第一話

			

 秋音は、熱でふらつく頭を押さえながら横になった。  深海に続くかのようにどこまでも深く生ぬるく、眠りが意識を包み込んでくる。 『誰か来て』  眠りかけた秋音の耳に悲しげな声が聞こえてくる。  ほんの少しだけ意識が覚醒して薄目を開けると、何かの光景が見えた。  何かわからず目をこらせば、うっすらとした羽に黒と黄色の縞模様。細い前足が顔を覆っているのがわかった。それは一メートルはあろうかという巨大な蜂だった。 『誰か来て。早く来て! アキネが死んじゃうよ』  悲痛な声に胸が痛くなる。  蜂はひたすら泣いていて、奇妙でどこか幻想的でさえあった。  それにしても自分と同じ名前だなんて、奇妙な話だ。  人間のように泣いていた蜂は何かに気付いたように顔を上げ、振り返った。  目が合ったと思った瞬間、眼前に迫った蜂が何かを囁く。 ――かわって。 「え?」  目を開けた秋音は、ぼんやりした視界の端で何かが動くのを見た。  ずんぐりむっくりな母の悲愴な顔がビニールのシート越しに見えた。弟の桐太と父も横に立っていた。二人とも、というか三人ともマスクをつけていた。  なんでビニールなんてあるんだろう。  そう思っていると、限界まで目を見開いた母が悲鳴のように叫ぶ。 「看護師さんっ! 秋音が、この子、目が覚めました! 先生を呼んで!」 「姉ちゃんっ! 俺がわかるか? しっかりしろ、姉ちゃん!!」  変な夢だ。弟の桐太も必死な顔をしている。  その時、荒れた指先が頬をなでた。 「秋音!」 「おとーさん」  不思議に思っていると眠くなり、秋音は再び目を閉じた。  耳の奥で家族が呼ぶ声と虫の羽音が煩わしかったが、そのうち消えていった。 ★★★  目が覚めると、疲れたような顔をした母がうたた寝をしている。  首をかしげながら周囲を見回すと、知らない場所だった。  真っ白い個室にベッドだけ。カーテンからは柔らかい日差しと空が見えた。空気はどこかじっとりしていて熱い。 「びょういん」  腕に刺された点滴を見ながら呟く。体が布団と一緒になってしまったかのように動かなかった。滑舌も悪い。口が回らない。  風邪が悪化して入院してしまったのだろうか。病棟と言われればしっくりくる室内を見回して、納得する。  となれば、夢の中で家族が必死だったのは現実のことだったのかもしれない。  はふう、とあくびを噛み殺していると部屋の外が騒がしくなる。誰かの足音と、複数の話し声。  それは真っ直ぐこちらに向かってきているようだった。  前触れもなくドアが開き、目が合った秋音は硬直する。なぜなら入って来た人物は、およそ人と呼べる者ではなかったからだ。  ぎらつく眼孔に緑色の鱗。長い鼻に頬まで裂けた口。袖から見える指先にまで鱗は及び、爪は尖っていた。イグアナのような頭を持った何かは白衣を纏い、その下に紺色のVネックのシャツに、ズボン。スリッパを履いていた。  その後ろにはもう二人、ふよふよと浮いている、子供の落書きのような顔を持ったトイレットペーパーのように薄い何かと、異様に首の長い女性がいた。 「おお! 目が覚め――」 「お化けぇぇええええ!?」  高周波のような悲鳴を上げたとたん、ハッと目覚めた母に縋り付く。 「あんた、目が覚めたのね!」 「お、お母さん、お化けが! お化けがいる!!」 「はぁ? 先生に失礼でしょう」 「先生!?」  周囲を見回した母の言葉に驚愕して見やれば、悲鳴にやられた耳を押さえた彼らは苦笑した。 「いや、目覚めて何よりでした。それでは診察をしましょうか」  そう言って、イグアナ先生は聴診器を取り出した。  胸の音を聞き、吐き気やその他諸々細かなことを聞かれ、答える。 「先生はどうしてかぶり物をしてるんですか?」 「かぶり物? 脈拍が早いね、緊張してますか?」 「は、はい……。今日はハロウィン? お母さん、どれくらい寝てたの?」  ちらっとトイレットペーパーのような看護師さんを見ながら聞く。彼女はもしかしなくても一反もめんとかいう奴じゃなかろうか。 「ハロウィンはずっと先よ。あんた二ヶ月寝たままだったの。これに懲りたら変な所に入り込むの止めなさい」 「二ヶ月!? え、え? うん」 「まぁまぁ。大変な目にあったばかりですし、これから事情聴取も受けなきゃいけないでしょう? そこら変にしておいてあげてください」 「事情聴取? 