前編

 死に際の祖母は枕元にリーゼロッテを呼び寄せるとこう言った。 『お前はこの先、思いもよらない大変な目にあうだろう。行き詰まった時はあの引き出しを開けなさい』  それまではけして開けてはならないと、痩せ衰えた枯れ枝のような手で鍵を渡した祖母は、数日後に息を引き取った。  だからと言ってこれはないだろう。  容姿端麗、頭脳明晰、才色兼備なリーゼロッテの主人アイリーンは美しい巻き毛を指で弄びながら鬱鬱と言った。 「実は私、乙女ゲーの悪役令嬢で最終的には斬首される運命なの!」 「お嬢様、気でも狂いましたか」 「何でよ!?」 「では、小説の新しい構想ですか?」 「これ以上ないってくらい本気で、真面目で、勇気を振り絞って言ってるわ!」  自らが仕える主人の妄言に、部屋の本棚に所狭しと並んだ書籍を見やったリーゼロッテは溜息交じりに告げる。 「ファンタジーものの恋愛小説、女性誌からゴシップまであらゆる低俗紙を網羅され、執筆までなさってる隠れ根暗なお嬢様が、いったいどうやって斬首されるのです。もしかして男性同士の恋愛小説で陛下をモデルに××で××××な××にしたのが知られてしまったと?」 「そ、それは大丈夫よ、たぶん……。で、でも本当なのよ。今通ってる学校が乙女ゲームの舞台だったの! 攻略対象は4人で、私は主人公のライバルキャラなんだよね……彼女のルートによっては極刑で家も取りつぶしになっちゃうのよ!」 「乙女ゲー、ですか」  深刻な表情のアイリーンの説明によると、選択肢で未来が分岐する小説のようなもの、らしい。  様々なタイプの男性と恋愛を楽しんだりハーレムを築く空想小説だとあたりをつけたリーゼロッテは、用意をしていた茶器を置くと、自然と暖かくなる眼差しで問いかける。 「今日は早めに寝ましょうね」 「ちょっとまって、絶対信じてないわね!?」 「大丈夫です、少しお疲れなのですね。今日は眠るまで手を握っていますからね」 「いらないし」  眠れば頭もスッキリいたしますよ、と言うリーゼロッテにアイリーンは地団駄を踏んだ。  はしたない。 「だから、本当なの!」  興奮して頬がバラ色に上気する姿は、見惚れるほど色っぽい。根暗だが、吊目でぽってりとした唇。何もしなくても綺麗にカールする金髪。13歳の少女とは思えない曲線を描く肢体。  そんな主人を見ながらリーゼロッテは考える。 「本気でおっしゃっています?」 「そうだって言ってるでしょう!」 「陛下からの信頼も厚いキャンベル家が取りつぶしになるなど、よほどのことです」 「……私が、戦争の火種になるからよ。デルランジェ侯爵家嫡男、フェリクス・ベルモン、隣国のセリム・オーディアール王子、他国のシャミナード伯爵の息子をたらし込んだ主人公への腹いせで、時勢を大きく歪ませて、それで……」 「国家反逆罪、と?」  小さく、アイリーンは頷いた。  デルランジェ侯爵家はキャンベル家と並んで、この国の双璧と呼ばれる家であり、フェリクス・ベルモンは千年に一人と言われる天才魔術師。若干16歳にして彼に出来ないことはないとの噂だ。既に宮廷魔術師への道が内定されている。  セリム・オーディアール王子は、第三王子でありながら才覚を認められたが故に疎まれ、留学という形で去年国の中枢から離された。シャミナード伯爵の息子の事はわからないが、おそらく何かしらの重要な位置づけにいるのだろう。  アイリーンの言葉が、妄言でなければ。 「お嬢様は反逆を企んでいらっしゃるのですか?」 「いないわ! ……でも、なんだかそんな雰囲気になってきたの。取り巻きの一人に探らせていたんだけど、どうも誤解と不幸が重なって、学校中の噂になってて」 「アレク様にはご相談されたのですか」 「こんな事、お兄様には言えないわ!」  とんでもない、と椅子から数センチ腰を浮かせたままアイリーンは青ざめる。 「では、なぜ私にそのことを?」 「……夢を見てほしいのよ」  深刻な表情で、いつになく落ち込んだ様子の彼女は、伺うように上目遣いでお願いする。 