第十一話

 見慣れた天井、胸が締め付けられるほど懐かしい部屋の風景。  体を起こした秋音はしばらくの間、声を押し殺して泣いた。 *  地球に帰ってきた。  電柱の名前は電柱のままだし、保健室登校も無い。ロップイヤーの紳士や犬耳の生えた友達も、ヤンデレエルフも存在しない我が故郷地球である。 「空気が旨い! 排気ガスの臭いがする!!」 「姉ちゃんがヤバい」  玄関先で怯えた目をする弟を見送って、秋音は大学へ行く準備をする。  記憶が戻ってから怒涛の毎日だった。  壊れた体調では無理ができないので、医者に定期的に通うことになり、薬漬けの毎日だ。それでも大学へ復帰し、友達と遊んだり勉強に精を出したりした。  部屋の片付けをして、要らない物を整理したり人にあげたりする。母は訝しんでいたが、家の男共は特に気にしていなかった。 「いやぁ、部屋に薄い本が増えてたのはビックリしたんだけどね」  そして貯金が減り、スマホのブックマークが怪しげなジャンルで埋まっていた事も発見した。太一君には是非頑張っていただきたいものだ。日本の娯楽はいたいけな異世界少女を腐らせてしまった。罪深い事である。  うっかり秋音も一緒に沼にはまりそうになったのは、ここだけの秘密だ。  自分が死ぬことに理不尽を感じないわけではない。  どうして私が、と時々暴れたくなる。  それでも秋音は彼女の母親と短い間暮らしたし、あっちにも友達ができた。太一は彼女が死ねばとても悲しむだろうし、家族もそうだ。  こうなってしまったのだ。  諦めるしかない。  秋音には、本当は三つの選択肢があった。  一つ目は生命力をわけず、そのまま死ぬこと。今の状況だ。  二つ目は入れ替わらず蜂輪鏡堺で暮らす事。秋音の寿命は減らないし、長く生きられる。  三つ目は生命力をわけてもらい、地球で暮らす事。  自分の命をわけることを彼女は初めに言わなかった。問いかけなければわからなかっただろう。  だから彼女のことは許すことにした。  せいぜい自分がやらかした事を心の傷にして生きて行けばいいのだ。  秋音は意地悪な女なので。  家族宛に遺言も書き、すっかり身辺整理が済んだ。行きたかった海外旅行も行って、思い残すことは多いが、やれることはやった。  三ヶ月ですっかり体が衰え、衰弱し始めた。  謎の現象に家族も医者も頭を抱えて、それは申し訳ないと思ってる。 「ごめんね、皆」 「姉ちゃん! しっかりしろよ」 「秋音、秋音!」 「お願い、私が死んだらPCの中身は見ずにお風呂に沈めて……」 「こんなときにおバカー!」  いやだって見られたくないデータ多いし……。  こうして、家族に看取られながら秋音は病院で息を引き取った。 *  あの大きな蜂が所在なく立っている。 『アキネがずっと泣いてる』 「そりゃ、しょうがないでしょ。で、何か用なの? 言っとくけど、完全死んでるから。火葬場で燃やされてお墓入った所まで確認済みだから。もうチェンジは無理だからね?」 『……うん』  白い空間の中で逆さま同士で顔を合わせるのも久しぶりだ。 『霊国に魂渡りの事がバレた。あと、ボルゾがごめんねって』 「ボルゾはなぁ、被害者だもんね」  未知のウイルスと間違われて拉致され、人体に混入させられるとかホラーでしかない。トラウマになっていないといいが。  ちょっと気まずそうに顔をそらした蜂が言う。 「それで、魂渡りが霊国にバレるって、どういうことなの?」 『霊国が怒ってる。元の魂を寄越せって。白兎をけしかけてきた……蜂輪鏡堺が大騒ぎになってる。だから、霊国に行ってほしい』 「やだよ、霊国が怒るの意味わからないし。私にはもう関係ないじゃん」 『お願いお願いお願い』 「だめったらだめったらだめ」 『お願いお願いお願いお願いお願い』 「やだったらやだったらやだったらやだったらやだー」 『うううううう』 「お? お? 泣いちゃう? 泣いちゃうの?」 『うわーん! 行ってくれなきゃヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダー! ビャアアアアアアア!!』 「嘘でしょ、そんな泣き方ってある!?」  幼児のように転がって泣きわめきだした蜂にドン引きしていると、白い世界が揺れ出した。ゴゴゴ、と恐ろしい地鳴りもしてくる。 「えっ、ちょっ。何コレ!?」 『行ってくれなきゃヤダー! ヤダァアアアアア』 「あんたそんなキャラじゃなかったでしょ! 我が儘言わないでよね!」  いい加減頭にきて顔面を叩くと、驚いた蜂は動きを止めグズグズと細長い手足で複眼から染み出している涙を擦っている。  