前編
娘がおりました。 それはそれは幼い小さな娘でございます。 娘は生まれてあまり経っていない様子で、それは耳障りな声で泣きました。その泣き声に気づいた者達は、娘の入った小さな籠を持ち上げどうしたものかと首をかしげました。それはそうでしょう。娘の入った籠があったのは、旅芸人が今まさに芸をしていた場所でしたから。 うっかりした母親が忘れていったのだと芸人達は顔を見合わせ、しばらくその場で待っていましたが、その間の赤ん坊の泣き声と言ったら、地獄山と呼ばれる灼熱の山の頂上にある、煮えたぎったマグマのようでありました。ぎゃあと泣けば鳥が驚き、木の葉が揺れ、ううと唸れば赤子の入った籠ががたがた揺れました。 そのたびに芸人達は赤ん坊の機嫌を取るために大騒ぎ。 さてさて、その日が終わって一日が経っても、夕刻になっても、夜を過ぎても赤ん坊の母親はやってきませんでした。一座は夜泣きの酷い赤ん坊を抱き上ながら、広間で一夜を過ごしました。 ずいぶんのんびりとした母親だなんて、朝になっても赤ん坊の世話につきっきりだった芸人達は思わなくなりました。 これは捨て子なのではないかと誰かが言いました。 そうすると、やれ芸人達は困ります。 ここは家もなく、また家族のいない者達が国を渡って芸をする、旅芸人の一座なのです。赤ん坊の育て方はおろか、その生き物に触れるなど今日が初めての者ばかりでございました。 しかし、彼らは旅芸人。一つ所に留まるわけにはまいりません。同じ所で同じ芸をしても儲からないのはおわかりいただけると思います。 ほとほと困った芸人達に、それを束ねる団長は言いました。恰幅のいい女性で、歌をやっていましたから、その声はそこら中に響きます。 「連れて行ったらいいじゃないか。この子は将来、とんでもない芸人になるよ」 すると、ぴたりと泣き声が止みました。 芸人達は安心し、赤ん坊の入った籠を持ちながらその広場を痕にしました。 しかし、不思議な事に赤ん坊はその時から自分の声など忘れてしまったかのように泣かなくなりました。 ぎゃあ、とも、うう、ともうならずに、一日中静かなのです。 芸人達は不思議に思いながらも、夜の眠りを邪魔され無いことに安堵しました。 さて、一座が世界を回り、様々な国の人との出会いと別れを繰り返しながら、赤ん坊はすくすくと成長していきました。旅の一座の者達に、大切に大切に育てられたのです。 大きくなった赤ん坊は、少女となっても自分の声という物を持っておりませんでした。 何をするにも消して口を開かず、じっと芸人達の芸を見るばかり。 ですが、当然そこは旅芸人達の集まりでしたから、芸をしないわけにはいきません。 声を失った少女に、芸人達はおのおの自分の知っている芸を教え込みました。 ある者は玉乗りを、ある者は音楽を、ある者は踊りを、ある者は道化の術を。 少女が十歳になったとき、団長は何の芸をしたいか聞きました。自分の食いぶちは自分で稼がなければならないからです。 すると少女は初めて口を聞きました。流れるような、天をつくような高い声で言ったのです。 「私、みんなの声を真似するわ。それで、芸をするの。でもまずは、お客さんを呼ぶことから始めるわ」 そして、低く轟くような声で笑いました。 さて、少女が広間の中心でお客を呼ぶ声は七つに響きます。お客は足を止めましたが、客寄せをしているのは一人きり。 「さあさあお集まりの皆さん、今から始まるのは世紀の喜劇。いいえ、いいえ硬貨一枚持っていれば、誰でもどうぞおいでください。今から語は不思議の物語。遠い国での話でございます。瞼の裏に映る景色を見つけ、その耳でお確かめください」 少女は集まったお客を見て物語を始めます。 物語は集まった人々を残らず魅了しました。老若男女問わずどんな者の声でも真似できた少女は、その特異な才能を遺憾なく発揮し、どれほど深みのあるバリトンでも、オペラの主役を張れるようなソプラノでも、少女にかかれば麗しい小鳥の声すら真似できたのです。 そんな少女の芸を人々は帰った後でも褒めそやし、声マネ師とたたえました。 仕込まれた玉乗りも、音楽も、踊りも、道化の術の術もありましたから、少女の芸は、瞬く間に噂となって広がりました。 