後編

「ニーラぁ!」  今日は朝から曇り空でカーテンを開けても絞めても変わらない天気だったので、洗濯物も中干しするしかなく、ロープを張って干すものだから部屋はさらに暗くなっていた。しかも湿気臭い匂いが部屋中に充満して、ロウソクの火も、今にも消えそうだ。  ニーラは読んでいた本を閉じた吟遊詩人の語った物語を納めた本は、何百冊も家の中にあるが、それは最近出た一番新しい本だった。  椅子から飛び降りて玄関へ向かう前に二つの扉があった。一つはニーラがあたえられている自室と、玄関へ続くドアだ。  自室のドアの前に張り付いてニーラを呼んだ男はおどおどと彼女を見た。  どうやら、厄介な客人が来たらしい。 「ニ、ニーラ」 「わかっていますよ」  男に隠れているように指示してから、ニーラは着ていた黒服のフードを目深にかぶった。  気の短いお客はその間に三回もベルを鳴らし、ニーラは女らしさのかけらもない男の声で囁いた。 「どちらさま」 「出版社の者ですが、原稿を受け取りに参りました、開けてくださらない?」  いつ聞いても可憐な声だとニーラは思った。そして聞き覚えのある声に小さくため息をついた。  時計を見ると午後一時。予定時間よりも一時間も早い。気が早すぎるでしょ、と一人ごちてニーラはドアのチェーンロックを確かめたあと、預かっていた茶封筒を握った。  男が背後で不自然なほど怯えるなか、鍵をつまんで開けた。瞬間、外にいた女が思いきりドアを引っ張って、チェーンが張る耳障りな音がした。  この家のチェーンは他よりも短く、手の指しか入らないようになっていた。と言うのも、こうしてやってくる出版社の女が異常な性格の持ち主で、この原稿を書いた主に並々ならぬ好意を抱いていたのだ。 「原稿はこれです。お持ち帰りください」  ニーラはチェーンを何とか開けようとする女の指に分厚い封筒を握らせて押し出した。素早くドアを閉めるとノブを捻って開けようとしてくる。おかげで鍵を差し込めず、開かないように引っ張るしかなく、ニーラはいらいらした。 「ねぇ、ヨルヒさん。私、あなたの彼女でしょう!? どうして開けてくださらないの!」  ヨルヒ、とはこの迷惑な女が唯一知ってる家主の名前だ。 「おや」  男の声のまま、嘲るようにニーラは言った。 「僕はあなたの恋人になった覚えも、恋人にした覚えもありません。たかだか数回目があったくらいでそう思われてしまっては、世の中の恋人という恋人は大変なことになってしまいますね」 「でも、あなたが私を見るときの目は普通じゃなかったわ! あなたは私のことが好きなんでしょう!!」 「いいえまったく。お帰りください」 「もしかして恥ずかしがってるの?」  違うから、とニーラは心の中で突っ込みつつ女の猫なで声を聞いていた。 「あなたもずっと家にこもりきりだと息が詰まるでしょう? 私、あなたの気分転換につきあえると思うの。きっと楽しめるわ」 「残念ですが、結構です。お引き取りください」 「ねぇどうして? いいじゃない少しくらい。あなたも男なんだから、そう言うことに興味があるでしょう? 私がいろいろ教えてあげるわ」 「ひ」  そろそろ聞くに堪えない声だ…と思い始めたとき、女が壁に手を当てて踏ん張っているニーラの腕に指先を伝わせた。ぞっと背中に悪寒が走り、息を飲む。 「ほら、ねぇ――」  と調子に乗った女がさらに指先で攻撃して来ようとしたとき、透明な液体がかかり、驚いた女の手が引っ込んだ。その隙を逃さずドアを閉め、鍵をかける。  女はまだ諦めまいとノブを回していたが、最後にまた来ると恐ろしい声で叫びながら帰っていった。 「ふうっ」  ニーラはほっとして振り返った。すでにニーラ本来の声に戻っている。 