前編

     

 母が死んでいた。  文字にしてしまえばずいぶんと短く、呆然としていた彼女を笑った薬問屋を気付けば綿棒で叩きのめしていた。豚のように丸々と太って「これで帰る場所はもうないな」と言った顔が滑稽なほどひしゃげて、気付けば笑いながら泣いてる。  その時の自分は全く正気ではなかったけれど、ずいぶん前から準備だけは整えていた。  それは母の手紙に、自分は長くないとそれとなく書かれていたからだし、豚の食欲は留まるところを知らないと思い知らされていたから。  女一人と軽く見て押しかけてきた豚をぼこぼこにして、隠していた裏帳簿と一緒に逃亡を図れば、七年閉じ込められていた座敷牢は酷く警備が薄かった。  いいや、彼女が強くなったのだ。  夜と言う事もあって闇夜に紛れ逃亡し、月のない曇り空に感謝して王都に付くと、何気ない様子を装って「落とし物です」と王宮警備隊に裏帳簿とこれまでの悪事をしたためた密告書を手渡した。  後はもう、坂を転がり落ちるようにして豚が屠殺場で捌かれるのを捨てられた号外を見て、待つばかり。 「もっとはやく、こうすればよかったなぁ」 「せんせぇ、終わったのぅ?」  スラム街の端で泣きべそをかいている少女が上目遣いで見つめてくる。差し出した足に刺さっていたガラス片は綺麗に取り出し、化膿止めの薬を塗って、包帯を巻いた。 「うん、終わり。痛いのが三日で治らなかったら、またおいで。それまで大人しくできるでしょう?」 「うん」  隣の青年に向かって言えば、彼はぎこちなく頷いた。彼の頭にも肩にも、痛々しい打撲痕は残っている。彼らの父親はずいぶんな乱暴者だが、それでも殺さないだけマシと言えた。  追っ手から逃げるためとは言え、ここは酷いところだ。 「先生、薬代は……」 「いつも通り持ってくればいいよ」 「青葉の葉と緑の蕾」  しっかり覚えたか。少しだけ誇らしい気分でいると青年は頷いて、妹と手を繋いで帰っていった。次の患者がテントの外からやってくる。老人だ。 「すまんねぇ先生。やっぱり歯の奥が痛くてかなわんよ」  膨れた頬を見て、顔を顰める。 「薬師なもんで虫歯は専門じゃないんだ。前に言ってた別の先生の所は行ったの?」 「金がねぇってことで、だめだった」  見た目ほど老いていないのだろうか。少なくとも、売り払った内臓のいくつか分は体が縮んでいるだろう。ここにはそう言う者ばかりが生きている。そして誰もが食事に事欠くような生活だ。  自分が今いるこのテントも、つぎはぎだらけで家とは言えない。雨もしのげぬ有様だ。手に入れたのも偶然、住人の死骸を発見したからだ。そうでなければ今も寒空の下、廃墟を巡っていただろう。 「もう売るもんもない。なぁーんにも、ないんだよぅ」 「泣かないでよ」  しわがれた目尻から零れる涙に嘆息した。 「口を開けて。一応見てみるけど期待しないで。もちろん私の診察だって、ただじゃない」  忘れないでときつい口調で言えば、頷きながら口を開ける。  そして結局、慣れない抜歯をしたのだ。無論、麻酔はなかった。  口を押さえて頭を下げる老人を見送れば、まだ列は続いている。金がなくて見て貰えない人々がツケを頼りにやってくる。払わず逃げる者も多いし、来る前に死ぬ者も多い。終わりのない長蛇の列ができだしたのは、ここに逃げ込んですぐだった。  今日もまた薬をつくってなれない診察をするしかない。 「さて――<クリエイト>」  汚れた容器の中で、材料が融解しポーションが出来上がる。 ★★★  夜が遅くなれば勾引の領域だ。スラムの女ならどこへ引っ張っていっても誰も何も言わない。薬師の女はそれだけで他の女よりも価値がある。浚ってあがりを搾り取るだけで何もせずに暮らせるからだ。  けれど、彼女の場合はそうはいかない。スラムはゴミのように虐げられた人達の集まりで自分勝手で冷たい者達のたまり場だ。だが、彼らは一人じゃ生きていけないことを知っている。恩を感じないわけじゃない。医者にかかれない者達は彼女の寛容さと薬に感謝する。 「さて……」  今日も赤字だ。手持ちの薬も心許なく、自分で採集に行かなければ間に合わない。何より、薬ではなく治療を求められるのが辛い。  それに、そろそろリミットだ。  溜息をついて顔を上げた。 「今日はもう終わりだよ」 「そんな事を言わずに、診てください」  ここらでは見かけない上等な服に見覚えのある表情。 「ずいぶん探しました」 「そうは見えないけどね」  いいえ、と男は乱暴に彼女の腕を掴んだ。指先から伝わる力が強くなる。 「どんなスキルを持っているのやら。私の<追跡>でも半年かかりましたよ」 「そりゃ残念。ずっと見つけられなきゃよかったのに」  <感知>でわかるのは、気配が数十はくだらないこと。女一人にずいぶんとした仕打ちだ。 「あなたはどうやって逃げるかわからない。