一座の芸人よりも金をかせぎ始め、食いっぱぐれることはなかったのです。 少女は人気の芸人になり、少女が来ると聞けば、どんな遠くの街からでも客がやってきて、大金を落とすようになりました。 けれど、変わらぬものなど、この世に一つとしてありはしないのです。 少女が大きくなるにつれ、芸人仲間は少女を嫌うようになりました。その才能を妬んだのです。 団長だけは拾ってくれたときと変わらず少女を娘のようにかわいがってくれましたし、少女もまた、実の母親のように団長を慕いました。 ある時のことです。 団長は少女をとても不憫に思っていましたから、一座をたたんで一緒に暮らさないか聞いてきました。 仲間達は少女の影に潜むばかりで気づいておりませんでしたが、すでに一流の芸人。もう、一人でもやっていけるだろうと言う団長の言葉は最もでしたし、少女も彼らが向けるの視線に疲れ切っていましたから、そのとおりにいたしました。 だが、どうやら新しい生活をするには学校へ行かなくてはならないようなのです。 芸人には学も知識も必要ありませんが、それを止めるとなると、とても大変なことなのです。そして、国に属していない二人でしたから、まずよさそうな国を選ばなくてはなりませんでした。 二人は割と平和な、けれどそれほど文明が遅れていない国に決めました。 慣れない制服を着て少女は学校に通い始めましたが、悲しきかな、人間というのは異質な物を見ると、まず観察して、そして藪のようにつつき始めるものなのです。 旅芸人をしていたことを知られると少女は芸をしろだと足下に金貨を投げつけられ、拾うことを強要されました。もちろん、助ける者など有りはしません。 少女は負けず嫌いで、少しは人の心がどういう物かを知っていましたので、言うととおりに一流の芸を見せました。 これも悲しきかな、貧乏人でも、一流とつけば人の目は変わるもので、芸を見た者の目は瞬く間に変わりました。 少女は無事に学校を卒業した少女は、寮に住んでいましたから、団長の住む家へと久しぶりに帰りました。 するとどうでしょう、嬉しそうに少女を迎えた団長の顔は、旅芸人をしていた頃よりもずっと丸く、体つきもふくよかに。着ている服もきつそうで、そして質の良い布を使っておりました。化粧品も高そうで、家の庭には数人の庭師が汗を流して働き、家の中には使用人もたくさん控えておりました。 少女はとまどいました。まるで他人の家のようになっていたのですから、それは当たり前のことでした。 少女の前に、三人の男達が立ちました。どいつもこいつも人相が悪くて、一目で悪人とわかる面構えをしています。 「あなたが高校を卒業するために資金を出してくれていた人達よ」 てっきり芸人だった頃にかせいだ金でやりくりしていたのだと思っていた少女は、団長の言葉にあんぐりと口を開けて目を丸くします。 「借金をしていたのですか?」 少女は問いました。 団長は答えます。 「だって学費も、この家の維持費も、食事だって、あんなちっぽけな金額じゃ、たりなかったんだもの」 でも大丈夫よ、と団長は胸を張ります。 「親切なこの方達がお金をくださったのよ。あなたと引き替えにだけれど、当たり前よね。あなたをここまで育てたのは私なんだもの。それに、この方達はあなたを高い値段で雇うと言ってきているのよ」 それは良いことにではなく、悪いことに、と言う意味であり、少女がまだ劇団にいた頃、数多の引き抜き以外に、そう言う誘いがたくさんありました。 時には人を騙すために、時には誰かの身代わりに、と。 「さあ、頑張ってかせいで来てね。まだまだお金が足りないの」 太い指が頭を撫でましたが、その指は一座を率いていた頃の面影すらなく、その瞳は濁りきり、輝きは消えていました。 悲しきかな、少女はやっと気づきました。金の卵を見つけ、うまく操る方法を知った団長は黄金の輝きに心を奪われてしまったのです。団長が注いでいたのは、金を生み出す家畜に対する愛だったのです。 少女はつかの間絶句して、団長には感謝しているけれど、団長の物になったつもりはなかったし、言う事を聞くことは出来ないと言いました。 