お兄様が黒くなる前の話。

 アレクがその子にあったのは、14歳の時だった。  庭で本を読んでいたとき、妹の遊び相手として彼女がやって来た。  第一印象は静かそうな子。湖面のような瞳に無表情だが、赤みの入った頬が人間味をおび、少女らしさを押し出していた。 「坊ちゃま、たびたび見かけることになると思いますが、よろしくお願い致します」 「リーゼロッテ・キャンベルと申します」  そう言って畏まって淑女の礼をしたのが、背伸びをしているようで可愛らしかった。  16歳の春。  リーゼロッテが屋敷に居るのが当り前になった頃、彼女の祖母が亡くなった。長年仕えていた大切な使用人だ。  縋り付くように棺桶に伏す彼女をなだめるように、背中をずっと撫でていたのを今でも覚えている。  そして、なぜか棺桶の中に花も持ち物も入れずに蓋をされたまま。最後にひと目見ようとアレクが蓋を撫でたとき、リーゼロッテは酷く狼狽して、彼を止めた。 「坊ちゃま、棺の蓋を開けてはいけません」 「どうして? 君だって御婆様に花を捧げたいだろう?」 「……旦那様のご命令です」  酷く憤ったアレクは無理矢理蓋を開けてしまった。そして、中に洋服と、彼女がいつも大切につけていたペンダントしか入っていないことに気付く。 「どういうことだ……」 「坊ちゃま、どうかこの事は誰にも言わないでください。お願いします、お願いします……」 「……わかった」  葬儀は終わり、空の棺が収められた後、アレクは父の書斎に向かう。  そこでは待ち構えたように葉巻をくゆらせた紳士がいた。 「父上、どういうことです」 「お前は中身を見たのだな……。リーゼから聞いている」  そう前置きしてから父が言ったのは、にわかに信じがたい事だった。  リーゼロッテの秘密。その危険性と有用性。  妖精の血は、子孫達に大いなる祝福と、同等の困難を招いたこと。 「では、彼女の祖母が死んだのは……」 「私のせいだ……。隣国に不穏な空気があった。戦争が起こるかどうか見てもらったのだが、結果はわからずじまいだ」 「まさかリーゼロッテに夢見をさせる気ですか」 「彼女はもう眠っている」 「父上、あなたは悪魔だ!」 「その悪魔の血をお前も受け継いでいる」  弾かれたようにアレクは顔を上げた。 「アレク、わかっておくれ。どのみちこうしなければ彼らは守れない」 「あなたは自分の家が可愛いから利用しているんじゃないのか」 「彼らの力に我々が一度として私欲を抱かなかったとは言わないが、これは彼らを守るためでもある。王家に、他貴族に、他国に知られたら……今のままじゃすまなくなるんだぞ」  想像は容易にできた。  アレクはやるせなさを振り払うように部屋を飛び出し、悶々と夜を過ごした後、朝一番にリーゼロッテの家へ向かう。  彼女の両親は何年も前に亡くなっていた。彼女は独りぼっちだ。  尋ねれば、家の中は酷く寒かった。春先なのに、外の方が暖かいほどだ。  紫色の唇をしたリーゼロッテは酷く驚いたように目を見張った。  アレクが訪ねて来た理由を知ると、彼女は笑ったのだ。まるでしかたのない子供を見るような目つきで。 「坊ちゃま、お知りになってしまったのですね。でも大丈夫ですよ」 「なにが大丈夫なものか。君はそれで平気なのか」 「平気じゃありませんが、いいんです」 「父上に掛け合って、別の方法を探すように検討してもらうこともできる」 「いいんです」  頑なに彼女は首を振った。 「祖母はよく、キャンベル家の人々の話をしていました。私達が何十年もの間、平和に暮らしてこれたのは皆さんのおかげなのだと。本当にそう思います」 「だからって、危険な事をする理由にはならない」 「いいえ、坊ちゃま。大事にされているからこそ、何かを返したいのです。坊ちゃまに始めて会った日、使用人の私に「僕とも仲良くしてくれると嬉しい」って、握手をしてくださいましたね。とても嬉しかった。ああ、なんて優しい人なんだろう。私、この人達のためなら死んでも大丈夫だって思いました」  そのとき、アレクの中で何かがはじけた。  頬に赤みが戻り、あどけなくさえ思えるリーゼロッテの笑みに、酷く心を揺さぶられた。  言葉のつかない思いが、込み上がってくる。 「リーゼ、君は……ううん。わかった。君がそう言うなら、僕は目を瞑っていよう」  だが、ずっとそうするわけにはいかない事も、アレクは本能的に理解していた。  屋敷に戻ったアレクは、リーゼロッテの笑顔を思い浮かべながら、静かに計略を始めた。元々静かに考え事をするのは得意だ。  彼は社交を広めながらゆっくりと必要な手勢と人脈を広げていったのである。  月日は流れ、確かに形作られた思いに名前がついた頃、アレクは愚妹の尻ぬぐいと共に、動き出したのだ。