第一話

 突然降ってきた夕立にずぶ濡れになったわたしはお風呂に入りたい一心で歩いていた。道はまだ明るかったし、すでに雨はやんでからっとした天気だ。降られ損だ。忌々しい雨め!  コンクリートの道を曲がると小さな空き地に出た。そこにできた大きめの水たまりに小学校低学年くらいの男の子達が集まって、なにやらわいわい騒いでいた。いつもなら素通りするところだけどその中に見知った少年を見つけ、わたしは立ち止まった。 「やぁ正太郎君、こんにちは」  お隣さんの長男である正太郎君は小学校六年生と言うことで集団の中で一番背が高かった。そして誰よりも礼儀正しいのである。うちの弟にも密かに見習わせようとして、わたしはことごとく失敗していた。 「あ、さやかお姉ちゃん、こんにちは。どうしたの? 雨に降られたの?」 「まぁね。おかげでずぶ濡れさ。君たちは何をしているの?」  十六歳のわたしを見て正太郎君のお友達は勝ち気そうな目にそれぞれ好奇心をたたえて見上げてきた。いやはや、少年という生き物の思考が分からない。なぜわたしをそんな目で見る。いや、見ているのは足下の生き物で、それを見つめる視線のまま、わたしを見上げたようだった。  視線に気づいたのか、正太郎君が丁寧に教えてくれた。 「蛙がいるんだよ。ちっちゃな緑色の蛙。今みんなで陸に上がらないように棒で突っついてるんだ」 「な、何で?」  正太郎君は動物愛護心に満ちた好青年だったはずである。なぜそんな非道な行いを…。わたしは密かに非行の始まりだろうか。お隣の奥さんに告げ口するべきかと悩んだ。 「だって蛙って海の生き物でしょう? 陸に上がったら死んじゃうじゃない」  わたしは一瞬、言葉を失った。 「いや、蛙は海の生き物じゃないと思うよ。両生類だし、どっちかって言うと陸にも上がらなきゃ生きていけないよ」  どこの箱入り坊ちゃんだと思いながら言うと、正太郎君は本当に驚いた顔をして持っていた木の枝を落とした。よくそれで虐められなかったものだとわたしは感心した。いや、おっとりしている正太郎君はもしかしたら他人に嫌味を言われてもわからないのかもしれない。 「ええそれ本当? じゃあ早く出してあげないと」  と言って正太郎君は水たまりの中からその手の平の半分ほどしかない雨蛙を大事そうにすくう。と、激しいブーイングが起きた。どうやら他の子は蛙を虐めて楽しんでいたらしい。  む。このままでは蛙の命が危ない。と考えたわたしは正太郎君においでおいでと手招きした。 「正太郎君、正太郎君や。それをお姉ちゃんにおよこし。最近ステファンが遊び相手を欲しがっていたのを思い出したよ」  ステファンとはうちのベッドに乗っかっている大きな犬の抱き枕のことだ。昔はステファニーと言って女の子だったが最近性転換して男の子になった。別に友達が彼氏とイチャついて羨ましかったのでも寂しいからでもないし。断じてないし。  「え? ステファン?」と正太郎君は首をかしげたけどわたしは多くを語らなかった。そのまま雨蛙を頂戴して去る。 「おい正太郎、なんで蛙もってかせるんだよ~」と言う声に困った正太郎君の声がしたが、聞かなかったことにしよう。これがきっかけで虐められても彼は強い子だ。きっとたくましく生き抜くだろう。 「うぇっきゅしゅっ…あぁ風邪引いたかも」  両手で挟むようにして蛙を囲っているために、わたしは鼻をかむことができない。ずーずーと音をたてながら鼻水を吸っていると、何だか哀愁の漂った親父の背中を思い出した。お父さん、あなたはこんな日をどうやって過ごしていますか。  玄関についた。だが、さすがに家の中に蛙を入れるわけも行かずに、ステファンが友達を欲しがっているのも嘘なのでここら辺で逃がすことにした。蛙もフローリングより地面の方が居心地がいいと思うし、何よりうちの母は蛙が大の苦手だった。  けれど、家を囲むように植えられている生け垣の根本に蛙を置いたとき、奇妙なことが起こった。わたしの手にぴょーんと跳ねて再び舞い戻ったのである。  心なしか蛙は震えていた。こちらを見上げる瞳がなんだか切実に訴えている。  もう一回摘んで地面に置くけれど、今度も手の上に乗ってきた。目が捨てないでと言っている。何だこの蛙。と言うか何かこれ蛙?  試しに平べったい背中に指を置いてみた――――逃げない。  調子に乗って撫でてみた――――目を細める。  手を離して地面に置いてみる――――チワワ顔負けのうるうるとした目で見つめてきた。蛙は首っぽいところを器用に曲げて捨てないでください。と言ったような気がした。  わたしは悲鳴を上げながら蛙を投げすて後ずさり、玄関のドアに張り付き恐怖で引きつった目で哀れにぽてっと落ちた蛙を見た。起き上がった蛙は心なしか傷ついた目をしている。わたしの背中もドアノブに当たって痛いです、とは言えなかった。 「ご、ごめんなさい。あなたがあまりにも蛙らしくなくわたしに懐くようなそぶりを見せたから驚いたのでございますですだから何を言いたいかというとだ気を悪くしないでね!」  一気に言って思わず謝ると、蛙は何を思ったかわたしに一歩近づいた。跳ねるのではなくて歩いたのだ!  それだけで衝撃的だったのに、そのまま蛙は歩いてやってくる。跳ねるのは止めて、それこそ動物みたいにやってくる。奇妙な光景だった。思わずずっと見ていたいような気にさえなる。  何だ。なんだこれは何をわたしに求めているんだお前はいったい何を望む言ってみろ今なら多少のことは勘弁してやろうぞさあ言え言わぬのならこのまま家に入ってもいいですかいいですよねいいと言え…などと胸中で独白した。つまり、わたしはあまりの蛙の蛙らしくないその様に震え上がって声が出せなかったのである。  蛙はいつの間にか足下まで来ていた。  うわぁと戦いているとヤツは水かきのついた小さな手でぺたり、とわたしの靴のつま先に触れてきた。   「……………」  あーもう。   「……………」 ○●○●○ 「ただいまぁ」  おかえりーと出迎えてくる母。  母はわたしの手元を見て首をかしげ、何事もなかったようにお風呂に入っていらっしゃい、と言った。  その前に部屋に行き、そっと合わせた両手を離すと中からひょっこり現れたのは…… 「ケロケロケロ」