歯を食いしばれば

 神木へ近づく者は、一定の距離で衛士に弾かれる。  しかし動物はその範疇にないようで、衛士達は王宮の誰かが飼っている猫が逃げ出したのだと思って追いかけてきたものの、ある程度近づけば困ったように立ち止まる。  それは、彼らが許された距離を過ぎた証だった。  振り返ることを止め、ハルは進む。神木の根元はすぐそこまで来ていた。 『メディラ。どこにいるの?』  返事は無く、風は穏やかに流れるだけ。  洞の元へ来たハルは神木を見上げる。巨大な幹は一週するのにも時間がかかるだろう。メロゥーラが一番大きな神木だったと聞いていたが、それと同じくらい大きくて長かった。  風が吹くと同時に、幹がきしきしとしなっている。折れそうなのか。強風でもないのに心配だ。  前足を幹の固い皮に付けて叩いてみたり、呼びかけるものの、やはり返事は無い。 「お下がりください。ここから先は例えあなたであろうとも、通すことはできませぬ」  振り返れば老王が、木々に隠されるように建てられた小屋から出てきた。 「ここで何をしているの」 「どうか、哀れな老人の願いをお聞きください。テールよ」  老王はハルの眼前まで来るとゆっくり膝を折り、地面に額が付くほどに頭を下げる。その拍子に頭に乗っていた王冠が音を立てて落ちた。 「わたしの事を知っていてそれを言っているのよね?」 「忘れたことなど一時も。我らの命。我らの守護者。この世で最も高貴なる方よ」 「お前はいったい何を知っているの?」 「どうかお見逃しください」  深々と下げられた頭を見てハルは閃いた。 「あなたまさか……原種なの?」  老王は首を振ったが「似たような物です」と言う。 「与えられたのは樹液でしたが、それでも己を改変するには十分な量でした」 「他の神木にあったときメディラを助けろと言われたわ。ねぇ……何があったの」 「とても口にはできない、おぞましい所行です」 ★★★ 「なんだか……創作のような話でしたね」 「嘘はついてなかったよ。でも、ボクも少し、信じられない」 ――あなた様だからこそ、お話いたしました。  記録の一族と呼ばれた蛙の翁は深々と頭を下げた。  彼はモリトがなにかを知っているようだった。  そして、それ以上の事を知りたいならば悪魔を尋ねるしかないと言う。合うには三つの手順を踏む必要があり、その最後の作業が終わる頃には星が登っていた。  綺麗だなと裏路地を歩きながらモリトは思う。  春先で未だ寒いせいか、はっきりと夜空が見える。  思い出すのは旅の夜。  神木の子と、獣とその間の子。そして短命種が一緒に並んで眠る。  不思議だな、と思う。  四人なら簡単にできる事なのに、大勢になると仲良く並んで眠ることもできない。  寝首を掻かれる心配に安眠は妨害され、未来が見えず今を生きるために隣人の事を考えない。安全な土地を手に入れても短命種は争うのを止めないだろう。  全員が違う事を考えて、大切な物も一人ずつ違うからだと今ではわかる。少し前まではわからなかった事がすんなりと受け入れられた。  ハルが大切にしたかったこと。  ダグラスが望んでいること。  カリオンが欲しがっている物。  モリトが願った未来。  それぞれ違うのに同じで、皆「幸せ」を目指しているのだ。望む結果を得る過程でぶつかりあい争いが生まれる。対立しない為にはどちらかが譲るしかない。譲れない時に――譲らないと決めた結果、戦う。 「でも、命を賭ける必要があるのかな。そうは思えないよ。話し合いで本当に決まらないの?」  そっと囁く。  言葉を交わすことは双方に譲歩を促すことだ。相手に譲る気持ちがなければ話し合いは始まらない。相手が自分よりも弱いと思ったら、力でねじ伏せてしまう方がずっと簡単ではないだろうか。  ウルーラを追いつめたゲデラー三世。フロース達に戦争をしかけたパイロン王。神木達を切り倒し、燃やしてきた短命種達。