後編

 ある日、弟子が部屋に来た。 「お師匠、何か召し上がってください」 「いらない。喉を通らぬだろうよ」  返事がないことを変に思い、顔を上げて魔女は納得した。彼の手には何の用意もない。 「ここへ来た本当の目的を言え」  かないませんね、そう言って彼は肩をすくめた。 「単刀直入に申し上げます。お師匠様、城下で不穏な動きがございました。なんでも、お師匠様そっくりの女が街の壁を破壊し、物を盗み、毒薬を売り、脅し、市民を脅かしているそうです」 「ほう、それは大変だな」 「お師匠様!!」  ああ、長いつきあいとはよく言ったものだ。彼がこうして声を荒げるときはとても怒っているときだった。 「力を使ってやったのですね? 城下は今や大混乱ですよ!」 「そうだ、と言えばお前はどうするというのだ?」  思い切り皮肉を込めて笑ってみせた。 「私は飽いた。この生活に、空間に、王の言うままに占い、未来を予見するだけのこの人生がつまらなくてたまらない。その鬱憤を、私の恩恵で生きながらえている者達で晴らして何が悪い?」 「本気で言っておられるのですか」  押し殺したような声に、喉の奥で笑ってみせた。ああ、本当に長く一緒にいた。どうやればこの弟子が怒るのか手に取るように分かる。 「ああそうさ。だが大人しいものだろう? 簒奪を企ててもよかったが、その後のことが面倒でやめたのさ。ああそうだ、お前、今すぐここから出てお行き」  テーブルの上に置いてあった洋紙が浮き、弟子は受け取って目を見開いた。それを見ながら魔女は、さも楽しそうなふうを装った。 「これは何です」 「お前の就職先だ。私が口添えをしてやったのだぞ。よかったなぁ、滅多に入れぬ大口だ。宮廷の騎士、それも副官だ」  明らかに圧力をかけて取ったそれに、彼は顔を真っ赤にした。明日、配属命令が届くはずだが一歩速く教えたのには訳がある。魔女はこの弟子にとことん嫌われなければならぬのだ。 「出て行け。お前の部屋はもうないぞ?」  今にも荷物は捨てられているかもしれないなぁと言うと、彼は青ざめて部家を出ていった。足音が消えるまで待ってから、魔女はクローゼットのドアを開けた。  そこには魔女そっくりの人形が横たわっていた。力を使い、浮かせると窓の外に放り出す。人形は羽根もないのにふわふわと浮き、箱庭の壁を越えた。  おそらく王には監視から毎夜飛び出す人形の報告が行っていることだろう。  だが、それでも人形の目を等して見る夜空の、なんと広く美しいことか。空を遮る窓枠も壁もない。人の手で作り出された物と自身の力で生きる草木のささやきの、なんと優しいことか。  一生箱庭から出られぬ鳥は、外界を隙間から覗いてうらやむしかない。 「外に出られるのであれば、どんな男の子どもでも産むというのにね……」  王は分かっていて、けしてそれを承諾しない。  箱庭から出られるとすれば、それはローゼンクレラの先祖が眠る地へ行くときだけだ。魔女が死んだときだけなのだ。  今日も魔女は魔女を殺すために非道の行いをしに城下に下る。人々は嫌がり泣き叫びながらパニックを起こして、そして誰かが言うだろう。  箱庭の魔女を殺せと。 ★★★  毎夜荒らし回った成果は着々と上がっているようだった。弟子が箱庭を出てからすでに一ヶ月以上が経っている。  人々は毎夜の恐怖を王に訴え嘆願書は山積みらしい。魔女の姿をした人形が討伐隊に追われる回数は格段に増えていた。宮廷が動くのは時間の問題だ。  なのに、 「またお前か。誰がこの箱庭に入っていいと許可を出した?」 「王にございますよ」  そう言って久しぶりに顔を見た元弟子はどこかたくましくなっていた。かなりしごかれているのは知っていたが、どうやら箱庭にいたものとして使いを頼まれてきたらしい。 「王からの書状です」 「内容は分かっている。悪戯を止めよ、と言うのだろう? 答えは「否」と王に」 「あなたは、ご自分の立場だよくわかっていらっしゃる! 俺がここにきたのは最終警告だと言うことも! 次は王に忠誠を示すため大勢のローゼンクレラがやってくる! あなたの家族が、あなたを殺しにやってくるんですよ!」  ああ、王も考えたものだ。