蜂って泣くんだなと思っていると『だってだって』と足をばたつかせる。 「最初から分かるように話してよね。霊国が怒るって何で? 誰が怒ってるの?」 『怒ってるのは霊国だよ』 「だから、霊国の誰が怒って何が起こってるの?」  蜂はグリグリと頭を回転させ首をかしげた。 『霊国だよ。……? ワタシは蜂輪鏡堺だよ』 「うん。……うん? 大陸と同じ名前だね」 『大陸はワタシだよ。霊国は、霊国って名前の別の子だよ』  なんだか凄いこと言われている気がする。  秋音は頭痛がするような気がしてきた。死んで体は無いけれど。 「えっと、つまりなに? あんたは蜂輪鏡堺って名前で、大陸そのものだって事? で、怒ってる霊国って言うのは、霊国って名前の人じゃ無くて国とか、そう言うのなの?」 『そうだよ』 「えっ!? じゃあ蜂輪鏡堺って、あんたの体なの!? 皆、その上で生活してたって事!?」 『そうだよ。霊国も他の国もそうだよ。殆どはそのまま寿命が来て、死んで土になってる。霊国は怒ると怖いよ』 「なんでそんなことに……いや、いいや。それで、霊国……さん? がなんで私を呼び出してるの? 怖いから余計行きたくないんだけど」 『グスッ。そんなこと言わないで』 「……いや、まあピンポイントで呼ばれてるなら話は聞くよ。とりあえずあんたの説明わかりにくすぎるから、時系列で教えてくれる?」  幼児泣きの気配に慌てていえば、羽をばたつかせた蜂輪鏡堺が話し始める。もう何でもありな気がしてきた。 『アキネが元の体に戻ったら、兎がすぐに別人だって気付いた。兎は告げ口兎になって、スン。女王に告げ口したんだよ。それで、告げ口女王が霊国に告げ口した』  どう考えても告げ口には思えないのだが、蜂輪鏡堺はそう言った。 「あー、うん。それで?」 『霊国はアキネじゃない魂が欲しいから女王に命令して、兎に連れて来させようとしてたんだって。珍しいから』 「怖っ!?」  まさかの珍獣枠である。 『でも返しちゃったから霊国が怒って、女王に命令して出兵の用意してる。アキネが怖がってずっと泣いてる』 「そりゃ怖いわ。私も怖いんだけど!?」  ヤマトが大騒ぎになった理由も分かるというものだ。 「え、じゃあなに? 私が霊国に顔出せば良いってこと? 霊国さん、ここに来られるの?」 『怖いからヤダ……』 「ちょっと帰っていいかな。具体的には天国」  ふわっと浮かび上がると素早い動きで足を掴まれる。 『別の方法で霊国に行けるっ!』 「でも私死んでるんだけど。え、なに? トランってオバケ存在できるの?」 『わかんない』 「おい」 『でも、ボルゾが体を駄目にしちゃったお詫びに、体をくれるって……』 「マジかよボルゾ凄いな。お礼に体くれるんだ……目に見えないくらい小さくなるかもしれないけど。えー、……私のサイズで入れる?」 『入れるから平気』  ちょっとよくわからなかったが、とりあえず用意されているという体に入ることになった。定着は蜂輪鏡堺がやるらしい。よくわからないが不安しか無い。 「とりあえず、さっと行ってちゃっと天に召されるよ。マジこれっきりにしてよね」 『ごめんね。たぶん、兎くらい寿命があるから大丈夫って、ボルゾ言ってた』 「? どういうい――」  み。  と言い終わる前に視界が暗転した。 *  胸が苦しい。  体が重い。  こんなに息苦しい思いをしたことが――と思いかけ、はたと瞼を開ける。  暗かった視界が一気に明るくなり、秋音は息を吸うことを思い出した。  上半身を起こしながらゲホゲホむせていると、紅茶のカップを差し出される。 「あ、どうもありがとうございま……す」 「とんでもない。気分はどうかな」  聞いたことのある声にぎょっとすれば、シンス伯は「おっと」と茶器を遠ざける。 「うわ、なんで!?」 「聞いてないのかい? ボルゾが作った体は私の所で保管されることになったのだけれど」 「何一つ聞いてないですね。ボルゾに人権が生まれたのも聞いてないですね」  蜂輪鏡堺最悪である。  むすっとすると、シンスはどこかほっとしたような顔をする。 「なにかありましたか?」 「いろいろあったね。話すのは少し待ってくれないか。女王陛下に伝令をしなければ」 「あ、お構いなく」  シンスは紅茶のカップを秋音に持たせると、部屋を出て行った。  華美なゴシック調の部屋である。  ベッドは天蓋付きで椅子の背にはレースのカバー。磨き抜かれたテーブルに壁紙は花柄。なんだかお姫様の部屋のようだ。カーテンはワインレッドで、綺麗な庭が見えた。洋風である。 