箱庭の外

 馬車が一台、湖のほとりで止まっていた。馬は離れた場所で桶に入った水を飲み、彼は微笑ましそうに湖面に恐る恐る足をつけている彼女を見守る。だが、水底の魚を見つけたとたん顔をきらめかせたのを見て、慌てて声をかける。 「あまり深いところへ行かないで。泳げないんだから」  振り返った彼女はぱっと頬を染めた。 「う、うるさい! 確かに私は泳げないがそんなものは――」 「そんなものは?」  びくり、とたしなめるような言葉に彼女は肩をすくませた。 「この旅に出たときの最初の言葉を覚えてる?」  しょんぼりとした彼女に、彼は微笑んで靴のまま水の中に入った。「ぬ、ぬれるぞ」と少し焦ったような声を出して彼女はそわそわと周囲を見た。  誰かなんとかしてくれと助けを求めるかのような仕草に、彼は内心ため息をつきながらその手を取った。労働を知らない手は病的に白く細い。 「力は使わないって約束だろう?」  彼女はしょんぼりと、素直に反省した。 「わかってる、不用意なことや言動をとってもいけない、だろう」 「ここはもう箱庭じゃない。壁はなくなり、あなたは自由になったけど、そのぶん危険も多くなった。できるだけやっかいごとをさけるために気をつけてもらわなきゃ」 「……悪かった、力は使わない。でも、もう少しむこうがわに行っても―――」 「だめだ」 「ちょっとだけ」 「あなたは子どもですか」  むっとした彼女は言い返した。 「そういうお前は私の母親か!」 「……へぇ」  青筋が浮いたのを見て彼女はぎくりと身を強ばらせた。 「オレが、あなたの母親に見えると。ほぅ、そうですか、ではそうではないと証明しなければなりませんね」 「っく、口調が戻ってるぞ」  逃げだそうとした手をぎゅっと捕まれ、彼女はひっと息を飲んだ。俯いたせいでわからないがこういうときは絶対に怒っているのだと長年の経験で知っている。その報復方法はたいてい三時のおやつが抜きだったり食われたりと、はなはだ不愉快だったのだが、最近はそうじゃない。  顔を真っ赤にした彼女は震えながらごめんなさいとか許してとかご無体なとか叫びつつ後ずさるが、それを予想していた手に腰を引き寄せられ、息をのんだ。  頭上に影がかかり、ぎゅっと目をつむる。  唇に暖かな感触が触れる瞬間、胸が熱を持つ。