思わなかった

 辺りはあっという間に水に濡れ、小さな池のようになっていく。地面は削れるように泥水に沈み、悪夢のように死体が浮き上がり這い出してくる。 「お前は、人間だろう……なぜじゃ」 「それはね、ファルバさん。俺が悪魔と手を結んだ人間だからですよ」 「王宮での確認作業も突破するわけか……。あとで検査方法の改善案を提案しなければな」 「そりゃぁ困る。言われる前に皆、殺してしまわないと」  庭師は一歩下がり、手を上げた。王国騎士の甲冑を着たリビングデッド達が群がるように襲いかかる。  それを見つめながらモリトは転がる剣を握った。  剣の使い方はわからない。細くて軽くて頼りない。ハルはこんなものを使いながらいつも戦っていたのだ。 「お前達、広がらずに固まれ!」 「いい判断です。でも、もう何もかも遅いや」  死霊術士がとん、と踵を強く鳴らせば、今までに無いほど地面が深く、広く、貫くように揺れ出した。地表が崩れ、水が噴き出し、濁流が噴き出す。 「実はですね、モグラの悪魔が仲間なんですよ。アレには本当に深く、深ぁく掘らせました。そしたらですね大きな水源を見つけたんですよ。泉の端まで掘らせて大量の死体を置いたんです。ちょっと指示を出せば一斉に動いて地上に向かってくるように。地面を削ってね。ここは昔砂漠だったそうですが、今度は大きな湖になりますよ!」  のけぞるほど下品な笑い声を上げた庭師は、這いつくばる死体の背中を器用に踏んで歩き出す。 「本当は、王城攻略の布石だったんですよ? これ。でもねぇ、師匠が計画を変更してでも捕まえて殺せって言うから……。さぁて、どこにいるんでしょうか。女で珍しい種族。髪は薄い白に近い。おそらくパイロン王城のどこかにいるってだけじゃわかりませんよ全く。面倒くさくて全部殺してしまった方が手っ取り早い。死体もたくさん手に入りますしね!」  そこかしこで緊張が走った。ファルバは厳しい眼差しで体制を低くする。 「童、女達と共に逃げろ!」 「だぁめですよファルバさん! 一人残らず死んでいただかないと! パイロン王国の首都は全部湖になって神木も切り倒されなくちゃ――ここまでじっくり計画してきたのに女一人のために計画がダメになったなんて、許せませんよ」 「モリト!」  でも、と後ずさったモリトは周囲を見回した。  リビングデッドの数は多くない。だが、水を含んだ地面が崩れどんどん彼らを飲み込んでしまう。このままでは足を取られた隙に殺されてしまうだろう。 「お爺ちゃんも一緒に行こう!」 「アレは神木を切り倒すと言った!」  目に剣呑な光を讃え、進み出る。 「あはは、神木の場所はだいたいわかってるんだ、案内はいりませんよ。さぁ! 全部でかかりましょうか!」  庭師が指笛を吹く。高い音は空に響き、雲の切れ間から黒い点が現れた。巨鳥だ。 「師匠と契約したとき、何匹か下僕として借りたんですよ。いやぁ、使わないと思ったんですがけっこう重宝しますね!」  襲ってくるかぎ爪を払い、一太刀。肉を裂いた感触はあったが浅い。足場が不安定で力が入れにくいせいだ。モリトは頼りない剣を握りしめた。  このまま戦っていてもだめだ。  ハルもカリオンもまだ帰ってきていない。ゼーローゼ達は二人ほど戦闘慣れしているわけじゃないし、足場が悪い。それに、水位は上がり続けている。羽を使って飛んでる者もいるが、全員が飛べるわけではない。溺れてしまう人も出るだろう。  水を止める方法を考え、モリトは思いついた。  駆け出したモリトは神木の根元にたどりつくとそっと幹に触れた。 「ボクはレイディミラーのモリト。ハルと旅をしながら根を張る場所を探してる、二十五本目の神木です。あなたの名前を教えてくれる?」  神木から返事は無い。 「お願い、話を聞いて。耳を塞いでしまわないで」 モリトは額を幹にあてた。 「今、回りは大変な事になってるんだ!」  やはり返事は無い。