準備は入念にさせてもらいました。もう逃げ場はありません、大人しく王宮へお戻りを」 「王宮なんて上等な場所に、一度だって暮らしたことはないけどね」 「……そうでしたね。ですがあなたは王宮にこそ相応しい」 「あそこにはごまんと医者がいるのにね。まだ足りないって言うの」 「その生意気な口は閉ざすのが吉でしょう」 「レシピがほしいだけのくせに。頭を下げて教えてくださいと、たった一言さえ言えないクズが偉そうに説教するんじゃないよ!」  診察台を蹴り上げた音を合図に周囲が赤く発光する。 「何だ!? ぐえっ」 「先生! ここは任せて川沿いを行って」  テントの下にあった穴から這い出た少女は股間を押さえて悶絶する男に厳しい目を一瞬向けた。  礼を言って潜り込むと、すえた臭いが鼻につく。人一人がやっと通れる穴をくぐれば背後から火の手が上がっていた。  前々から話を付けていたストリートチルドレン。彼らにはもしものときの手助けを頼む変わりに少しの食事と金銭、そして計算を教えていた。 「先生、川沿いも見張りがいるみたいだ。いったん俺の家に来て」 「あんたの親父さんは大丈夫なの?」 「死んだよ」  言葉少なに言ったのは妹を診せに来た青年だ。どうして死んでいたのか聞かなかったが、彼は大きく強くなった。そのことを父親とも言えない男は気づけなかったのだろう。 「やめとくよ。あんたの妹はまだ小さいから、守ってやりな。魔法の言葉は覚えてる?」 「……<クリエイト>。でも、ポーションなんてできやしない」 「できなくても毎日唱えな。材料はもう分かってるはずだ。今度はお前が作ってやればいい」 「でも、あれは……」 「唱えるのを絶対に忘れちゃダメだよ。あれはお前を守る魔法の呪文なんだから」  失敗すればこうなると、鋭く目線で告げれば青年は一瞬、泣き出しそうにした。 「この恩は皆忘れない」 「さっさと忘れて。楽しいことをたくさん覚えればいい」  そうしていつか、死ぬときにでも思いだしてくれればいい。  舗装されていないぬかるんだ道を走った。  こんな事になったのは屠殺された豚が全ての元凶だ。  『どんな病気にも等しく効能を発揮する特別なハイ・ポーション』  そんな触れ込みで製造された薬の効能は絶賛された。  ポーションが効きにくい体質の者にも、疾患を抱えた者も等しく治癒させた。従来のポーションは飲んでみなければわからない賭博のようなものだった。  スキル、と言う特殊技術によって制作されるポーションは熟練度によって大きく効能を変える。スキルレベルが高い者は高額な報酬と引き替えにポーションを降ろすこともできるが、体質によって効かないこともある。  大枚はたいて買ったポーションが効かないとなれば患者はどれほど落ち込むか。そして作り手が死ねば効能の高いポーションは手に入らなくなる。ますます高額になり、手が出ない。  ポーションを作るために必要なスキルはヒーラーと言う職業に分類されている。スキルを得るためには適正が有り、無い者は会得ができない。神もなぜこのような制度を作ったのか理解に苦しむ。  他にも様々なスキルが存在し、彼女はまるでゲームのようだと感じていた。  彼女には生まれ変わる前の記憶があった。うっすらとした記憶の中で普通の会社員で、残念なことに若くして亡くなった。彼女が好きだったRPGにこの世界はよく似ている。  似ているのに夢も希望もない。  水の音が近い。待っていた仲間に幾ばくかの荷物をもらい、下水道へ滑り込んだ。  ハイ・ポーションを作り出したのは彼女ではない。  彼女の父、ハルメが長年の研究の末、見つけ出したのだ。  ハルメは貧しい農村の出で、家族のために薬師に弟子入りをしていた。ポーションを作れるような人間ではなく、薬草やその知識によって人を治す事が薬師の役目だった。無論、スキルを持つヒーラー達よりも下に見られる。  農家の三男に渡せる土地はない。曾祖母は薬師に食料を供給し後押しをした。その後、貯めた金を使って町に店を出す。そこで恋をして嫁をもらい、彼女が生まれた。  ヒーラーに適正があり、幸いにも勉強は苦手ではない。そこは大学を卒業した頭があったからだが、ここでは重要ではない。  彼女の父親が、娘の賢さを正しく理解できたことが重要だった。  行商人に話を聞き、品種改良に手を伸ばし薬草の効能をあげ誰にでも作れるようなポーションができないか。娘と二人研究に明け暮れた。  それは実を結び町で一番の薬問屋に持って行く。  半信半疑だった薬問屋はポーションの効きにくい患者や飲んでも治らないという疾患を抱えた人達を、伝を使って探し試させた。  それは九割の確率で効能を発揮し、残りの一割は手遅れだった。  薬問屋はこれを扱うことに決めた。そのとき、なぜか父親は製法を教えずスキルに頼った物だと告げたのだ。