明が付かない血が染みこんでいる。不安そうにこちらを見る少年は更に幼い。どちらも尋常ではない様子だ。  ここまで来てだめと言われないだろうか。  不安に思ったとき、側仕えに杖を持たせた教皇が両手を差し出した。 「はやく渡しなさい」 「っ申し訳ありません」  心臓が飛び出そうになりながら、ハルに「暴れないように」と注意しながら受け渡す。振り上げた指の一つでも顔に傷をつければ極刑ものだ。  噂に聞くダルド教皇は慈悲深いと評判だが楽観はできない。彼も貴族であるからだ。  なのに―― 「おじさん誰? ハルを連れてってくれるの?」 「モリト、そのような口の利き方をしては!」 「案ずるな、通りの分からぬ幼子に何もせぬ。それより神木の元へ早く行きたいのではないのか? 童、そなたはここに残るのか」 「一緒に行く! ――おじさん、ここまでハルを持ってくれてありがとう」 「あまり生意気な口をきかないように」  頷いたが心配だ。はらはらするディラーにリリカは大丈夫だと背中をすった。 「お願い致します、猊下」 「うむ、では行くぞ。ついて参れ」  落とさないでね、と言うモリトの言葉にダルドは考えたように立ち止まった。まさか、と二人がひやひやしていると、側仕えが持っていた杖をモリトに渡す。白く滑らかな杖は精巧な細工が成されていた。 「この杖は教皇の証である杖。尊いとされている物だ。もし私がこの子を落としたら、それはそなたの物だ」  ひっと悲鳴を上げたのは何も二人だけでは無かっただろう。周囲の者達は教皇に睨まれ口を閉ざしたが、側仕えの目は雄弁に「やめてください!」と言っていた。  モリトは口を尖らせながら教皇を見上げる。 「絶対に落とさないで。ハルはとても弱ってるんだ」 「わかった、わかった。ほら、歩きなさい」 「あと、この杖はいらないけど邪魔そうだから持ってあげる」 「よい子だ。そなたは良く気が利く童だな」 「童じゃないよ」 「そうか。そうだな、モリトという名だったな。私はダルド・パトリオティズム。ヘリガバーム教団の教皇をしている者だ」 「ダルド」  おざなりに褒められて少し安心したのか、モリトは杖をしっかり握った。自分より長いそれをもてあまし、地面にこすりつけながら歩くが教皇は気にした風も無く、ハルを抱え直す。 「お前達はどこから来たのだ」 「下だよ」 「そうか、それもそうだな。私の質問が悪かった。神木に会いたいのはなぜだ。かの木に治癒力はないと聞いただろうに」 「あそこの木にはあったこと無いけど、きっとハルを治す方法を知ってると思う。ねえ、もっと速く歩いて!」 「おっと! 急に背中を押してはならぬ! 事を急いでは仕損じる、余裕を持たねばならぬぞ」  二人は聖堂を抜け、階段を上り、庭に出た。  頂上に近いためか空気は薄く、空は神木の枝で埋め尽くされている。緑色の葉が舞い落ちると、黄金の光を放ちながら消えた。神木の葉は枯れずに地面に落ちると、そんな風に霧散するのだ。  背後に付き従う者はもういない。ここから先は教皇のみ入れる場所なのだ。庭師すら決められた日の決められた時間しか立ち入れない聖域である。  教皇はずんずんと進んでいった。ハルはうめくばかりで、次第に弱々しくなっている。 「ダルドはずっとここにいるの? 神木と仲が良いの?」  他に人がいたら飛び上がっていただろう呼び捨てに、しかし彼は怒らない。 「わからぬ。言葉を聞ければいいのだが、私の耳は植物の言葉を解さぬゆえ。妖精族であったならと思うことがある。かの原種は植物の声をも聞けたとあった」 「じゃあ、どうしてボク達を探してたの? お話できないんでしょう?」  ダルドが思わず立ち止まり、モリトを見る。速くとせかされ歩くが、疑問が残った。 「その口ぶりだと、オンドロード領の英雄とはそなた達なのか?」 「ボクの名前はモリトだよ? ハルは、ハルって言うんだ。えいゆうって名前じゃないよ」 「……そなたは浮き世離れしておるな。オンドロード領で悪魔を追い払ったのはそなた達かと聞いている」  今度は「そうだよ」と頷く。また立ち止まりそうになったものの、ダルドは意志の力で進む。