でもそれじゃ

 目を開けた。  ハルは腕の中で寝息をたてるモリトを見つけ、ここは何処だろうと首を巡らせた。乾いた落ち葉の感触が優しく体をつつんでいる。  一瞬、レイディミラーの洞へ帰ってきたのかと思った。体は軽く、あれほどだるかったのに熱も引いている。  夢か、幻だったのか。  柔らかく丸くなった自分の前足は猫のようだ。擬態が解けている。水面に浮かんだ本性を見るときは狼に似ているような、豹に似ているようなよくわからない感じだが、鳴き声は猫だったのを思い出した。獣はおそらく、猫科の動物だろう。  前足をひっくり返すと、柔らかな肉球がある指を開いたり閉じたりする。珍しい物では無いが、目がきちんと情報を伝達することにほっとした。  と、後ろから伸びてきた手がふに、と肉球を押してくる。全身の毛が逆立ち、驚いて振り返るとモリトがごろりと落ちた。 「元気になったようだ」  よいしょ、と前足の肉球を親指で押しながらファズが座り込む。ハルは引っ張り上げられ、後ろ足だけで立ち上がる奇妙な体制になった。尻尾がバランスを取るようにせわしなく動く。 「体調不良の原因は、<神眼>の使いすぎだ」 「わたしの目?」 「そう。あまりわかってないで使ってたみたいだね。しかたないか、誰も君に教えられなかった。レイディミラーを責めないでやってくれ。彼女の洞には言語に関する事ばかり書かれていただろう?」  ふわりと、蛍の光のような淡い光源が出現し、天上を照らし出した。 「獣達は一度、神様に作り直された。悪魔に対抗するために力を貰った。それが<神眼>」  人差し指が天上を指せば、眼球を抜き出したような絵があった。その脇には注釈のような文が作られている。 「<神眼>は強力だが負荷がかかる。失明する獣もいたから気をつけなさい」 「……わたし、何のお仕置きをうけるの?」  怖々訪ねると、ファズはハルを抱きしめた。 「そうだな、この洞に書かれていることを全部読んで、覚えるんだ。それまでここで暮らす事」 「それだけ? 本当に? 皮を剥がしたりしないの?」 「そんな酷い事しないさ」 「でも、短命種はそうするときがあるわ」  ハルの皮が剥がされていないか丁寧に確かめた後、ファズは転がって腕の中に押し込めた。モリトを引っ張って一緒に抱き込む。 「そんな酷い事しないさ。明日……いや、もう今日だな。ご飯の時間になったら配達人が来るから、それまで眠ろう。眠くないなら歌を歌ってあげよう」  ゆっくりと紡がれる神語の歌は、母親が子供を可愛がって愛していると、そう言っていた。 「さて。ダルドが来る前に聞きたい事がいくつかあるんだ。レイディミラーから預かってるものはないかい?」  どこか緊張した、けれど期待した眼差しに二人は顔を見合わせる。  ハルは「あ!」と自分のお腹をさすってうめき始めた。きょとんとしたファズがハルの口から出てきた物を見てぎょっとする。 「うえぇ……」  体液まみれの箱はシンプルで細長い。小枝を削って作られた精巧な棒は二センチほどしかない。筒状で、角が丸く削られていた。よく見ると中心に細い亀裂が入っている。箱だ。 「……どうしてそんな所に」 「誰にも盗られない所にしまいなさいって、レイディミラーが。……まずかった?」  二つを引き離すようにひねると、カチリと音がして、先端に小さな穴が開く。そこから覗くのは黄色い花粉だ。  若干身を引いていたファズザラーラは歓声を上げ、手の平に花粉を落とすと息を吹きかけた。 「おっと、モリトは見ちゃダメだ」 「どうして目を隠すの? 何でダメなの?」 「刺激が強いからだ」 「口付けの事よ」 「――。ボクがまだ知っちゃ駄目なやつだ!」  口付けとは受粉のことだ。知性ある木である神木はその行為をとても神聖視し、見られることを恥ずかしがる。真っ昼間の外でやっているのだから何をと思うが、彼らは真剣で、とくに|神木の子《モリト》が見てはいけないものだとしている。 「成木になれば、モリトにもわかるさ」  頬を真っ赤に染めたファズは、はにかんだ。  獣が旅のついでに花粉を運ぶのは、神の規律にある使命だったらしい。ハルの母親がレイディミラーの所にたどり着いたのを最後に行われていなかった営みが、再現された。  花粉が風に乗って洞を飛び出し、一つの花に吸い込まれた。花はみるみるうちに枯れ、膨れ、青い実を成し赤く熟れ、ぽとりと落ちた。  地面に落ちる前に風に攫われた神木の実フリュイはファズの手に収まった。 「この子はモリトの妹だよ。いずれ君のように実から芽を出して、|神木の子《モリト》となる。優しくしてやってほしい」  慈愛に満ちあふれた顔で赤い表面をなでる姿は、父性に溢れていた。モリトも恐る恐る手を伸ばし、表面を撫でた。  触れた表面はつるりとしているが、普通の果物と違って暖かい。  と、気配を感じたハルの耳が入り口に向く。 「ダルドには何て言うの? 短命種は神木の誕生を待ち望んでる。彼らが悪魔を追い出すために、無理矢理迫ってくるかもしれないわ」  そうしたら、ハルは神木を守れるだろうか。