魔女があこがれている”外の”ローゼンクレラに非道な行いができない事をよく知っている。 「愚鈍な王は、民衆を黙らせることはできなかったか」  ふっと笑う。床に膝をついた格好の彼は、安楽椅子に腰掛けた魔女を睨み付けた。 「何がおかしいのです!」  よもや、化け物を心配する者がいるとは思わなかった。そう言ったら彼はどんな顔をするだろう。考えて止めた。 「侮るな。凡人が束になってかかってきても負けはしない」 「師匠、いったいどうしたと言うんです? あなたは人が変わられたようだ」 「普遍などありはしない。あるとしたらそれはまやかしだ。人は変わる、時はうつろう」 「だから、己を隔てる壁を壊してみせると仰るのか」 「ああそうだ。王は私の言葉を聞かなかった。たった一つの事を望んでも、けして私をここから出さない。王の答えを覆すためにこれまで尽くしてきたよ。でも、王はけっきょく、死ぬまで私を閉じこめる」 「死ぬことになりますよ」 「私が死ぬものか」  いいや、きっと死ぬだろう。大よりも小を潰すのが国なのだ。強き力の者がいなくとも、ローゼンクレラは残る。魔女の替えはいくらでもいる。 「出て行け」 「あなたは平凡を望んでいたのではないのですか!」 「黙れ!」  彼の体が見えない力によって吹き飛んだ。壁を突き破って廊下に飛び出す。  口の端が切れて、血が流れていた。すまないと思っても、けして口には出さなかった。 「お前は”用無し”なのだよ。いつまで経っても出て行かずに、金魚の糞のようについて回る。いい加減うんざりだった。私の全てが分かったような口調で話すその態度にも吐き気がするのだよ。物覚えは悪かったし、使い道は剣だけだ。ローゼンクレラにはお前のような出来損ないは必要ないというのに、なぜ殺さなかったのだろう?」  心の中で何万回も謝罪しながら魔女は傷つける言葉を吐き続けた。彼の驚いたような顔が瞼の裏に焼き付く。  本当は、お前となんていたくなかった。だが、恥の上塗りだけは勘弁して欲しかった。やはり何の才能もない。使えない。同じ空間にいるだけで、腹が立つ――――。  気がつくと、魔女は安楽椅子に深くもたれかかったまま吐息を吐いていた。他に誰の姿も見えない。帰ったのだろう。そして、もう二度とここには来ない。  さあ、最後の一仕事だ。  魔女はまたクローゼットを開けて、自分とそっくりの人形を王宮に向かわせた。王にとって魔女が外にいることがどんなに脅威なのかはすでにわかっている。それが王宮に向いたとなれば、もう道は一つしかない。  ローゼンクレラは国王についた。魔女はただ一人で、それを迎え撃つのだろう。 ★★★  翌日、箱庭の壁がこれまでにないほど開かれた。使用人が通るために常用していた小さな門とは別に、元々あった大きな門が開くのは二度しかなかった。  一度目は魔女が連れてこられたとき。  二度目は王が訪問したときの一度きり。  見えた世界は王宮騎士に始まって、兵や憧れの外の世界に住むローゼンクレラの者達が見えた。魔女が踏み入ることのできない世界で暮らす者達。それをいつもの安楽椅子に座りながら窓越しに見つめる。  昨夜のうちに、使用人は全て逃げ出した。この箱庭にいるのは魔女ただ一人である。 「神妙にされたし! これは王のご意志である!」  目があった瞬間、男は怯えたような表情を一瞬見せる。それでも彼は自分の担った仕事を真っ当に果たした。 「お、王から、最後の温情である! 大人しく投降せよ。罪を償い、謝罪と誠意を。断罪ののち、王はあなたをお許しになられる。だが、その申し出を蹴るのならばあなたを生かしておくわけにはいかない!」  王はまだ、魔女を飼い殺しにしたいらしい。笑い声さえ漏れた。  立ち上がり、魔女は大きく窓を開けた。テラスへ出て手すりに肘を突いて頬杖を着くと、辺りは水を打ったように静まりかえった。 「問う。おまえ達の目の前にいる女は生きているのだろうか、死んでいるのだろうか」  なにを、とその唇が囁く。 「生きるとは何だ。心臓が動いていればおまえ達は満足か? ならば、そう思える者達全てを私は羨み、憎むだろう。当たり前のように外を生きる民を、力の見返りにこの四角い空しかよこさぬ王を、箱庭に私を押し込めた一族を、心の底から。