警察が来るの? どうして?」  顔の凶悪さの割に優しいイグアナ先生は、口の中まで精巧に作られていた。というか本物にしか見えない。やけに首の長い女性もそうだが、未だ夢の中なのだろうか。  秋音は不安に顔を曇らせた。  それを見て母が困った顔をする。 「覚えてないの? あんたバイオテロに巻き込まれたのよ」 「ええ!?」 「ボルゾウィルスは知っていますか? ロスメルタ大陸の深層部にある菌で、感染したら死亡率は九割と言われています。全身に緑色の斑点と高熱が特徴で、抗生物質もなにも効かず、君も死の淵を彷徨った」  一月で秋音以外の被害者は全員死亡したと言う。  幸いなことに人から人へ感染する事はなかったため、被害はそれで済んだと言うが、喜べない。 「何も知らない。何も覚えてない……。わたし、どこへ行ってたの?」 「学校の近くでお祭りがあったでしょ? その近くよ」 「大学の近く?」 「何を言ってるの? 高校の近くよ」 「それって通ってた高校のこと?」 「何の話なの? ねぇ、あんたどうしたの?」 「奥さん、少し落ち着いてください。お嬢さんはどうやら少し混乱しているようです」  ふむ、と息を吐いたイグアナ先生が難しい顔をする。 「今からするいくつかの質問に、正直に答えてくださいね」 *  今から二ヶ月前。  廃工場で謎の爆発が起こった。  人気のない休日だったため、被害者の数はそれほど多くなかったが爆発によってまかれたウィルスが問題だった。  三日で感染した16人が苦しんで死に、そのあと4人が続いた。  警察が威信をかけて捜しているが、廃工場に出入りしていた者も、犯人の目星も上がっていない。爆発がどうして起こったのかもわからない。  辺り一帯はまだウィルスを警戒して消毒作業が進んでいる。  工場地帯だったため、いくつかの商品が作れなくなっている。医療品の一部がそこに入っていて、一時期混乱をきたしていた。  被害の少女が目覚めたと言う情報が警視庁にもたらされたとき、誰もが事件の背景が掴めると喜んだ。  しかし医師からもたらされた診断によって、落胆が広がる。  少女は記憶障害を起こしており、最近の記憶が全て失われている。日常生活を送るのは問題ないが家族以外の事を全て忘れ、大陸の名前すらわからない。  そして人間以外の“人外”に対し怯えを見せる。  薬の副作用とも事件のショックとも言われ、彼女の記憶が戻るのを待つのみとなった。  事件関係者の深い落胆を、誰が責められよう。 * 「お母さん、お醤油取って」 「だめ」 「えっ」  思わず見ると、厳しい顔をした母が嘆息する。 「あんた食事制限されてるの忘れたの? 呆れたわね」 「え、でも、お醤油なのに……」  しょぼんとすれば、再び嘆息が返る。  しばらくは安全策を取りましょう、と後遺症を心配した医師によって、秋音にはかなりきつい食事制限がかけられていた。医療用の腕輪を支給されて、それがリアルタイムで健康情報を収集しているらしい。ここは本当に妖怪の世界なんだろうか。  いや、とにかく。  世界でもまれに見る奇跡の生還者。そしてボルゾウィルスの抗体が出来ているかもしれない貴重な存在なので、丁寧に扱いましょう、と言う事らしい。  なにやらいろいろ言われたが、要約するとそんな感じだった。  毎週病院に行って検査と献血を受ける義務が出来てしまった。  ちなみに公的機関からの要請で、礼金も出ているらしい。血液が何に使われているか非情に気になる。 「先生の許可がでたらね。さぁ、もう行く時間だからさっさと準備して」 「はぁい」  今日から学校へ行く。  あの後、いろいろ精密検査をしたり警察官というか妖怪にしか見えないおじさん達に事情聴取を受けさせられ、大変だった。  病院がばれたのか報道陣が押しかけてきてマジ泣きしたりもした。すぐに警察が来て追い返されたが、個室に移動したり母が動揺してそっちの方が大変だった。  後でニュースサイトを見たのだが、大規模なバイオテロがあったのは事実で、それによる犠牲者と捜査官の数は膨大で、驚くほどだ。  痛ましい事件の犯人は不明のまま、秋音は日常への第一歩を踏み出そうとしている。  けれど、こうなる前の記憶が無く、あるはずがない事を知っている。  現実だと思っていた事は夢だったのだろうか。  足下がふわふわして心細い。