「今日はいつにもまして手強かったですね」 「だ、だだだだだ」  後ろから応戦してくれた男は壊れた人形みたいにがたがた震えている。年はニーラよりも二歳年上で背も高いが、極度の緊張に陥るとこんなふうになってしまう。 「ああ、落ち着いてください。わたしは大丈夫ですから。助かりました、ありがとうございます」 「う、うん。服濡れちゃったね。ごめんよ」 「いえ……何をかけたんです?」 「み、水だよ。……あの人、さらにしつこくなってるぅっ!」  男は息を止めていたのか思い切り吐いてから、そんなことを言って額を拭った。その手にはガラスコップが握られている。彼にしては、思い切ったことをしたものだ。 「そうですね…。そろそろストーカー規制法に引っかかりますよ。あの人、時間の許す限りこの周辺であなたのことを聞いて回っているそうです」  顔色を無くした男にニーラはさらに言った。 「それについては大丈夫です。商店街の皆さんにはなるべくあなたの行動パターンを漏らさないようにしてもらっているし、何かあったら逃げ込ませてもらえるようになってます。皆さんも、あなたの数々の災難話は知っているから協力的なんですよ。でも、しばらく外に出ない方がいいかもしれません」  この男はけっこう有名なのだ。まず、女性に一目惚れされる数が尋常ではない。街を歩いているだけで九割方の人間が、男女問わず振り返る見目麗しい顔立ちをしている。つまり、男にも女にも見える抽象的な顔立ちで、たとえるなら教会に飾られている大天使の彫刻のようなのだ。  まあ、彼が男とわかるだけの身長を持っているので一部の趣味を除く男性は残念がって諦める。  問題は女だ。彼に惚れる女性の半分が盲目的な猪女の場合が多く「押せ押せ!」を絵に描いたように熱烈的なアタックを仕掛けてくる。断れば半分以上は諦めるが、諦めきれない乙女もいる。そう言った女性達には根気強くお断りの旨を告げるのだが、それでも諦めないのが、先ほどの編集者のようなストーカータイプだ。はっきり言って、対処に困る。  そうやって年中女性に追いかけ回されながら酷い目にあっている彼を商店街の人達は平和な日々の一つの刺激として見守っている。 「あの人達がねぇ…困ってるときは助けてくれないのにねぇ」 「まぁ普段は面倒事にかかわらず、遠くで傍観する方が楽しいですしね。でも、本当に危ないときは助けてくれますよ」 「ふーん」  男はいじけたように口を尖らせた。そんな子どもっぽい仕草すら様になるのだから、得しているのか、損をしているのかわからないやつだ。  少なくとも本人は損ばかりだと思っている。まともに外にも出られないのは、人間として、社会人としてマイナスだと。  そのおかげで男に雇ってもらえるニーラはちょっと複雑だ。 「僕の方で、担当を変えてもらうように出版社に掛け合ってみる」  きょとんとしたニーラは、次に眉根を寄せた。 「でも、些細なことでわがままを言うと、本当に嫌なことがあったときに断れないからいやだと言っていませんでしたか?」 「だから今言うんだよ。あの女、君に触った…」  確かに。あの時は本気で寒気がした。少々お灸を据えるように頼んでも「ヨルヒ」の名は落ちないだろう。  彼のペンネームは夜日(ヨルヒ)。本当に奇妙な因果関係で生まれた希代の鬼才と賞される人気作家だ。天は二物を与えないと言いながら、この男はそれを二つも持っていた。一つは美貌、もう一つは文才を。外に出なくていいから小説家を選んだなどと、世の誰も思うまい。  そしてニーラは、彼があまり外出しなくてすむように雇われた護衛であり、家政婦だ。待遇は上々。住み込みなので宿の心配もない。あとは、女性ストーカーが減れば万々歳だ。 「それは後にして、この間出版した最新号を今すぐ回収して絶版にしてください」  先ほどまで読んでいた本を夜日に押し付けつつ、不機嫌な顔をする。