「|キャンベル家(わたくし)の妖精。お願い、未来を見てほしいの。今まで回避するために色々動いていたんだけど、ゲーム通りに事が運ぶの。勝手によ! もう何が悪いのか全然わからないわ。しかもゲームの主人公のルートが、戦争が勃発する逆ハールートに入ってて、どうしたらいいのかっ! あ、ゲーム主人公は平民出のミリーって子。奨学生の子よ」 「……やはり旦那様に言って、お医者様に見ていただきましょう」 「生暖かい目で私を見ないで!」  まあとにかく、とリーゼロッテは表情を引き締める。 「お嬢様、あなた様はキャンベル家直系の血筋。私は分家と言えども使用人です。言葉を改めていただかなくては」  どれほど叱られても、アイリーンは使用人に対する態度を忘れてしまったかのように振る舞うことがある。とくにリーゼロッテの前では。 「でも」 「お嬢様」 「……リーゼロッテ、命令よ。学園で私を陥れようとする者を見つけなさい」 「畏まりまして」  頭を垂れた使用人の前で、アイリーンは唇を噛んだ。 ★★★  リーゼロッテ・キャンベルは、実のところキャンベルと名乗っているだけで、本当は分家のものではない。  どうしてこんな事になっているかといえば先祖のせいだ。  先祖は精霊と恋をして子を成し、その子供は夢を見ると未来を見た。  変わった能力は血によって受け継がれ、様々な支配者達に目をつけられるのは自然な流れ。流浪となった先祖がこの国に逃げ込んだ際に拾ってくれたのが、キャンベル家。  当時はうだつの上がらない末端の貴族だったが、拾われたことを恩に思った先祖は、それとなくキャンベル家に助言をした。  そうするとキャンベル家は戦争に出れば相手の裏をかき、後々出世する人物とそれとなく繋がりを持ち顔を広げ、気付けば家督を上げ陛下の覚えめでたい大貴族となったのだ。  まさに座敷童。  名家の礎となった者の噂は自然と口にあがる。キャンベル家は十分な地位と力を持ったので、わからないように点在する分家の中に彼らを隠し、しまい込んだと言うわけだ。  今ではリーゼロッテを残し、血族は残っていないのだが。 「リーゼ、リーゼロッテ」  物思いに耽っていた彼女ははっとして顔を上げた。  太陽の光を背に、仕立てのいい服に身を包んだ男性が顔を覗き込んでいる。 「坊ちゃま、申し訳ありません」 「坊ちゃまはいい加減やめてほしいな」  と言う男性はキャンベル家の嫡男アレク。落ち着いた物腰で、柔和な顔立ちは逆行で見えにくいが、酷く整っているのを知っている。 「ずいぶん考え込んでいたみたいだね」  リーゼロッテは首を振った。 「少し日に長く当たりすぎたのかな? 調子は悪くない? あちらのベンチで休もうか」 「いえ、とんでもない! 私なら大丈夫ですので」 「君の大丈夫が、大丈夫だったためしはないよ」  腕を引かれては逆らうわけにもいかず、木陰のベンチに座らせられたリーゼロッテは、従者に水を持ってくるように言うアレクに酷く恐縮した。 「それで、僕の妖精。ここ数日ずっと悩んでるみたいだけど何かあった?」  二人きりになってすぐ、アレクは言った。  まさか「おたくの妹さんを心配して考え込んでいた」とは口が裂けても言えない。  アレクは幼少の頃からリーゼロッテを可愛がっていたし、出生の事も知らされている。そのせいか、ずいぶんと過保護だった。  アイリーンが夢を見てほしいと言ったのを知ったら、顔を顰めるだけですむだろうか。 「もしかしてアイリーンに何か言われた?」  一瞬にして身を強ばらせたリーゼロッテに彼は詰め寄る。 「アイリーンに呼び出されていただろう? お茶の用意もしていたみたいだし、あの子が何か無理を言ったなら――」 「とんでもない! 坊ちゃま、とんでもない事でございます」 「ならこれは何だろうね」  アレクの指先がアイリーンの目元をすった。徹夜をしたせいでくっきりとした隈ができている。 「これは、祖母の遺品を整理していたのです」 「いまさら?」 「はい。