けして少ないとは言えない数の無慈悲な行為は、星の数より多い。 「言葉だけじゃ足りない。カリオンは戦う事も必要だって言った。……きっと、そうなんだと思う。ボクも力を持たなければ誰も話を聞いてくれないってわかってた」  それは二人で旅を始めたとき、子供だからと攫って売ろうとした大人達の手から、親切そうな顔をして二人の皿に薬を含ませて振る舞った宿屋の女将から……沢山の短命種達から学んだこと。ハルが戦う背中を見ながら見た現実。 「でも信じたかった。彼らの可能性に賭けたかった。ボクらはもう関わらずに生きていくことなんて無理だ。ハルもそうだし……ハルはボクらを受け入れてくれないと思ってた。もしその時がきても、それはずっと先の事だろうなって思っていたんだよ。……でもカリオンはボクに出来ないことをしてくれた。だからきっと大丈夫だよね?」  立ち止まったモリトはすまなさそうにダグラスを見上げる。 「ごめんね、ダグラスはここで待っていてくれる? そのほうが良い気がするよ」 「天啓と言うものですか?」  頷けばダグラスは微笑み肉球の付いた弾力のある手で二度、モリトの頭を撫でた。 「したくないことを無理にしなくて良いのですよ。思った通りのことをなさいませ。例えどこであろうとお供致します。約束致しましたでしょう?」  そのとき、始めてモリトの心に入り込む何かがあった。それが形を取る前に小さな手を指し出す。 「一緒に来てくれる?」 「よろこんで」  指し出された手を握り、二人は歩き出した。 ★★★  魔界は芯まで腐りきろうとしている。  腐敗の進行を示すメーターが上限一杯になろうとしていた。ディアボラは苛立ち混じりに机を蹴り上げると上に乗っていた器具が零れそうになる。  さっと押さえた吸血鬼は怒る肩にそっと、上着を着せた。太陽が見えなくなってから凍り付くような寒さは悪魔と言えど体に毒だ。 「体内から噴き出す煙の原因もわかった。後は払うだけだ、これは私の魔術でどうにでもなる……だが、芯から腐った土地をどうやって消毒するっ!」 「ディアボラ様、少しお休みを。根を詰めてもいい考えは浮かびませぬ」 「休めるものか!」  声を荒げたとき、入室の気配があった。怯えた吸血鬼がそっと手紙を指し出し逃げるように出て行く。  ディアボラは渡された手紙に素早く目を走らせ、嘆息しながら立ち上がる。 「どちらへ」 「いつもの場所だ。……ランダはどうしている?」  吸血鬼は口を閉ざす。テレパシーを使って仲間とやりとりをしているのだ。しばらくして彼は口を開けた。 「リビングデッドの制作中のようです。あのご様子ですと三日は出てこないだろうと」 「わかった。明日までには戻る」 「お気をつけください」  うやうやしく頭を下げる彼に見送られ、ディアボラは外に出た。  エディヴァルから帰ってきて真っ先に酷い匂いに襲われる。  腐りかけの地面の柔らかさを靴底に感じつつ、ディアボラは先を急ぐ。  その前方に見慣れた羊頭を見つけ、舌打ちしたくなった。 「ディアボラか。このような時間までご苦労なことだ」 「アンタもネェ……ってか今の時期に寝てられる奴なんて居るのぉ?」  確かに、と肩をすくめる。 「陛下の命じた研究は進んでいるか」 「ぼぉちぼち」 「ふん。猶予はあまりない。時間を有効に使うんだな」  そう言って遠ざかる背中が見えなくなると、ディアボラは肩をすくめ、瓦礫の一つを拾い上げ放り投げる。と、素早く足下に亀裂を作りエディヴァルへと落ちた。  その背後で小さく息を殺す存在に気付かぬまま。 「さぁて、ランダ。お前には二つの道があります。真実を確かめるか否か」  シュマが背中を押す。  されるがまま進み出た彼女は戸惑うようにディアボラが開けた亀裂の中に、吸い込まれるようにして消えた。 「絶望に歪む表情は、いつだって甘美でしかあり得ない」  シュマはそう言って唇を釣り上げた。