自然と姿勢が低くなり突撃体制を取ってしまう。 「お待たせ致しました。頼まれた物もここに」  入り口から入って来た彼に、ファズは無防備に振り返った。その手に持った実を見つめながらダルドは首をかしげた。 「果物など、この辺にありましたかな?」 「これは大切なものだ。もし食べたら枯れてやるので、そのつもりで」 「か、かしこまりました」 「来たのならハルに食事を」  差し出されたバスケットの中には生肉とサンドイッチが入っていた。  ふんふんと匂いを嗅ぎながら頭を突っ込んで肉の塊を引きずり出す。まだ切れた口内が痛かったが、物を食べられないほどではない。  洞の端っこでハルが租借するのを眺めたダルドは、ファズに「それで」と神妙な顔で聞く。 「昨日の話ですか……」 「あぁ、ハルが食べ終わったら話そう。……そんなに見たら食べにくいだろう」  過保護な母親が駄目な父親を閉め出すように、しっしっと追い出されたダルドは洞の外に座り込んだ。これを高位神官が見たら発狂するだろう。 「ゆっくりお食べ」  口から愛情が零れそうな口調で寄ってきたファズが、ハルの背中を撫でる。とても食べにくいし鬱陶しい。久しぶりに獣にあって触りたがってるのだろうか。尻尾で叩いても猫じゃらしにじゃれるように追いかけ始めている。  それを見たモリトが一緒になって尻尾を追いかけ始めるものだから、神木とは一体何だろう、と言う漠然とした疑問がわき上がった。  租借し終わったハルは残っていたサンドイッチを三口で平らげ、ぺろりと口元を舐めた。 「あっ……。全部食べちゃったわ」  どうしよう、と耳と尻尾をへたらせたハルの頭をもふもふ撫でたモリトは「いいよ」と首を振る。昨日のうちにファズが地下水をくみ上げ、たっぷり飲んだから大丈夫らしい。  しゅん、とした耳を掴んで揉み始めたモリトを羨ましそうに見たファズは「おほん」とわざとらしく咳払いをした。 「それじゃ、お話を始めようか。外にいるダルドを呼んでおいで」 「はーい!」  ずるい成木は隙を見てハルを抱き上げた。膝の間に抱え込むようにし、壁に背をつき上を指さす。ちょうど入って来た教皇とモリトは並んで寝そべった。 「あそこには世界の始まりの話が描かれている」  爪で彫られた絵は、天体のように広がっている。 「神が天地を創り、水を引いて大地を潤した」  と、ファズは何か思いついたように、ダルドに問いかける。 「そういえば、最近の経典はどうなってる? かなり昔の事だから、どう伝わっているか気になる」 「始まりはファズザラーラ様が仰ったことと同じですが、神が天地を創り、神木を創り、我々を創りました。神木は結界の力を使い世界を守っていましたが、我々の祖先は神に特別な力を与えられた神木を羨み、切ってしまった。これにより魔界から悪魔が現れた、と。長いので要約すればこのようなものです」 「だいたい違う」  何てことだ、と絶望のうめき声を上げたファズは「何でいつも忘れるか間違ったように伝わるんだ」と文句を言った。それを聞いたダルドは寝耳に水といった風に目を限界まで見開き、半身を持ち上げた。 「ど、どう違うというのでしょうか!」 「まず第一に、神が作ったのは二種だけだ。神が天地を創った後、生まれたのが神木と獣。獣達は最初、私達と同じで水を飲んで生きていた。|獣《テール》の存在はどこへ行ったんだ?」 「テール、ですか……不勉強で申し訳ございません。最初に創られたと言われている原種の一種でしょうか」  世界に教会を建て、多くの信者をもつヘリガバーム教の教皇が不勉強であるはずが無い。つまり、世界の始まりからして間違った解釈か、歪められた物語が伝わっていると言う事だ。ハルとモリトは既に知っていたが、ファズは絶句した。 「テールというのは、いったいどういった物なのでしょうか……」 「……。昨日もお前は知らないように言っていたから不安だった。まさか、存在自体が消されているのか? 短命種――お前達のことだが、それと獣は全く違う。原種でもない。そもそもお前達短命種は神が創り出した命ではない。そこからして違うんだ」  みるみる青ざめていく顔色を見ながら、ファズは続ける。ハルの腹を撫でていた指先が、弄ぶように毛先を巻き付けた。 「神が創り出したのは世界と神木と獣だけだ。その二つは神の規律を持って生まれる。間違ってしまったのかな、それとも故意にか? とにかく違うんだ、獣はお前達ととてもよく似ているから、混同してしまったのか? ほら、獣はこれだ」  肘を突いたダルドは腹の毛をわしゃわしゃ撫で繰り回されるハルを凝視した。それしか出来ないようだった。口がわなないている。 「短命種と我々の違いは……まぁ、一つだ。神の規律があるか、ないか。神の規律とは大まかに言ってしまえば神との約束を守ることを守る、これに限る。そのため私達二種は絶対に約束を破らないよう規律で定められた。そして種として生まれた時に定められた役割をこなすこを約束している。例えば神木は大地に根を張る、獣は神木の間を行き来する、ということを」