第二話

 最近、蛙を飼い始めた。ちょっと奇妙で麗しい瞳を持ってる雨蛙だ。もちろん趣味などではなく、その蛙があまりにも哀れに震えわたしになついてきたからだ。  最初は小学校の頃に使っていた絵の具のパレットで生活させていたのだが、最近は「ヒャッキン」で買ってきたミニバケツの中で生活してる。パレットだとやすやすとフローリングに落ちてしまうからだ。それに、部屋に入るたびに蛙が扉の前でお出迎えする光景を目にすればいやでも壁がある物に変えたくなるだろう。  母に見つかれば彼の命は一瞬で儚く散ってしまう。そしてわたしにも被害が。  ちなみに震えていたのは寒がりだからだと後で分かった。手の平に乗せているときと、そうでないときでは震えの仕方が違うのだ。  気付いたのは飼い始めてから四日目くらいだろうか。  そんなこんなで、蛙はまだわたしの部屋で無事に生きている。   ○●○●○  学校から帰ってくるとヘンリーに挨拶をした。ステファニーからステファンへ性転換した後、ステファンはヘンリーへと名前を変えたのだ。  赤色のミニバケツを覗き込んだ。  いる、ちゃんといる。  外の世界がいかに危険でバケツの中がどれだけ安全なのか言い含めた甲斐があったらしい。犬や猫よりもお利口さんな蛙だ。よしよしと指先で頭をなでてやると、目を細めた気がした。   「ただいま。今日のお夕飯はパンだよ。しかもヤキソバが入ったやつだよ」  蛙はちょっぴり嬉しそうにミニバケツから這い出そうとして失敗してひっくり返った。おちゃめさんめ。わたしはふふふっ、と笑う。   「水槽買った方がいいかなぁー」  誰とも無く言った言葉に返事が返ってきたのは蛙がわたしの手の平に這い上がって来た時だった。   「いいえ、今のままで結構です。あなたは本当に優しいのですね」  今日はいつもと違って表面の粘膜が薄かった。さらさらだなぁと考えていたわたしは「ん?」と首をかしげた。   「あれ、今なんか声が……幻聴? 蛙さん、君、今のままでいいとか言った? まさかね~、独り言ばっかり言ってるから幻聴が聞こえたのか。今日は疲れてるのかなぁ?」  蛙の頭を撫でつつ首をかしげるとなぜか興奮したようにはね回る。わたしは慌てて手の平の中に閉じ込めなければならなかった。   「そんなにお腹がすいてたの?」  しかたないなぁ。と言いながらコンビニで買ってきたヤキソバパンをあげると、しかし口を付けない。不思議に思いながらもわたしは寝ることにした。  それにしても綺麗な声だった。蛙の麗しい瞳と同じくらいに澄んでいた。  その声の真相は、翌日、証されることになる。   ○●○●○   「さやかさん、起きてください。朝ですよ」  遅刻してしまいますよ。の声にわたしはあと五分~と言いかけ、はたと気づいた。  何だ今の声。  その声はとても綺麗で澄んでいて、そう、二十とか三十とか、そこら辺の年齢の声だ。しかも男だ。わたしの家には父と母とこ憎たらしい弟しかいなかった。父はわたしの部屋には入ってこない。こう見えても思春期の娘さんなのだゲフンゲフン、と胸中で独白しつつそろそろと布団から顔を出した。   「おはようございます」  と言って枕元に立っていたのは三十センチくらいのリアルな直立二足歩行をしている蛙だった。いや、骨格的に問題があるだろうとか真剣に考え始めたわたしは寝ぼけていたのだと思う。でなければぎゃーとかわーとか叫ぶはずだ。何せその蛙はとても――――グロテスクだったから。  わたしはその蛙をじっと見つめた。無言で、見つめ続けた。すると蛙は何を思ったのか顔を近づけてくる。寝ぼけたわたしは蛙が鼻先まで近づいてから、やっとぎゃーとかわーとか悲鳴を上げた。   「ななな何!? あなたなになに!?」  蛙はちょっと傷ついた顔をした。どことなく見覚えがあるのは気のせいだろうか。   「あなたの蛙です」  そう言って、蛙は律儀にお辞儀をした。おはようございますという声に、わたしはつられて頭を下げる。   「いや、見れば分かるよ。どこからどう見ても蛙だもんね。え、や……そうじゃなくて、何でしゃべってるの? ていうかこれ夢?」 「いいえ、夢ではありません。僕が喋るのは、実は蛙ではないからです」 「いや、さっき蛙だって言ったじゃん。いや、蛙だけど普通の蛙じゃないってわけ? 普通の蛙がしゃべるわけないもんね。…じゃなくって、え、あなた蛙じゃないの?」  