嘘を言っている様子はなかった。  いや、幼いがゆえの無知な返答かもしれない。  本当に彼らが彼の英雄とはダルドも考えていない。いないが、呟く。 「本当の英雄ならば、なぜこの地に来た。留まれば良い待遇を受けられたはず。それとも、神木の根元で栄光を享受しに? たしかに規模で言うなら教団の方がいささか大きいか」 「どうしてそんな事ばかり聞くの? ……ハルが、たくさん質問する人には注意しなさいって言ってた。ダルドはボクを攫うの?」 「そんな事はせぬ。しかし不躾であったな、詫びよう。ただ疑問に思ったのだ。オンドロード領の英雄について話たら、神木は枯れ木から見る間に立ち直った。神の御業かと思ったが、どうやらそなたらを探している様子。……そこへ本人達が現れる。そなたらに接触した神官はいないはずだが、なぜかと」 「それは、神木がボク達を呼んだからだよ」 「神木の声が聞こえるのか」  戯れ言か、寝言か、精神を病んでいるのか。  不思議と偽りではなく、虚言でもないと思った。理由は分からないが、モリトから感じる気配はどことなく神木に似通っているような気がするのだ。それは神木を直接目視した者にしかわからない些細な共有点で、理由さえ明確に上げられない感覚的なものだった。 「詳しいことは言っちゃ駄目ってお母さんが言ってた」  と、ちょうど木の幹にたどり着く。 「――何者だ」  声は、かすれた。  眼前には緑色の長衣を纏った男が立っている。  男はダルドを見、その腕に抱かれた少女とモリトの二人を見つけると、輝くように微笑んだ。芽吹き始めの双葉のような明るい緑の瞳を、慈愛を含めて細め、クリーム色の短髪がふわふわ撥ねた。ダルドに見覚えはない。ないが、不審者とは微塵も感じられなかった。 「モリト!」  駆け寄ったモリトを抱き上げて男は快活に笑った。ダルドは生唾を飲み込んで震えていた。目が限界まで開いている。 「もしや、あなた様は……」 「私はこの神木。この姿は精神体。ファズザラーラというんだ。ファズと呼びなさい。|神木の子《モリト》と|獣《テール》を約束通り連れてきたね。礼を言うよ。二人が訪ねてくるなんて、何千年ぶりだろう! 話を聞いたときには嬉しくて、枯れようとしてたのも忘れてしまった! 顔をよく見せて」  男はモリトを高く持ち上げながらくるくる回り出した。回りに散る花びらもくるくる回り出す。 「君は誰のモリトだい?」 「レイディミラー!」 「そうか、レイディミラーも残ってたんだな」 「ねぇ、それよりハルが死んじゃいそうなんだ!」  さっと顔を青くしたファズは、教皇の腕の中で何とか意識を保っているハルに駆け寄った。 「何をしたんだ?」 「わからない、ここに来る途中で突然倒れちゃった……。ヘイシスは衰弱してるって」 「獣が衰弱!? この子以外の獣はどこ?」 「他には誰もいないよ。ハルのお母さんは死んじゃったんだ」 「そうか……ダルド、その子を洞へ入れて。速く頼む」  緊張した面持ちのダルドは神木の幹へ近づく。  小さな木の洞がある。神木の共通的な特徴の一つだが、魔術を極めたとされるエクソシストも、敬虔な使徒も中に入ることはできなかった。見えない壁で覆われ、確認することもできない神秘の場所である。  手を伸ばせば何かに触れたような気がした。そのまま体を押し込めば、拍子抜けするくらいあっさりとダルドは境界を超えてしまった。  入ると中は思った以上に広い。地面にはよく乾いた落ち葉がぎっしり積まれている。 「上はそんなに高くないから、飛び上がっちゃダメだぞ」 「痛い!」  後に続いたモリトが、立ち上がり、なぜかジャンプした。強かに打ち付けた頭を抱えてしゃがみ込んでいる。  その様子を見てファズはたまらない顔をした。懐かしさに身もだえしているのか、おばか加減に笑いを噛み殺しているのかは知らないが、彼はかなりの子供好きだろうと当たりをつける。 「どこ。ここ」  ぐるぐるとハルの喉が鳴った。柔らかい腐葉土の香りと混じって獣の残り香をかぎ取ったせいだろうか。 「ハル、元に戻りなさい。