第三話

 最近、わたしの部屋に蛙が居候をしている。  ちょっと奇妙で麗しい瞳を持ってる、雨蛙から巨大蛙へと変貌した喋る異界旅行者だ。もちろん趣味などではなく、その蛙が泊めてくれと言ったからだ。  ミニバケツで生活してもらっていたのだが、大きくなってしまったので、今はお風呂場からかっぱらってきたバスケットの中で暮らしてもらってる。部屋には内緒で鍵をかけ、不思議がる家族に思春期の娘なのですよ、と自分でも意味の分からない言い訳をしてなんとかのりきった。  とにかく、泊めてほしいと言われた87日からさらに10日経ったくらいだろうか。  彼はお連れさんが迎えに来る前にくたばることなく、わたしの部屋で無事に生きている。 ○●○●○  これはどういう事なのだろうか、と、彼が巨大化を果たした時と同じ衝撃が、わたしに襲いかかっていた。 「おはようございます。学校に行った方がよろしいですよ?」  と言った蛙の手足は長かった。が、代わりに恐ろしく細かった。胴体はそのままなのに、手足の長さだけが人間の大人ほどになっている。なにこれ、折れそうなんですけど。  わたしが青ざめた顔で凝視していると、蛙はいつかのように時計を指さした。  わたしは糸の切れた人形のように頷いて、馬鹿みたいに叫びながら部屋を飛び出した。無論、一階にいる母に怒られたのは言うまでもない。  あれが、蛙の言う力を取り戻すと言うことなのだろうか。  お、恐ろしい……。  わたしは部屋に帰ることを思うと授業に集中できなくて、教師にはたかれることとなる。  帰ってそっとドアの鍵を開け、目だけで室内を見回した。蛙は細長くなった手足を伸ばしたり曲げたりしている。糸みたいに細い、とにかく細い。なんであの細さで立っていられるのだろうと思っていたら、蛙は長い足をもてあましてバランスを崩した。わたしは悲鳴を上げ間一髪で蛙の体を支える。 「あなた、あなた危ないじゃないのよー! 骨折ったら病院か動物病院のどっちに連れてくか分からないんだから止めてちょうだいよー!」  しかも、お医者さんにこの存在をなんて説明すればいいのだ。  叫びながら蛙を持ち上げる。恐ろしく軽いのだ、この蛙。  わたしはステファンからヘンリー。ヘンリーからジョニーへと改名した大きな犬の抱き枕をぞんざいに蹴散らしつつ、そっとベッドに蛙を座らせつつ、ほっと額に滲んだ脂汗を拭いながら部屋の扉を閉めた。鍵もかける。 「あーびっくりした。もう、止めてよね。心臓に悪いったらありゃしない。あんまり機敏に動いちゃ駄目! 足は? どこか痛い所はない?」  ああ折れそう。今にも折れそうな足。凝視していると、蛙は慌てたように言う。 「い、いいえ。あの、さやかさん驚かないんですか?」 「もの凄く驚いてしばらく何も考えられなかったよ? どうしてくれるの、そのせいで叱られたわ。まあいいけどね。で、それが”力を取り戻す”って事なんでしょう? ねぇ、もしかしてこれからもそんな風に形が変わるの?」 「はい、すみません……」  謝らなくていいから始めに言っておいてほしかった。あんな驚異的な変化がまた起きるなんてどこの平凡人が思いつくだろう。わたしには無理だ。 「あ、でもどうしよう、その足の長さじゃ今使ってるバスケットからはみ出ちゃうね」  わたしはしょんぼりする蛙に言って、どうしたものかと考える。そして、いつの間にか癖になってしまった蛙の頭を撫でるという行為をしながら、うんうん唸った。  だからわたしは、蛙がちょっと困り顔でしきりに瞬きしていたことに気づかない。その顔が、少し嬉しそうだったことも。  そして10日おきくらいに蛙の姿は変わった。  足が伸びたと思ったら、今度は縮み、代わりに頭が三倍にふくれあがったり、横に伸びたり、全体的に長く高くなったりと、とにかく様々な変化を見せた。  次第に蛙らしい緑色が抜けて、肌色っぽくなっていく。その姿は――言っては失礼だと思うが、かなり気持ち悪い。何日も直視できない時があった。