背後で争いの音が激化するのを感じながら手の平を剣で傷付けた。  浅く切れた皮膚から黄金の血が零れ出す。  血を幹に押しつけながら、叫んだ。 『ボクの声を聞いて!』 『――誰』  かすかに大気が揺れた。 『いいえ、誰であってもかまわない。もう、わたくしにかまわないで』 『目を開けて回りを見て! 酷いことになってるのがわかるでしょう?』 『いやよ、見ない、わたくしはもう何も見ない!!』 『あなたはずいぶんと大きな神木だったみたいだね。ファズやお母さんよりも、ずっと大きかったのがわかるよ。だから、洞を失ったときは本当に辛かったのもわかる。こんな姿を獣に見られたくないって思うのは当然のことだと思う。――でもお願い、目を開けて。ゼーローゼを助けて』 『助けて? あの子達は約束を結んだ。短命種はまた破ったと言うの?』  耳を塞ぎかけた神木が憎悪を滲ませたのがわかった。  この神木は目を塞ぎ、耳を閉じている。関心を引けたのはモリトの血の気配に気付いたからだ。同種の気配に動揺している。 『違う、悪魔が来てるんだよ。それから水路が壊れて水が酷いんだ。皆が溺れてしまうよ! 元々はお姉さんの伸ばした根が腐ってできた穴を使ったんだって。だったら、ふさげるはずだよ』 『根を伸ばせというの? 嫌よ、ゼーローゼ達を連れてこの土地を離れてちょうだい。わたくしにはもう絶えられない。わたくしのせいでフロースは誇りを汚した!』 『誇り? ……ゼーローゼは誇りを汚された様子はないよ』 『嘘よ! あれほど忌み嫌っていた短命共と約束を結ぶばせてしまったのは、わたくしのせい。彼らの誇りを踏みにじってしまった!』 『そんなことない、ゼーローゼの誇りは汚れてなんてない。お姉さんに考え直して欲しかったから約束を結んだんだよ。その思いを無為にしないで』 『だとしても、わたくしに何ができるというの。この身は削れ、洞を失い神木としての体を失った。わたくしにはもう、彼らに木陰を与えてあげることさえ叶わない!』 『そんな事ない、世界は変わった! 短命種は神木の重要性に気付き悪魔を恐れてる。これを乗り越えて約束を結ぼう。今度はゼーローゼと王家とじゃなく、神木と短命種が結ぶ約束を。力を手に入れることができるんだ!』 『力を持ってどうするというの? そんなものいらない!』 『ボク達が大切な者を守るための力だ! もう何一つ守れず泣くのは嫌じゃないの?』 『そ、れは……』 『確かにお姉さん洞を失ったし、ボクらは獣の住居で彼らを冷たい雨や風から守る事に誇りを持ってる。洞はもう二度と元に戻らないけど、ボク達の価値はそれだけじゃ無い。神木は獣と寄り添って生きてきたんだよ。あなたはいつまで彼らの言葉を無視してうずくまっているの?』 『わたくしはっ』 『ゼーローゼ達をいつまで悲しませてるの、いつまで守られたままでいるの! 今だって、できることがあるのに黙ったまま何もしない。ゼーローゼを守りたいなら今しかチャンスは無いんだ。そのために勇気を出して!』 『できない!! 目の前で死んでいく大切な者達のために、何もできなかった。あまつさえ悪魔をけしかけ心中しようとしたわたくしに、あの子は毛皮を失ってまで憎い短命種と約束を交わしてきた! あの子の親がどうやって死んだか知っている? 短命種に嬲られ、毛皮を剥がれ敷物にされた!! それは建国王の足下に飾られ踏みつけられていたのに、わたくしよりもあの子が怨んでいたはずなのに、わたくしは、わたくしはどうやって目を合わせればいいの……!!』  声は悲哀を含み、荒っぽく続ける。 『自業自得にも洞を無くし、幹を削られ、何一つしてやることのできなくなったわたくしに価値など無いわ』 『価値の問題じゃないよ。フロース達と積み重ねた時間が何よりも強かったから、だから皆離れていかなかった! 短命種と約束を交わし、何を失ってもアナタの事が大事だったんだ!』 