自分でも何を言ってるのか分からなかったが、蛙は「はい」と几帳面に頷いた。   「これには深い事情があるのです。ですが、その前に学校に行かれた方がよろしいのではないでしょうか」  水掻きのついたちまっこい手が枕元の時計を指さし、わたしは悲鳴を上げて階段を駆け下りた。   ○●○●○  なんとか遅刻せずに帰ってきたわたしは恐る恐る部屋のドアを開けた。枕元には四つんばいになった蛙がいた。一瞬人形かと見まごう姿。わたしはそっと近づいて、その蛙をつついた。ぐにゃりと肌のような弾力があり、かすかな暖かみが。   「た、ただいま……?」  つついても動かない蛙にわたしは今朝の出来事が幻覚ではないかと一瞬思った。蛙がぎょろりと目だけでこちらを見て、   「さやかさんでしたか、お帰りなさい」  ゆっくりと起きあがったことで現実だと再認識させられたけど。   「えーと、とりあえず、あなたなに? って聞いてもいい?」  蛙は待ってましたと言わんばかりに頷いて、ベッドの上に正座した。どうでも良いけどその骨格どうなってるの、と心の中でつぶやいた、わたしはその脇に座った。    蛙の話を聞くと、こうである。  蛙、と呼ぶにはちょっと違うけど、とにかく蛙は水たまりの向こうの世界からやってきた旅行者なのだそうだ。つまり異世界人。異界の蛙。宇宙人と言えばいいのだろうか……宇宙から来たのではないから、違うと思うけど。  とにかく蛙はこちらの世界の観光中に、お供の人――っていっても良いのだろうか。人なのだろうか――とはぐれて迷子になってしまったらしい。そして体力を使い果たして小さくなってしまったそうだ。後は御存じの通り、わたしに拾われ、喋れるくらいに元気になったという。   「じゃあ、お供の人が見つかればお家へ帰れるの?」 「ええ、ですが、一所に留まっていないと難しいんです。しばらく、ここへ置いてくれませんか?」 「それは構わないけど、でも、こんなおっきな蛙見つけたらお母さん卒倒しちゃうよ……」 「それは大丈夫です。実はミニバケツに入っていた頃一度見つかってしまったことがありました。奥様は卒倒なされたので、覚えていないかと思いますが」 「え、えぇ!? よく無事だったね、じゃなくって、本格的にヤバいから! どうしよう、部屋に鍵を付けなくちゃ! あなたも、もうお母さんに見つかっちゃ駄目だよ?」  そう言えば、ここ最近母の様子がおかしかった。わたしの部屋の前を通る時、妙に警戒していたのはそう言うことだったのか。   「ですが、泊めていただくのですからご挨拶を……」 「しなくていいから! と言うかしないで!?」  こんなデカい蛙が二足歩行で喋ったら卒倒どころか臨終してしまう。まだ母には長生きしてほしいんですよわたしは! と胸中で喚いて、とにかく、と蛙に向き直る。   「ええと、とりあえず何日くらいでお連れさんに見つけてもらえそう?」 「そうですね……力も、休んでいれば戻って、そのぶん見つけやすくなると思いますから――――87日くらいでしょうか……」 「はちじゅうななっ!? って、待って、ちょっと待って、なんでそんな半端な数字が…!? じゃなくて約三ヶ月だよね!? お連れさん探すのに時間がかかりすぎるよ!」  というと、蛙はしょんぼりとした。   「やはり、だめ、でしょうか」 「……うぅん。わかった、三ヶ月ね。三ヶ月しのげばいいのね。……いいわ」 「本当ですか!」 「でも、この部屋から出ては駄目ね? それが絶対条件。困ってるんだししかたないよ」  お連れさんの形が亀とかだったら歩みが遅いのも道理だしね……。などと勝手に妄想してぶつぶつ言っていると、蛙は嬉しそうに目を細めた。その目だけはグロテスクな外見とは違って、相変わらず、麗しい色を讃えたままだ。わたしは何となく手を伸ばして蛙の頭をさわった。さらさらとして、ちょっと冷たい。  その感触を満足するまで味わったあと、わたしは立ち上がった。このサイズだとミニバケツには足しか入らない。今日の蛙の寝床を作らなくちゃ。そう言えばお風呂場に使わない桶とかバスケットがあったはずだ。クッションやタオルを詰め込めば、ちょうどいい高さになるだろう。  そんなことを考えながら出て行ったから、わたしは蛙の顔がタコもびっくりなほど赤くなって、そっと触れられた頭に水掻きのついた短い手を伸ばしたのに気づかなかった。