「場違いなところに来ちゃったな」 「そうでもないさ」  帰ってきたシンスは、ベッドの傍らにある椅子を引く。  入ってきたのはシンスだけではなく白衣のお医者さんもだ。  三名の医者は次々診察し、聴診器を当てたり片足で立ち上がれと言ってきたり忙しい。  医者が帰っていくと、執事のセロメが食事の乗ったカートを押してやってくる。 「なんかすみません。ありがとうございます」 「お口に合うと良いのですが」 「サンドイッチのマヨネーズが美味しいです。食事制限が無いって素晴らしい……!」  片手で食べられるようにという配慮が優しい。  密かに拳を握っていると哀れみの目で見られる。 「食べながらで良いので聞いてほしい。実は私は、霊国の女王陛下の名によって君を守るよう仰せつかったのだ」 「えっ、そうだったんですか? 霊国は珍獣見たさに連れて行くように言ってると聞いたんですけど……。シンス伯は全部知っていらっしゃるんですか? 私がどこから来たのかも」  珍獣……と沈黙しかけたシンスは頷いた。 「並行世界だったね。驚いたよ。それに運が無かったね」 「そうですね。ボルゾの次くらいには酷い目に会いましたよ」  遠い目をすると、そっとデザートを差し出された。 「プリン! というか蜂輪鏡堺に出兵するという話はどうなりましたか? 秋音が怖がってるのでやめてほしいんですが」 「君は寛大だねぇ。恨んでないのかい?」 「そりゃ思うところはありますけど、でも高校生ですよ。私に生命力を上げて自分が死のうとする案を提案されちゃ、ずっと恨むのも難しいです。あっちに帰って、精一杯生きました」  今回の件、元を正せばボルゾを攫った奴らが悪いのだ。もう死んでしまったのだし、今更何を言ってもという感じだ。  肩を竦めて「そういうことなら」とシンスは続ける。 「出兵は取りやめになる。君が目を覚ましたからね。バイオテロをした連中も、ボルゾの証言で捕まえることができた。残党を追ってるが、三日以内に片付くだろう」 「霊国と会いたいのですが、すぐにできそうですか?」 「それはもう終わっている」 「ええ?」  シンスはベッドの隣にある引き出しから地図を出して広げた。 「君がいるのはここ。霊国の私の領地だ。女王陛下からも霊国が満足したのを聞いたようだ」 「大陸って生きて人格があったんですね。改めて聞くと、こっちじゃ考えられないです」 「実は私も初耳だ」  肩を竦めて続ける。 「生徒の中身が入れ替わってると気付いたときには、心底ぞっとしたし、大陸に人格があると聞いたときは仰天だ。この話は内密にしてくれ。世界中が混乱する」 「それなら私の頭が混乱してると思われるだけだと思うんですが……」  むしろ今頭が混乱していないかが不安である。  シンスは声を上げて笑った。 「なるほど、違いない! ではお互い黙っていよう。君の今後についてだが、何か希望はあるかね? 霊国は客人として歓迎するし、蜂輪鏡堺の、あの高校に通いたいなら手配しよう。仕事をしたいなら斡旋もする。何でも力になるさ」 「えっ? すぐ死ぬんじゃないんですか」 「……本当に重要な事は何一つ聞いてなかったのだね。残念な事に、君は霊国生まれの霊国人。過去も立派に偽造中。今は私の元で行儀見習いをしている事になっている」 「この醤油顔で無理があるんじゃ……」 「もう一つ残念なお知らせだ」 「待って、怖い!」  両手の平を振った秋音だが、シンスは無情にも聞かなかった。  ポケットから取り出した手鏡を顔に向ける。 「……?」  秋音は背後を振り返った。  ベッドの背もたれしかない。 「白い髪に青い目。顔立ちも肌の色も頭の兎耳も、誰がどう見ても立派な霊国人」 「だ、騙されませんよ! こんな、此の世の汚れを知らなさそうな美少女が私っていうか同じ感じに口が動いてるー!」 「自覚してもらってよかった」 「嘘だー!?」 「ボルゾも渾身のできにしたと言っていたらしいよ」 「え、ええっ! じゃあ私、もしかしてトランで暮らさないといけないんですか!? 天国への切符は!?」 「それは寿命が来た時に自動的にもらえるはずさ。誰もがね。さあ、現実逃避はしないでくれよ? 私は君の家庭教師を、以外と気に入っていたんだ。将来は通訳として働いてもらって構わない。異能は健在のようだしね」  と繋がれた手を持ち上げる。 「体はボルゾからのお礼だ。気持ちよく受け取ってあげなさい」  混乱していた秋音は小さく頷く。 「ちなみに、君には新しい名前を名乗ってもらいたい。ハーシェ・シュムリア。サクロサンクト語で、秋の音色と言う」  ロップイヤーの紳士はそう言って、片目を瞑った。