彼はなぜと問いかけた。 「なぜって、だって自分の話をされちゃ困るからですよ。これ、声マネ師が国から出て行き、どこかに落ち着いたって所まで書いてあるんです。困ります」 「そう?」 「そうですよ! そうなったらまた仕事を探さなくちゃならなくなります」  ニーラは物語の中の少女だ。あの馬車での逃走劇の後、国外逃亡してある村――現在のこの街に落ち着いた。  こんな幸運、もう二度と無い。 「いくら吟遊詩人の語る物語を集めたものだからって、これが入ってなくてもいいはずでしょう?」 「う、うん」  おどおどと挙動不審の彼に詰め寄ったニーラは顔を覗き込んで首をかしげた。 「……なんか先生、顔が赤いですよ? 昨日はちゃんと寝ましたか?」 「う、うんっ! これはその、緊張するっていうかどきどきするって言うかなんて言うか! じゃなくて、いい加減「先生」って呼ぶの止めませんか?」 「止めません。どきどき? 動悸ですか? お、お医者様は必要ですか」 「え、う!? あ、あのふ、深い意味はなくって!」 「え?」  しばらく考えてから、あ、と思い出す。 「さっきの女の人ですね! 大丈夫です、わたしは先生の護衛ですから、ちゃんと守ります」  にっこり笑ったニーラに吊られて夜日もにこっと笑う。  が、 「そうと決まれば今夜から先生の部屋で寝泊まりしますね。この前みたいにガラス割って侵入されたら対処が遅れてしまいますし」 「うぇっ!?」 「大丈夫です、執筆の邪魔にならないように空気になります」 「そそそそうじゃなくてっ」 「ダメですか? やっぱり気になります?」 「気に………なる」 「でも、これは先生を守るためなんですから我慢してくださいね。では何か作ってきますので、ここにいてくださいね」 「ま、待ってニーラ! ニーラ!!」  さっといなくなったニーラの後ろ姿を見ながら夜日は低く呻いた。  夜日が夜日になったのは、彼が世界に出るのが怖くなったときだった。  他人に向けられる視線に異常なまでの恐怖を感じる。  なんとか外に出ないで生きていく方法を見つけた彼は、作家となって人里離れた場所に家を建てた。  だが、絶対に人に会わないと言うことは生きている上で不可能だ。そこで、担当が人伝にニーラを連れてきた。  最初は怖かった。ニーラは、女の子だったから。だが、彼女に初めてあったとき確信した。彼女もまた、人を怖がっている。  好意による人間不信と、悪意による人間不信。いったいどちらが重傷なのだろう。  個人の気持ちなんて比べてどちらが上など決められるものではないが、ニーラの人間不信は人を信じられない所まで来ていた。その分だけ、夜日は自分が救われていると感じていた。夜日はまだ、人を信じられたから。  最初は笑いもしなかったニーラが、時を重ねる事に笑顔を見せた。つぼみがほころぶような笑顔に目を奪われるまでにそう時間はかからなかった。 「ニーラ、いつ気づくんだろう…」  夜日は男で、ニーラは女だと言うことに。  しかも、一方は一方に恋慕しているのだ。  同じ屋根の下に住んでいるだけで危ないのに、同じ部屋なんて絶対だめだ。主に自分が、我慢できるかわからない。  やっぱり「だめだ」と言わなきゃ、と考えるだけでばくばくと鳴る心臓を押さえた。好きな人以外にしか効果のない顔をしかめ、低くうめく。ニーラは変にまじめだから説得できるかどうかわからない。  切ないため息をついて、今日も夜日はドキドキしっぱなし。  前よりも心臓に悪いかもしれない日常が、けれどそれでも嬉しいと感じるのは末期なのだろうか。末期なのだろう。  もう少しニーラの鈍感さが減ってくれればこの末期症状もどうにかなるのだが、それは当分無理そうだ。 「にーらぁ」  情けない声を上げたため、彼女がどうしたのかととんでくるまであと十秒。