搾取され

 月明かりと共に夜の匂いが体を包み込む。  ディアボラは細道に置いてある木箱に尻を降ろした。しばらく、と言うには長い時間待っていると、やつれ頭蓋骨のようにくっきりと浮いた頬骨にちょんと細い指先が触れる。横目で見ればこれまた不健康そうな女が一人。 「おーそいよぅ」 「申し訳ありません」  萎れた菜っ葉の方がまだ元気そうな声音でエウリュアレーは返事をする。懐から取り出した紙束を渡せば、彼女は折れそうな腕で囲い込み、ぺらぺらと流し読みする。適当に見えるが驚くべき事に、彼女は一度見聞きしたことは忘れない。 「ありがとうございます。ディアボラ様」 「別にぃ。それより殿下はどう? まぁだうじうじしてるのかなぁ」  ハァ、と気だるそうに嘆息したディアボラは木箱に乗せた片足の上に顎を乗せた。全身で座っていることさえ疲れるとでも言いたげに。 「……それが。お聞きしたいことが」 「なぁに」 「神獣の事です。ディアボラ様は知っていらっしゃるのでは、と」 「……アァ。だったら何だっての?」  ぴりり、と空気が緊張する。 「殿下がずっとお探しだったのを知っていらっしゃるはずです。なぜ!」 「アァ……そんなに興奮しないでよ。必要ないじゃん。魔界は私が元に戻す、神獣の力なんて、今更いらないしぃ」  呻くようにディアボラは囁く。 「できないからこそここまで来たのでは! 己の所行により自分で尻を拭くことさえできぬ有様。魔界を元に戻すための方法は一つしかありません」 「……まだ時間は残ってるんだけどねぇ」 「あなた様は最も罪深いと嘆き今まで魔界のために尽くしてくださった。殿下を見逃しパティ様を欺きこれまでよくぞ、と思うほどに! しかしこればかりはなりません。あなた様の力を持ってしても無理なのです!!」 「神人はそう言わなかった。私達は己の口から吐く毒すらその身の内で浄化できると、そう言ったんだけどねぇ。嘘は絶対に言わないお方だ」 「幻想を抱くのは、もうおやめください! その身でとどめを刺しておきながら彼のお方のお言葉を――」 「私の忍耐を試すのは、止めてもらおうか」  気付けばエウリュアレーの首にディアボラのほっそりとした指先が食い込み、指の間から皮膚が盛り上がる。彼女は雷に打たれたかのようにびくつく。 「あ、がっ……」 「魔界は戻す! お前はいつもいつもいつも口先から先に生まれてきたような悪魔だな。人を苛立たせる事にかけて魔界一! さすが言の限りを尽くして全てを謀り、何一つ己の手で成さなかっただけの事はある!!」 「……ディ、アボラ様」 「知ったからには教えてやろう。なぜ、なぁぜ黙っていたか? お前達を守っていたアエーはシティパティに<神眼>の事を黙っていろと言った。再来かもしれぬと言って、殿下を頼むとこの私に告げた! 魔王は最終決戦への駒を進め準備はもぅすぐ完了だ! 殿下に言えば外に出る。今、それは不味いとわかっているだろう」  さぁ、言え、と続ける。 「殿下は神獣のことを知ったな? 誰から聞いた!」 「し、神木の、一本と……けいや、を!」  投げ捨てられたエウリュアレーは背中を痛めながらも喉を押さえた。くっきりと手形の付いた喉を押さえ、かひゅぅ、と荒く息を吸う。口元に溢れた泡をぬぐって見上げれば、ハット帽を目深に被ったディアボラは氷のように見下ろしていた。 「神木の名を言え」 「ラルラ、と」  激しい舌打ちが耳朶を打つ。エウリュアレーは震えながらディアボラを見るしかない。 「それは魔王と契約をした神木だ。ネェ、お前は馬鹿なの? 殿下は何を引き替えに契約を持ちかけたァ?」 「この世界に残る殆どの神木はそうではありませぬかっ!」 「聞いているのは、この私だ!!」 「で、殿下が勝利したあかつきには残りの神木に、けして手出しをするなと、本当です!!」 「アァ……」  それはシティパティと神木が交わした契約によく似ていた。  ディアボラは突然全ての気力がそげたようにだらりと背を丸めた。そうすると病的に痩せた体は老人のよう。折れ曲がって、今にも潰れそうだ。 「神木は愚かだ……やだねやだねぇ嫌になる。悪魔が約束を守るわけないじゃん。