だって、緑と肌色の中間色って、とても汚い色だし、目や、口だけが大きくなったり小さくなったり、もう、見ているだけで気分が悪くなるんだもの。  蛙が泣きそうな顔をしながら顔を隠そうとするので三日で直視できるように頑張ったが、蛙の心の傷は深いように思われた。わたしは次第に、なんだかおかしな、と感じ始める。けれど、約束の日までは、言うまいと決めた。  とにかく、そんなこんなでとうとう約束の87日まであと10日と迫ったある朝、わたしは覚悟をして目を開けた。すると、そこには白っぽい礼服に身を包んだ――――顔だけ蛙な、けれど体は成人男性な生物が立っていた。指の先の水掻きも引っ込んで、顔以外のあらゆる部分が人らしくなっている。 「おはようございます、さやかさん」  わたしは何とも言えない視線を彼に向けた。やっぱり麗しい目だけはそのままで、その綺麗な声だけはそのままで、姿だけが変わっている。 「……こりゃもう一つ布団を持ってくるっきゃないね」  朝起こされて、そして蛙の頭をぐりぐり撫でるのが日課になっていたわたしは、今朝もそうして立ち上がった。蛙が、何か言いたそうにこちらを見るが、わたしは黙って学校に行く準備を始めた。わたしはたぶん、彼の言いたい言葉をもう知っていた。  昼休み、学校の図書館へ行った。87日も部屋の中で過ごすのは退屈だろうと思って、ここで借りた本を蛙に貸していた。文字は幸いなことに読めたらしい。まぁ言葉が通じている時点で大丈夫だとは踏んでいたけれど、わたしにも分からないような難しい本を蛙が読みふけっているのを見るのはなんかシビアでシュールだった。  わたしは本を選びながら、これももうすぐ終わってしまうのだろうな、と漠然と思った。  わたしはその本も一緒に借りた。  10日後には蛙の――彼の”お連れさん”が迎えに来るだろう。そのころには、彼はどんな姿になっているだろう。  どんな姿になっても、中身は変わらないのだろう。彼の外見が逃げ出したいくらい、目を背けたいぐらい気持ち悪くなっても変わらなかったように。 ○●○●○  とうとう87日目がやってきた。  朝、わたしは恐る恐る目を開けた。それは「さやかさん、起きてください」と、いつもする声がしなかったから。  彼はどうやら出て行ったらしい。  らしい、というのは彼がどこにもいなかったから。置き手紙だけ置いて、綺麗に布団をたたんで、彼はわたしの部屋を出て行った。ただ借りてきた本だけはなくなっていた。  何だか拍子抜けした気分だった。てっきり、別れの挨拶があるのだと思っていた。思いこんでいた。  まぁ、こんなもんでしょうと納得して、わたしはいつもの生活に戻った。 ――――と思ったのだけれど。  わたしは盛大にため息をついて、教室の机に突っ伏した。  実はわたしは朝が弱い。むちゃくちゃ弱い。低血圧なのよね。  今までは目覚まし時計、携帯電話のメロディから始まって、最終的には弟の「朝だよタックル」を喰らって起きていた。最近は根気強い朝ですよコールがあったし、あの目を見てると何だか嬉しくなって撫で回しているうちに目が覚める、と言う感じだったので、彼がいななくなった痛手は大きい。  いや、いない者の事を考えてもしかた無いけれど、優しいコールと、弟のタックルとを比べると、やっぱり優しく起こしてほしいな、と思っても仕方ないじゃないか! なんて逆ギレしてみる。  とにかく、彼の存在は、思った以上にわたしの生活に入り込んでいて、もうその一部になっていた。  気づくと辛い。けれど、彼が無事に”お連れさん”と会って平和に暮らしていることを願うのが一番いいのだ。元いた場所に帰れば、彼を取り巻く環境は大きく変わって、外だって歩けるし誰かと一日中話していたって構わない。  内心で頭をぶるぶると振ったわたしは、ゆっくりと帰宅する。そろそろ夏も終わりで、からっからに乾いた空を見ていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。  わたしは鞄を頭に乗せて、慌てて家を目指す。