何しろ、ここまで来ても王の答えは変わらない」 「王は、あなたのために贅をこらしてこのお屋敷をお作りになった! 何が気に入らないというのか!」 「全てが」 「王のために生きるのが、我等の勤めである!」 「お前は改めなければならない!」 「頭を垂れよ、降伏を!」  魔女は日焼けしない自分の白い肌と見比べて、小麦色の肌を眩しそうに見つめた。 「囲いに覆われた場所に住んでる動物のことを何というか知っているか」  彼らは怪訝な顔をする。魔女は続けた。 「家畜というのだ。お前達はこの箱庭に私を住まわせることで、とうに私を殺している。そして畜生に貶めた。そして子を産めという。まるで上等な家畜の数を増やすかのように。私はもはや人ですらない。血統書つきの愛玩動物ではないのに、お前達は私をそう扱い続けてきた」  どれほど忠義を尽くしても、見返りは四角い空だった。  どんなに心を砕いても、この箱庭の壁は高くて触れてはならないと言われているようだった。  頑張っても報われない。どれほど付くしても無駄だと思い知らされる。  望みは叶えられない。永遠に。  魔女は箱庭の壁中に視線を向けた。天を覆うかのようにそびえ立った四方の壁が、音を立てて崩れ始める。 「――王よ、聞こえるだろう! 偽り無き私の本音。私の国を見ることがそんなにもいけないことなのか。私の見守る民を見ることがそれほどまでに罪悪か! 許されぬと言うのか!」  壁が崩れる。瓦礫は外に落ちることなく庭を、邸を埋め尽くすように落下する。  悲鳴の中で魔女の声だけが響いた。 「宝石も広い家も作り物の庭もいらなかった! ただ、囲いのない空がほしかった。さぁ、予告通りに私の命をもらってゆけ。だがそれは、この箱庭と引き替えだ!」  笑いながら魔女はポケットに指を滑らせた。迷うことなく取り出した瓶を開けた。  一口飲むほどに、頭がぼうとする。  ああこれで終わりだ。やっと自由になれる。  逃げまどう者達の中に、知った顔を見た。驚愕に見開かれた目に笑みがこぼれる。  お別れだ。お前といるときだけは、箱庭を忘れていたよ。  魔女は呟き、崩れ落ちた瓦礫に飲み込まれた。 ★★★  目が覚めると暗闇だった。寒くて、体が震えるが思うように動かない。何とか腕を伸ばすと、固い感触があった。おそらく、棺桶の中に入れられている。  彼女は肉体が火に焼かれなかったことに感謝しながら、薄い空気の中でゆっくりと蓋に被さる墓石や土を力を使ってどけた。蓋を開け、外に出る。 「凄い、本物の空だ。囲いがない」 「――凄いのはあなたですよ」  思わず呟いた言葉に返事が返ってきて驚いた。計画の頓挫を予感した彼女はぎょっとすると、目の前に何者かの手が振ってきた。見上げると、なんと知った顔ではないか。 「……なぜ」 「なぜ、は俺の方が聞きたい。あの後、国は大騒ぎでしたよ」  どうやら、計画はバレてしまったらしい。観念して彼の手を取って穴の中から抜け出すと、意外にもそこには誰もいなかった。 「城下を荒らして城の壁まで壊して後押ししたのに、弟子には全部筒抜けか」  なぜ分かったのだと問うと、弟子は肩をすくめた。 「知ってます? いや、知らないか。あなた国葬されたんですよ」  その意味が示すところとは、 「……失礼な奴らだ。私が祟るとでも思ってるのか」 「どうやらそのとおりらしい。さて、そろそろここを元に戻してください。あなたの祟りを恐れて毎晩祈りを捧げにやってくる者達がいるのです。ああ、国王にあなたの声は聞こえていましたよ。さすがローゼンクレラきっての天才だ。悲劇のヒロインになってますよ?」  皮肉のこもった口調。怒っているのだろうが、ここがどこかの方が気になる。聞くと、王宮の端らしい。 「王が言っていました。あなたに酷いことをしたと」 「国民の手前だからそう言ったのだろう。それに目下の問題が消えて清々してるはずだ」  苦笑が漏れる。 「どれぐらい眠っていた?」 「三日です。まさか、自分で自分を仮死状態にする薬をつくるとは誰も思いつかなかったようで。ローゼンクレラの夢見にも、やはり見えないことがある」 「違う、力を水の中に込めたものを飲んだだけだ。私は本物の魔女ではないから、そんな薬は作れない。