何千年経っても、馬鹿は馬鹿なままなのか」 「なら、学習しない我々もまた馬鹿者だ」  振り返ったディアボラは顔を顰める。目深に被ったフードで顔はわからないが知り合いだ。  おそらくその下には青白い肌に透明度の高い紅玉の瞳。背中には大きな蝙蝠の羽を背負っているのだろう。 「殿下、外に出るなと再三申し上げてるんですがねぇ」  巻角は複雑にうねって天を向き、髪はひとくくりに結わえてあった。  動きを止めていた彼はぎこちなく肩をすくめた。そうしていると気弱そうな青年にしか見えない。 「それは、すまない。だが大事な従者を使えなくされては困る。こんなやつでも居ないと困るんだ」 「つくづく人望がないのが悔やまれますねぇ。こぉんな者しか側に居ないなんてぇ」 「失望は心地良い。なにしろ殺戮と甘言がうまければうまいほど悪魔は崇められるのだから。だが、いつまでもそれじゃ困る。今日はお前の話を聞きに来た」 「従者の後をつけて、ねぇ」 「あからさまに行けばお前は教えてくれはしないだろう。神獣はどこだ」 「知りませんよ、そんなもん」  長く伸びた爪が目をえぐらないように注意しながらそっと瞼を押し上げるのをディアボラは黙ってさせた。 「……嘘は言ってないみたいだな」  手を引っ込めた殿下は肩を落とす。 「今更知ってどうされる? 理想の国は理想だからこそ美しいのはおわかりでしょうに。アァ……理想を追い続けるのは辛いものだ。諦めも肝心ですよぉ」 「お前も追い続けているではないか。魔界はもう我々の手ではどうしようもない状態まで来ている。だったら、力を借りるしかないだろう」 「それこそ無理な話じゃないですかねぇ」 「お前だって考えていたはずだ。だから見逃しただろうに。あの時、雌にとどめを刺さなかったんじゃないか?」  はは、とディアボラは力なく首を振る。 「雌の方を見逃したと? そうしていたらシティパティは許さないでしょうねぇ」 「君は賭に勝った。勝ち続けているからこそ生き残っている」 「殿下。こっちにも目的って物があるんですよぅ。それに都合が良いから、危ない橋を渡っても殿下にこうして尽くしているんですがねぇ」 「お前は悪魔の中で一番の変わり者になった」  まるで別物のように。  伸ばされた手が無遠慮に目尻をなぞる。払いのけたディアボラは力なく座り込む。背中にあたった壁が冷たく体を冷やしていく。 「神人は闘争を押さえ文明を築き、豊かな土地を修めることができる。安寧を求めるなら得られるだろう。殺戮を求めるならばそうすればいい。どちらにも転がれるのだと言った」 「安寧を願った悪魔はスパーン! と胴と首が離れましたよ」 「力で以て戦うには分が悪い相手だった。……パティは殺さなければならない」  ディアボラは面白い冗談を聞いて笑い出す。 「ハハッ!! あなたがそれを言うんですかァ? アレのために全部を見捨ててきた、あなたが! おめでたすぎますよぅ、殿下。夢は寝てから見るもんです」 「パティは、それほど強くない」  底冷えのする眼差しで殿下は呟く。  シティパティは魔王だ。多くの魔族にとって弱いなどと言う言葉とは無縁。 「……でぇも、殿下はそれができない。妹君を殺せないから今まで負け続けてきたんでしょうよぅ」 「ディアボラ様!」 「お前はちょっぉと黙ってろよ」  臆したようにエウリュアレーは押し黙る。  シティパティが妹でさえなければエディヴァルは侵略をされなかった。シティパティが血縁だったというそれだけで、多くの悪魔は血祭りに。  安寧を求めた悪魔の馬鹿げた話だと内心吐き捨てる。  たった一つの欠点が致命的すぎた。殿下は身内を切れない。そのことに数千年悩み続けている。 「獣なら、パティを殺せるはずだ……!!」 「ハルを利用するなら、ボクは許さないよ」  幼い声は異様な雰囲気を引き連れて、響いた。  口論に夢中になった彼らは気付かなかった。最初からその場に居たように、足をぷらぷらとさせながらディアボラの座っていた木箱にちんまりと収まっている。  緑色の目と髪をした少年は言う。 「初めましてだね。ボクはモリト。二十四本目の神木です」 「僕はダグラスと申します」  黒猫の神官と、小さな子供。  