もしかして、これがゲリラ豪雨ってやつか!? と密かに一人つっこみをしながら家に着く頃には、わたしはずぶ濡れになっていた。  そう言えば前にもこんな事があったな、と懐かしい状況に笑って玄関のノブを捻ろうとすると、後ろから伸びてきた、手が包み込んだ。  わたしは「え?」と振り返る。それと同時に、緑色の傘が差し掛けられた。 「いや、あの……。ここが家なんで大丈夫ですよ………」  振り返ったわたしは、見上げても薄暗くて見えない相手の顔を凝視した。と言うかこの人、うちに何か用なの? 「え、あの……その。わかりませんか?」 「はい?」 「……私のことを、覚えていますか?」  いや、知りませんと言いかけて、相手が少し身をかがめた時、わたしは軽く目を見開く。  流れるように出る声も、その瞳にも見覚えがある。だって、そのばっさばさのまつげの向こうの瞳は、さっきまで恋い焦がれていたものだった。 「あなた……蛙じゃ、なかったの!?」  素っ頓狂な声を上げてわたしは後ずさったけれど、背後が壁だ。固いドアに背中がぶつかる。どこかで見たような状況だ。  いや、知ってたわよ。知ってたけれど、何このイキモノ。あの雨蛙からキモ蛙に進化した蛙のなれの果てが、この美形さんってどういう事!? 髪の色だけがかろうじて緑だけど、生えたての新芽みたいに凄くいい色だし、ばっさばさのまつげの下は、相も変わらず麗しい目がのぞいてる。  え、え!? だってあれどう見ても人間じゃなかったじゃん。でもこれどう見ても人間じゃん!? もう何これ、実は人形の宇宙人だったのか!?  大混乱のわたしを前に、彼は憎たらしくも吹き出す。 「何よ笑うことないじゃない。喧嘩売ってるの! ていうか何でここにいるの? お連れさんと会ったんでしょう? 忘れ物したの?」 「い、いえ! 特に忘れ物もありませんし、というか挨拶もなく出ていってしまったので……」  なーんだ。そうか。  わたしはなぜかがっかりする。口調もちょっときつくなる。 「あっそう。ならもう用はすんだわね。じゃあね、元気でね!」 「待って! すみません、怒ってますよね。でも、どうしてもお別れを言いたくなかったんです。何かここに繋がるものがあったまま、もう一度ここへ来たかったんです」  そう言って差し出された本は、わたしが借りてきたもので……。  あの、と、反応のないわたしに、彼は不安そうな顔をしてノブにくっついたままの手に力を込める。わたしの手は冷たくて、彼の手は火傷するほど熱い。 「また、ここへ来てもいいですか? ときどきでいいんです。たまに、たまーにでいいですから。できれば部屋に入れてほしいけれど、やっぱり今の私じゃ女性の部屋にはいることはできませんし、それは分かっています。とにかく、ご両親に一度お会いしたいのですが」 「は?」 「大丈夫です、ちゃんと予習してきました!」 「何の予習!? てかなんであなたがわたしの親と会うの?」 「え、いやそのえっと!」  彼はぐっと生唾を飲み込むと、はっと何かに気づいたようだった。そして、わたしの顔をじっと見る。どうでもいいけど、雨に濡れた服が体に張り付いて気持ち悪い。できれば早くお風呂に入りたい。 「ええと」 「結婚を前提にお付き合いしてください」 「……は?」  硬直するわたしに、彼はさらに爆弾を投下する。 「あなたが好きです」 「……あの、えっと、それは大変なときに一緒にいたかからで」 「一緒にいるうちに情がわくのは普段の生活でも一緒でしょう?」 「う、うーん確かにそうかもしれないけど……」 「一緒に住むことになったら、また起こしてあげますから」 「うっ」 「駄目ですか?」 「駄目も何もいきなり結婚を前提にとか言われても困るとしか……」 「ぼくのこと嫌いですか」  いやそんなわけはない。  だめ押しのように彼はさらに近づいてかがむと、 「今度は手の平に乗るのではなく、手をつなぎたいんです」  こつんと付き合わされた額から冷え切った体にじわじわと体温が伝わってくる。でも、それは彼の瞳も同じ事が言えて……あーもう。  わたしは、また、いつかのように降参した。