人形を操るときと同じ要領で、体の機能を停止させた。三日後に目が覚めるようにしてね」  それは、うまくいったらしい。 「な、火葬されたらどうするつもりだったのです!」 「天国に行くな。それで、お前はどうしてここに? 私は裁判にかけられるのかな?」  何だかもうどうでもいい気がした。この広い夜空を見られただけでもう満足だ。 「あなたが生きていると知っているのは俺だけです。俺もまさか、あなたが生きているとは思わなかった」 「おかしな奴だ。ならなぜここへ?」  そう言いながら、魔女は掘り返した土や石を元に戻した。絶対に地上に出てくるなよ、と言いたげな穴の深さと、石の大きさに笑いが漏れる。  自分の墓を見ながら笑える者はいったいこの世にどれだけいるだろう。 「最後にこちらを見て何か言ったでしょう? それにあんな大騒ぎを鬱憤晴らしでするような人じゃない。今回のことでは死者は一人も出なかったし、俺を怒らせたのもわざと。あんな言葉を投げかけられたのは、箱庭では初めてでしたよ」 「悪かった、本心からじゃない」 「わかってます」  腕が伸びてきて、魔女の頬をぐいぐいと拭った。どうやら土が付いていたらしい。 「こら、やめろ」 「靴も自分で履けないくせに?」 「お前がやるなと言ったからだろう! 私は外に出ることを考えて一人で何でもできるようになりたかったというのに、お前と来たらいつもいつも…」  ぶつぶつと恨み言を言った。私の計画は、この男のせいで二年も引き延ばされた。自分のことを自分でできるようにならなければ、国を出て生きることは無理だと箱庭の中にいても分かっていた。 「さて、私は行くが……どうやって抜け出そうか。後生だから抜け道を教えてくれないか?」 「何を言ってるんです。俺と一緒に国を出るんですよ? こんな事もあろうかと、馬車を用意してあります」  ああそうなのか、と言いかけてはたと気付く。 「何を言ってるんだ? 他国の勧誘でもあったのか。私はもう王家はこりごりだぞ!」 「いいえ、俺があなたと一緒にいたいんです。今まで言わなかったけど、あなたのことが好きです。友達を好き、の好きではなくて、一人の女性として、愛しています」 「……お前にたくさん酷いことを言った女だ」 「嘘か本当かくらい分かりますよ」 「お、お前、私の弟子だろう? 師弟は結婚なんかしない!」 「破門しておいて何を仰るのです」  そう言えば、呼び方がお師匠様からあなたに変わっている。 「それにあなた、言ってたじゃないですか」  と彼はまじめくさって続けた。 「「外に出してくれるなら、どんな男の子どもでも産む」のでしょう? なら俺の子を産んでください」  それは一人で部屋にいたときに、一度だけ呟いた言葉だった。 「おま、聞いて!? 頭でも打ったのか!?」 「ご自分の声が意外に大きいことを知らないのは仕方がないですが、もう行かないと、本当に捕まってしまいますよ」 「話を流すな! じゃなくて、職は!? 本気なのか!」 「職は辞表を出しましたから明日には受理されるはずです。あらかたの荷物は換金したし、しばらくそれでやりくりしましょう。まったく、あなたが部屋の物を捨てるとか言うから慌てたじゃありませんか」 「え?」  実は、あの部屋の壁を掘って抜け道を造ってたんですよ、と言われ魔女は目を丸くした。見つかっては大事だし、荷物も価値ある物を集めたりして少しずつ資金を貯めていたのだという。その資金は、どう考えても逃亡用のもので、魔女はあんぐりと口を開けた。  そう言えば昔からこつこつお金を貯めたりしていたような。用はまめな性格なのだ。それを生かして逃亡計画待て立てていたとは全く気付かなかったが。 「……私がお前のためにせっかく用意した職も地位も捨てたのか。しかも、黙ってそんなことまで」  ぼそりと呟いたとき、腕を引いて歩き出した彼はくるりと振り返った。 「あなたと同じです。俺は地位も名誉も名家のお嬢さんもいらなかった。ただ、あなたのお側にあることを、ずっと望んでいたのです。なんと言われようと、もうおそばを離れません。あなたに囲いのない太陽を差し上げます。だから俺と一緒に箱庭でないこの世界を歩いてはくれませんか」  魔女は声もなく唇を振るわせて、その手を取った。