『それでもわたくしは!! あの子の痛みを和らげることも、新しく生まれた子らに安寧の地も、もはや約束の木陰も与える事の出来ないのに、フロースの献身が続くのが嫌だった!』 『自分に失望したんだね』 『そうよ。もうわたくしの事なんて忘れて、好きなように生きてほしかった!』 『なら、約束を結ぼう。ゼーローゼのために短命種全部と賭をするんだ。対価は神木ボクらの運命。種の滅び。命を対価にした大博打だよ!』 『滅び?』 『そう! 世界の終わりまで続くボクらの命を掛け金に、全てを巻き込もう! ボク達が守りたい者が傷付けられたとき、巻き込んだ全部を道連れに終わらせよう! だから根を張って! フロースは絶対に逃げない、わかるでしょう? それとも死んでしまっても良いの? "花のようにあなた達を大切に思ってるフロース"と呼んだくせに!』  彼女は目を開けて、削れた幹に背を預けるゼーローゼの若者を見た。傷ついている。その向う側にはリビングデッドと戦う男達がいる。ぐずぐずに溶けた地面に半身を埋めながら、なぜ逃げないのだろう。 『……わたくしはただ、穏やかに、暮らして欲しかっただけなのに』  皆、戦っている。神木を守るために身を削っている。  ゼーローゼ達は円になって応戦しているが、足場が悪い。  ファルバがモリトに迫った死人を切り捨てる。  彼女の声は聞こえていない。なのに、神木を一瞬見上げ言うのだ。 「大丈夫だ、怖がらなくて良い。儂らが必ずアナタを守る。安心して、そこにいてほしい」 ――大丈夫だメロゥーラ。あなたを切り倒させたりなんてしないさ!  おうとも! と勇ましく続いたかけ声を覚えている。 『どうして、どうしてわたくしをこのまま置いて行かないの? 安寧の土地を見つければよかったのに、どうして戦うの!?』 『根を! 水を塞いで! はやく!! 全てを取りこぼす前に!!』  枯れた枝が力を取り戻し、傷つき裂けた部分から新しい枝が伸び始め、重さに絶えられず傾いた。それを支えるように太い根が大地を抉り、かつて通ったのと全く同じように水路をたどる。へこんで崩れた大地は再び盛り上がり、傾き倒れる寸前の城は持ち直した。  水の噴射は止り、逃げ惑った者達は一様に顔を見合わせただろう。  そして、誰も見ることの無かった王城の神木が白く発光しながら伸び上がる様に言葉を失ったに違いない。  根は一番水を蓄えた水源地の穴を塞ぎ、ついでとばかりに森を囲っていた城壁を壊した。  五百年間びくともしなかった石の城壁は根にまかれ、城下にまで到達する。  それはかつて、フロースの住居を守っていた五百年前の姿その物だった。  しかし神木が生気を取り戻しても根元の争いは止まらず、ぬかるみは生者の足と体力を奪い、劣勢は続く。  狂うように叫んだ。 『お願い、死なないで、死なないで! 誰か助けて、フロースを助けて! 何だってする! 何だってあげるから!』  声が響く。  とん、と幹に誰かが触れた。 「何もいらないわ」  泥水まみれの小さな存在をメロゥーラは見下ろした。それは、青年の腕からもがくように降りて、言う。  約束します、と獣は言う。 「もう大丈夫。フロースを守るし、そこの悪魔も全部殺してあげる。だから、もう泣かなくていいのよ」  ハルは優しく幹を撫でると駆け出した。  手近の一体を見ると首を薙いだ。しかし浅い。やはり左手ではうまく鉄剣を扱えず、折れた腕の重さと痛みが体を鈍らせる。  続けて動く敵の胴体を蹴り飛ばし、転がっている頭を二つに削ぐ。二体目の顎と首の境を狙って切り上げるように鉄剣を振れば、腐った脳みそを散らしながらリビングデッドは停止した。  やられそうなゼーローゼ達の間に滑り込み、代わりに敵を倒しては後方に下がるように言う。従わなければ襟首をつかんで投げて飛ばした。  ゆっくりとゼーローゼ達は神木の根元へ集まり、ハルは円を描くように彼らを守った。 