声を失ったかのように、はくはくと口を開けて一同は凍り付く。  それをわからないかのように無邪気に続けた。 「魔王シティパティを殺すためにハルに交渉を持ち込むの? 悪魔はどこまでも狡いんだね。自分がやりたくないことを押しつけて……最後はハルを殺すつもりなんだ」  苦々しく、ディアボラは呻く。 「だからさせないってぇ? ボゥヤを捕まえたら言う事聞いてくれる気がするけどねぇ」 「できるわけないよ。魔界を元に戻すには悪魔だけじゃ無理なんでしょう?」  神木の力を借り、大地から一時的に水分を蒸発させる。彼らが吐く霧も今わかった。そしてもし、彼らに協力するならば魔王シティパティが立ちはだかるのだろう。魔界の勢力は二分されているらしい。  そして魔王を倒すために殿下はハルを探している。  悪魔を倒すために神が創り変えたのが今の獣。  だが守りたいと願っている大切な隣人を悪魔に都合良く使わせるつもりは毛頭ない。 「お前達、どうやってここへ来た?」 「蛙のお爺さんが道を教えてくれたよ」 「記録の一族か……余計な事を」 「今日のこの日なら居るだろうって。それに昨日ね、天啓が降ったんだよ」  殿下は頭が痛いと額を覆った。かつて無いほどに、混乱している。  このわかるようでわからない話方、覚えがあった。神木は皆、幼い頃はそんな感じでほわほわしているが、寒けがするほど的確に痛いところを突いてくる。  天啓などと言い出すモリトは特に。 「アァ……どういうことだ? ついに幻覚、頭がおかしくなったのかなぁ?」 「おかしくはない、これは本物だ」  声はかすれた。 「おかしいと思うのは、信じたくないからでしょう。悪魔もそういう事があるのですね」 「じゃあこれからは聞いていた話とは違う悪魔が見られるのかな? ねぇ、どちらにも転がれるって言ったよね」 「殿下、お待ちください。何か様子が違うのですっ」 「ディアボラ、エリュを下がらせろ」 「殿下!」 「へぃへぃ……エウリュアレーと同じ意見なんですがねぇ」  そう思ったが、次の言葉に表情を変える。 「ボクらの終わりで短命種は結界の庇護を無くす。彼らはボクらに逆らえない。けれど、魔界はもうすぐ滅びる。ねぇ、研究って言うのは魔界を元に戻すこと? それとも体を戻すこと? どちらでもいいけど、うまくいってないんだね」 「……貴様」  ディアボラが殺気立つ。 「ボクは望む物が欲しいよ。誰だってそう願ってる。でも、そろそろ折り合いをつけようよ。誰かが始めなければならないなら、ボクがしなくちゃだめなんだと思う」  だから、と続ける。 「エウリュアレーと言う悪魔はあなたでしょう? あなたは一番よくわかってる。協力し続けるならボクは約束を破らない。でも破ればそれでお終いだよ」  どうするの、と幼い子供が惑わすように囁く。 「ボクは大切な事を一つ譲るよ。だからあなたも一つゆずってくれるでしょう? エディヴァルにいるモリトはボクしかいない」 「何を企んでいるのです。殿下は魔王との戦いを避けていらっしゃる。あなたの望みは適わないでしょう」 「そんなのわからないよ。でも聞かなきゃいけない事の答えはくれると思う。ラルラが何を考えてるのかがわからなきゃ、メディラを助けることは無理なんだ」 「お前はいったい何を望む?」  モリトは朗らかに笑った。そうして、明日の予定を告げるように言うのだ。 「世界平和」 「馬鹿な!」  嘲笑が漏れた。例に洩れずどこまでも清く愚かだ。神木は哀れなほどに汚れを知らない。ハル、と言うのは例の神獣だろう。アレの守り無くして神木のなり損ないが紋章の悪魔に敵うのか。 「そのためにボクはいろいろなことを知らないといけない。ねえ、教えてよ。ラルラは魔王と何を約束したの? 神人は、どうして死んじゃったの? メディラはどうして心を壊しちゃったの」 「天啓でわかるのではないのか。お前ならば神は答えるだろう。お前達神木は神に創られ愛され監視されている。会うことも可能だ。ならば直接聞けば良い! あれは全ての場所に存在しているのだから!」  叫ぶような声は悲鳴を噛み殺しているかのようだ。殿下は白い頬を高揚させ嫉妬まみれの視線でねめ付ける。  それを見ながらモリトはやはり、悲しそうに微笑むだけだ。 