優しかった団長の顔が変貌するのを見たくなかった少女は卒業証書を持ったまま逃げ出しました。 ああ、悲しきかな。 その才能ゆえに立てられ、妬まれ、やっと平穏を取り戻したと思った少女は、またその才能ゆえに一人きりになりました。 男達は追ってきましたが少女のすばしっこさには叶いません。 金切り声を上げる団長の姿は、まるまると太ったブタか、肉団子のようでありました。 少女は逃げました。 北へ、南へ放浪し、路銀は全て働いて稼ぎました。芸をすれば人が集まり追っ手の手が伸びてきたからです。 日に日にやつれ細くなっていく少女は、ある村で倒れてしまいました。 優しい村人達は、傷ついた少女を介抱し優しく向かい入れます。けれど、追われた少女の心は深く傷ついておりました。 裏切りを恐れ村を飛び出し出した先で盗賊の一派が話をしているのを耳にします。どうやらあの、優しい村を襲うというのです。 盗賊の数は多く、少女の足は止まりました。 「あの村を襲おう」 「いつだ」 「明日だ」 少女は少し悩み、深く響く男の声で言いました。 「だが、明日は晴れている。村人は草刈りに武器を持つ。鎌に足を切られたら、仕事どころではないだろう」 そうか、そうかと盗賊達は頷いて、ではいつの日がいいだろうと考えます。 「では、次の日だ。次の日がいい」 「草刈りは終わり、見通しが良くなっているな」 「ならば、夜にしよう」 少女は再び口を開きます。 「だが、その夜は月が明るい。満月の夜には、狼が出るぞ」 そうか、そうかと盗賊達は悩みます。この地方の狼は、月の明るい晩に人を浚って食べてしまうのです。 「では、いつの日がいい?」 少女は言いました。 「三日後にしよう。その日の夜なら空は雲で覆われ、夜の闇が深く、村人は寝静まっている」 そうか、そうかと盗賊達は村を襲うのを三日後にしました。 少女はその足で村に帰りました。 村人達は少女を捜していたのでほっとします。そして、少女の口から出た言葉に顔を見合わせます。 「明日は草刈りをしてください」 「明日は狼がやってくる」 渋る村人の中で、一人の若者が言いました。 「だが、あなたは刈れと言った。その通りにやってみよう。あなたの言葉を信じよう」 そして、村の回りは見通しが良く歩きやすい道になりました。 次の日の夜、狼がやってきました。綺麗に狩った草のおかげで身を隠す場所が無く狼達は村の回りをぐるぐると回るばかり。 明け方になると、諦めて去っていきました。村人達は大喜びで少女に礼を言いました。 「明日の夜、今日よりも大きな狼が村にやってくるでしょう。罠を村中に張り巡らせ、何があっても、けして外に出てはいけません」 「何があっても?」 「何があっても」 「あなたの言葉に従おう」 村人達は正直で、人を疑うと言うことを知りませんでしたから、少女の言葉をそのまま信じ、朝から落とし穴や罠をたくさん作ります。落とし穴の上には刈ったばかりの草を乗せたりして、準備は整っていきました。 夜、少女は一点の光も見えない闇の中で盗賊達を見つけました。盗賊達は狼用の罠にはまって次々と悲鳴を上げました。 残りの物は、闇の中でなにが起こったか分かりません。少女は低くうめきます。一人の盗賊が「狼が来た」と逃げ出しました。少女は再び大きく鳴きました。 遠吠えに驚いた盗賊達は慌てて逃げ出しました。罠にはまった仲間は、そのまま残されます。 助けてくれと喚く盗賊の回りをうなり声を上げて少女は回りました。一晩中、回りました。 そして朝日が昇る前に、村人の家に戻ります。 「大きな狼が罠にかかりました。人を呼んで、捕まえるといいでしょう」 村人達は喜んで、かかった狼を見に行きます。ですが、そこにいたのは怯えた盗賊で、彼らは初めて少女の言葉の意味を知りました。 少女は言いました。 「あなた達は、人を信じすぎています。言葉のままに、言葉を信じすぎています。わたしが一つ言葉を変えれば、あなた達は狼に襲われ、次の日には死んでいました」 「それでも、あなたは助けてくれた」 少女はしばらく黙り、俯くと小さな声で訪ねます。 「もう少し、この村にいてもいいですか」