「カリオン! 死霊術士を殺して!」  同じく泥水まみれのカリオンが巨鳥を片付け参戦した。彼の剣は、訓練されたものだ。  力強さはハルの比ではなく、ほんの少し押し込むだけで太い骨は一途両断。片手でパンを摘まむように死体を投げ捨ててもいる。 「ちくしょう! お前達、あいつらを重点的に攻撃しろ!」  死霊術士がノコギリを振り回せば、ぼこぼこと地面から現れる死体が溺れる人間のように集ってくる。  ふわり、と裾がはためけば、カリオンが飛び出す逆方向へハルは走り出した。 「ただの短命種が敵うとでも思ってるのか!」 「君だって人間だろう?」  死霊術士の言葉に顔を顰める。見たことがあるような、ないような顔立ちだ。 「悪魔に力を授かった存在だ!」  なるほど悪魔崇拝者か、と独りごちて大剣を地面に突き刺す。 「残念なことに、あまり熱心な教徒じゃ無いみたいだな。俺達の祖先が何を成したかをお前は知らないみたいだ。どうして悪魔と手を組んだ?」 「煩いな! いくら騒がれようと弱い者は悪魔には勝てない! なら、寝返って力を貰った方が賢いじゃないか」 「なるほど、後は牢屋で聞こう。水没してなければだけど。まぁその前に四肢の骨を折って、口に君の靴を入れよう。間違っても舌を噛まないように」  後ろ足に力を入れる。状態を低くし限界までためた後、跳躍。  死体に触れるのは気持ちが悪いが、今は仕方が無い。自分はもう、腑抜けになるわけにはいかないのだから。 「やれるものならやってみればいいさ、騎士様よぉ!!」  巨鳥の追加が耳障りな羽音共にやってくる。  リビングデッドの首をひねり潰し、千切る。まずは一体。  背中から袈裟懸けに襲いかかる一線をほんの少し身をそらすことで避け、右足で膝を砕き転がす。もがいた仲間を跨ぐように襲ってきたもう一体を後退して避ければ、遠慮無く叩き付けられた一撃が転がった仲間の胴を削いだ。さらに後退すれば、巨鳥の爪が通過した。  耳障りな鳥が頭上で旋回するのを横目で見ながらカリオンは、二つ目の姿で庭師に襲いかかった。  リビングデッドは死霊術士が操る肉の壁だ。ただ一人で統率された一軍を率いることもできる悪魔の使う術の中で、最も狡猾で強力な術の一つ。  それを人間が使っていることに恐れれば良いのか、喜べば良いのかカリオンは分からない。ただ、許されない術だと思う。亡骸を大地に戻さず私欲に使うことは、あまりにも摂理に反している、と。  分かっていたかのように巨鳥が襲いかかってくる。二匹いるうちの一匹が立てる爪を避け、足に食いついた。顎が引き連れ勢いに歯が硬質な音を立てるが、強引に地面に叩き付ければ羽が散る。起き上がる前に足を噛み砕き、胴を裂いた。傷は心臓まで達し絶命させる。  残りの一匹が襲いかかるのと同時に、背後で死体がうごめくのを感じた。  カリオンは駆け出しながら息を吸い、叫んだ。 「グルァアアァァアア!!」  咆哮は巨鳥を脅すには十分だったし、死霊術士の鼓膜を突き破る威力も申し分なかった。二つは思考をとめ、もしかしたら視界すら一瞬白く染まったかもしれない。  落下した巨鳥をひとっ飛びで避けたカリオンは、膝を突く死霊術士の膝を踏み砕いた。次に腹に優しく触れるような一撃をいれ蹴倒すと、痛みに引きつった口が悲鳴を上げるよりも早く両肩に前足を乗せる。骨を砕く重い音が皮膚の下から響き、それだけで背後の死体達は力を無くした。  痛みで気絶した死霊術士をそのままに宙返り。  たん、と巨鳥の首元に着地したカリオンは、逃げるように震えたその首に牙を立てた。  悪魔の血を口にするのは初めてじゃない。 「やはり、甘いな」  目を伏せながら元に戻ったカリオンは脱ぎ捨てた服を被って周囲を見回し、動く敵の姿がいないことを確かめると口に付いた血を乱暴にぬぐった。  気絶した死霊術士をその辺の蔦やズボンを剥がして縛り上げた後、ほっと息をつく。 「終わったぞ」