君は癒やされなければならない」 「でも……」 「ダルド、このことは誰にも言うな。漏れたら私を失うと思え」  ハルの指先をたどったファズは、ダルドに厳しい目を向けた。彼はしっかりと頷く。  本性に戻ったハルは、耳をピンと尖らせ優雅に体を伸ばした。衣服を蹴散らすように脱ぐと、纏っているものは伸縮機能のあるアンクレットだけとなった。 「これは!」 「悪魔じゃないわ」  さっと顔を強ばらせたダルドに告げれば、彼は難しそうな顔をした。 「原種なのか……?」 「それより二人とも、この中から記述を探そう。……どこかにあるといいんだが。寝転がって上を見てごらん」  ハルを膝に抱え、モリトを脇に抱いたファズは天井を指さした。ダルドも寝そべり口をあんぐり開け、感動したように震える。 「こ、これは神語!? このような記述が残っていたとは……」 「はいはい神語です。二人とも読めるよね?」 「お母さんのと違うよ」 「これは、獣達が残したものだものだから、場所によって残っている物は違うだろう。こっちは世界の始まりが書かれているから、あっちかな。ハル、どういう感じ?」 「目が、痛い。開けられないの。……それから体が熱い」 「内側の神力がおかしくなってるのか……」  世界中の学者と神官が涙を流して喜びそうな天井一面には、爪を立てて描かれた絵が神語で記述されている。  木と獣を簡単に現したものだろう。  丸くなったハルをもう一度なでて毛皮を確かめたファズは指を滑らせた。 「これはいったい、何の記述でしょうか……」  神木が話せる。その事実に打ちのめされながら何とか自尊心を無くさないようダルドは問いかけた。 「獣の子育てに関する事だ。怪我をしたり、具合悪そうな絵を探してほしい」  ふと向けられた眼差しに慌てて頷く。  敬語を使うのは何年ぶりだろうか。  王や諸侯に向けて以外なら、幼少のときより他に思いつかない。だが、そんな事はどうでも良いことだ。 「でしたら、あれでは」  洞の一点に伏せっている獣の背中に手を当てている絵がある。横には細かな神語が彫り込まれ、目を模した絵柄がある。 「でかしたダルド坊や! ……ええと『幼児期の<神眼>使用は成長を著しく遅らせ、体内の循環を鈍らせる。ときには痛みを伴い、発熱する』と……。モリト、ハルは<神眼>を使っていた? 目の色が変わるやつだよ」 「悪魔と戦うときは大抵……。片方の目を赤くしてたときもあったよ」 「後でお仕置きだ。治療方法は――」  治療方法は『循環を直すための治療が必要。神木の葉と蜜を飲ませ、神術によって循環を整える』とある。  すぐさま葉を落とし、花の蜜を絞ったファズは指先を使ってハルに飲ませ、背中を絵の通りに優しくさすった。赤い光を帯びる循環の流れが浮き上がり、流れの悪い部分をなぞる。  次第に一定の速さになった流れは消えていき、ハルはふ、と息を吐いた。 「痛みは取れたか?」 「少しだけになったわ。ありがとう……」  恐る恐る瞼を開ければ、暗がりの中に放り込まれたような世界は色を取り戻していた。 「元に戻るにはもうちょっと安静にしないといけないね。今日は眠ってしまいなさい」 「……。でも」 「心配事はわかっているよ。大丈夫だから眠るんだ」  背中を撫でられながらハルはやっと深い眠りについた。洞の落ち葉と乾いた腐葉土の匂いが、体の芯まで張り巡らせていた糸を優しくほどく。 「……ダルド、しばらく二人はここで生活する。誰も近づけるな。ここにいる事を誰にも悟られたくない」  その言葉にダルドは一泊間を置き、 「神木と話せる事は隠すべきとは思いますが……。しかし、彼女達は一体」 「私は大昔、お前達に世界の成り立ちを教えた。教会の経典にも残っているだろう? |神木の子《モリト》と|獣《テール》の話だ」 「テール……? 一体何の話か見当もつきません」  優しく眠るハルを撫でながら、ファズは愛おしそうな顔に複雑な悲しみを混ぜた。 「ハルは世界の成り立ちを知ってるかな? ハルが知らないなら、一緒に話してやる。お前は確かに私との約束を守ったのだから。報いなければならないだろう」