「神様は何でもは教えてくれないし、教えてくれないことの方が多いんだよ。ボクね、悪魔の事が知りたいと思ってた。一番良い日が今日なんだってことは教えてくれたよ」 「何でも教えるのと一緒ではないか。突然何なんだ、降って湧いたように! 心の準備さえ、させてもらえないのか」 「何千年もそうやって考えてきたのなら今決めても、変わらないと思いますが?」  ダグラスの言葉に力なく項垂れた殿下はしゃがみ込んだ。 「……どこから話そう」 「こんな風になってしまった、一番最初からがいいな」  諦めたように話し出す声はよく響いた。 「――魔界が誕生した頃、大地はよく肥え豊かだった。しかし魔界は広いと言ってもその多くは住むことが困難になるほど荒廃した。あらかじめ用意されていた資源は枯渇を始め、悪魔は神に願った。争うにも必要な物は多い。盤上で満足してくださっていた神は、それに答えた」  そして使わされたのが神人。彼女は幼い子供のようだったが、触れた大地をたちまち水で潤し植物を肥えさせ整えた。世界に循環していた魔力の淀を正し、加速させることで大地を癒やしたのだ。どの悪魔にもできない方法で。 「神人は我らの救いだった。悪魔は彼女から多くの物を学びとった。三度の飯より殺戮が大好きだった者が、田を耕しはじめたと聞いたときは流石に疑ったが」  ディアボラは殿下の含み笑いにむっとする。 「しかし、我らは殺してしまった」 「……そこは、私がお話いたします」  エウリュアレーが進み出る。 「言の悪魔と言われた私は様々な策略を練り、敵を落としていくことを至上の喜びとしていました……。私は神人を貶めてみたかった」  声は震え奇妙にうわずる。 「殺すつもりはなかったのです。悪魔の萎え始めた殺戮衝動を再び蘇らせる必要があった! 私は、私は戦争がなければただの愚図。この心臓でさえ小石に劣るのです。口先だけの悪魔は言葉で以て悪魔を惑わし、甘言を、そしてけしかけたのです。神人は私のような悪魔にとって天敵。仲間はすぐに集まり、まとまり、再び戦争が起こりました。お遊びの戦争。休戦を投げかけた神人を動かすために――けれど神人はどれほど追い詰めても言う事を聞かなかったのです」 「当たり前だよねぇ、悪魔も疲れれば休む。それと同じように大地は疲弊していた。それがわからない者が多すぎた。アァ……悪魔は馬鹿ばっかりだ」  嘲るようにディアボラは笑っている。  悪魔は作る事を知らなかった。彼らにはあらかじめ豊かな土地が用意され、殺戮を楽しむように生み出されたのだから。何かを築く事はなく、駆け引きも戦争も娯楽。彼らはどうやって植物が芽を出すのかすら知らない。  苛立った悪魔はとうとう神人に致命傷を与えてしまった。取り返しに来たときには手遅れだった。 「隙を突くように、シティパティは兵を挙げました。多くの仲間達は彼女の旗本に集い魔界の全てが元に戻ったかのように思われたのです。私もそう思った内の一人。――しかし、我々を創った神は、見放したのです。救いがたいと、そう言って!!」  狂ったように笑う姿は哀れみを誘う。しでかしたことの馬鹿さ加減はなくならないが、好きなように生きるだけで許されていた悪魔は、生みの親に否定されたのだ。  悪魔の信仰心がどれほどの物か知らないがエウリュアレーは脆いのだろう。神にすがりついていたのかもしれない。彼女のメンタルは弱そうだ。 「……パティは侵略戦争を仕掛けながらも魔界での争いを止めようとはしなかった。私はパティとは敵対していて……何もかもわからなくなって、その時エディヴァルへの道を見つけた。異界は魔界とは丸で別世界。放浪の先出会ったのが獣の群れだった」  殿下は初めてエディヴァルにたどり着いた悪魔。そして初めて獣と共に暮らした悪魔でもあった。 「俺の後を追い異界を発見したとき、驚喜ただろう。そして侵略戦争が始まった。全ては我が招いたこと。エウリュアレーは、軍を出て放浪しているときに出会ったな。その頃、悪魔と短命種は獣を追い詰めようとしていた。だからメディラは国を創ろうとしたんだ。皆が一緒に暮らせる国。それがロストロ」  ここは昔、ロストロと言う名の国だった。