自分が見つけ、娘が作っているのだと。  娘には人を見る目は無かったが、父親は人の性質を察することに長けていた。町に住む以上、取り仕切る薬問屋の顔を立てなければ何かとまずい。  ある程度実績を上げたなら別の薬問屋を頼って世界中に下ろせるようにしようと段取りをしていたのだろう。後で見つけた日誌から、そんな言葉を拾い上げた。  悲しいことに、父親は急な病で倒れ死んでしまう。脳卒中だったかもしれない。  母親と二人で葬式を出しているとき、薬問屋――あの豚が納期が遅れたとやって来て、借金をふっかけた。そして、レシピを渡せと追い詰める。  父親のレシピは全て娘の頭の中だ。したためた物は遺言通りに棺桶と共に燃やしてしまったから。  けれど豚は娘がいれば同じ物が作れると諦めなかった。  二人は引き離され、母親は娘を、娘は母親を人質に取られて仕方なく働くことになる。  あがりのほとんどを抜き取られるが、誰も助けてはくれない。なにしろ薬問屋に目をつけられれば薬が買えなくなってしまうのだ。  こんな奴に、父親が見つけたポーションを渡せない。  その一心で彼女はスキルを使ってポーションを作り続ける振りをした。スキルがなくても作れるなんて、誰も思いやしない。  七年座敷牢でひたすら薬を作らされて、誤魔化すために上げていたスキルレベルがカンストになりそうな頃、母親が去年無くなっていることを知ったのである。  薬問屋が処刑され、自由の身になった彼女の平和を乱したのは、豚の帳簿と薬の出所だ。詰め所に密告した者が、監禁された薬師の娘だと突き止めたお偉い方の行動は早かった。 ◇◇◇  柔らかい日差しの下で見上げれば竜が飛び交うのが見える。ワイバーンのけたたましい鳴き声に、豊かな緑の深い香り。木陰でうごめくスライムが鳥の死骸を消化している。 「……無事に、抜けたのかぁ」  既に周囲には誰もいなかった。途中の同行者達は目くらましのため、別々の方向に逃げた。  寝不足で痛む目を押さえながら、枕にしていた荷物を持ち上げる。中には薬草と空の瓶が詰まっていた。路銀や食料を入れるよりも気が利くと苦笑する。ポーションを売れば纏まった金が入るだろう。周囲を見回してついでに材料がないか探して郊外の森を出た。  まずは川に行って下水の臭いを落とすべきだ。  それからポーションを売って、昼飯を食べて……。 「どこへ行こう」  帰るべき家はもう無い。豚に搾取されたときに全て取り上げられてしまった。  あのとき、悲しみに押し流されずきちんと立てていたなら、少しでも冷静さが残っていれば……悔やんでも過去は変えられない。 「もう誰もいないんだから、しゃんとしないと」 「よーう。そこに誰かいねぇのかー」  びくりとしながら振り向けば、茂みの向こうで手がにょっきりと出ていた。おそるおそる近づいたのは血の臭いがしたからだ。男の指がぽっきりと折れている。 「あぁ、よかった。このままくたばっちまうかと思ったぜ」 「誰?」  粗野な男だ。珍しくもないシャツとズボンに髭もじゃな顔。薄汚れてるのはどこからか落ちたのか。男の後方に、這った跡が見える。 「崖から落ちて足くじいちまった。水場まで来たはいいんだが、どうも力が出なくてよ、何か食いもんねぇ? 四日は水しか飲んでなくてよ」 「崖って、この近く?」 「いんや、四キロは向こうだな」 「アレッサの谷から這ってきたの? ……それは、凄いね」  言葉に覇気はなく、本当の事だろう。 「残念なことに食べ物は持ってないの」  がっくりした男は本当に力が出ないようだ。ズボンの裾をめくってみればあらぬ方向に曲がっている。 「これ、折れてるわよ。たぶん両方。よく魔物に殺されなかったわね」  バックから取り出した薬草を空瓶に詰めて  「<クリエイト>――これ飲めば歩けるようになるでしょ」  男に飲ませようと差し出した。 「わりぃ、俺ポーションきかなくってよ。すまねぇがここにヒーラー呼んでくれねぇか?」 「無理よ。お金持ってないもの」  ヒーラーを呼ぶのは大金がかかる。彼らの使う治癒術は折れた骨でも瞬く間に治すと言うが、効果に見合った対価が前払いで必要だ。彼女もヒーラーのカテゴリーに入るがそういった修業は一切してこなかった。  首にぶら下げていた細長いペンダントを取り出す。水晶でできたそれには、中心に液体が詰まっている。唯一持ち出せた父親の形見だった。 「<クリエイト>」  水晶が溶け、中の液体があふれ出す。それを男の口元に持って行く。 「なんだそれ?」 「いいから、飲んでみなさいよ」  怪訝そうに飲み下した男は信じられないと瞬いた。 「折れた足も指も元通りに治ってやがる。……あんた、何の魔法を使ったんだ?」 「これが魔法に見えるなら、あんたはただの怠け者」  苦しそうに笑った顔を見て、男は続けようとした言葉を飲み込んだ。