この間みつかりまして」 「そうか……あまり無理をしないように」  手袋越しの温もりに思わず頬がほてる。気心が知れているせいかアレクはちょっとした事でもよく触ってくるのだ。兄妹共々、家人との距離をもう少し考えて保ってほしいものだ。 「今日はもう寝なさい」 「そういうわけにはいきません。他の使用人にも示しがつきません」 「主人の命令に従えないと? 他の者のことなら気にしなくていい。君は働きすぎくらいだからね。リーゼロッテ、悩み事があったら遠慮せずに僕を頼りなさい」 「ですが」 「いいね」  有無を言わさず言われ、渋々頷けばアレクは満足そうに頷いた。  こうなってはメイド長もリーゼロッテを休ませないわけにはいかない。  仕事に戻ったアレクと別れたリーゼロッテは、言われたとおり家へ戻るしかなかった。  彼女の家はキャンベル家の敷地内に与えられている。昔は父と母、祖母の四人暮らしだったのだが、三人が死んでからずいぶんと広くなってしまった。  祖母の部屋にまっすぐ入ると散らかった紙束の山が積まれていた。  周囲の者には申し訳ないが、結果的に休みを貰えたのは嬉しい。  数日前、アイリーンに言われたとおり夢を見たリーゼロッテは、祖母が言っていたとんでもない事が始まっているのを知ったのだった。 「まさか、お嬢様の言った事が本当になるとは……。お婆ちゃんも教えてくれればよかったのに」  悪夢を思い出してため息をつく。  自分も含め一族が縄で繋がれ順番にギロチンにかけられていく。  大人も子供も全ての首が並べられ、石を投げられ、腐り、朽ちていく未来。 「お婆ちゃんが知ってて黙ってたのは意味があるのよね……」  時が来るまで孫の心を煩わせまいと、あんな遺言を残したのだろうか。 『――全てのルートは一つにつき五つに分岐する』 「さてさて、まさか生まれ変わりに|また(・・)合うなんて、ついてるのかないのか……。私を含めて三人目」  リーゼロッテ・キャンベルは、こう見えて転生者でもある。そしてお嬢様のアイリーンも同じだと言う事も気づいていた。完璧に隠し通しているので、アイリーンが気付いた様子はないが。  そしてどうやらお仲間がもう一人。できればこれきりにしてほしいものだ、と乙女ゲーとやらをプレイしているつもりの、会った事もない少女を思う。  奨学生のミリー。彼女の目をどうにか覚まさせなければならない。祖母の残した「未来日誌」は、まとめてアイリーンに渡しても、うまくいかないことは夢を見て知っている。  物語の中の悪役令嬢とは全く別の行動と性格を持っているのに、なぜか流れと同じになるとアイリーンは言っていた。  かくなる上は、実際にアイリーンと一緒に行動し、来たるべき未来に備えて横で見張るしかない。  だが、最大の関門がある。アレクはリーゼロッテが屋敷から出るのを酷く嫌がるのだ。些細なお使いでさえ許さない。  アレクの目をかいくぐるには、現当主に願い出ねばならない。 「……大丈夫かしら」  キャンベル家の当主はのほほんとしている所があるので、うっかりアレクに漏らしてしまうかもしれない。 「よし、出来た」  月が天上に昇る頃、リーゼロッテは眠い目を擦り、冊子の束を整えた。  そしてベッドに潜り込むと夢を見る。冊子を渡した未来の情景を確かめるために。  夏場なのに、まるで真冬のように室内が凍り始めた。  リーゼロッテの指先が、体が、吐息が冷たく凍っていく。  夢を見る時、周囲の温度は零度を下回る。人の身には辛い寒さだ。使いすぎれば彼女達は氷となって砕けて死ぬ。夢見の力はなかなか不便だ。  リーゼロッテの両親も祖母も、そうして遺体を残さずに死んでいった。  だから墓の下に遺体はない。  明日、きちんと目が覚めますようにと願いながら、意識は夢の中へと誘われた。 ★★★ 「リーゼロッテ、いけないね。僕を頼れと言ったのに」  冷たく凍り付いた室内を見回して嘆息する。  真夏なのに震えるほど寒い。  小脇に抱えた薪を暖炉にくべ、慣れた様子で火をつけたアレクは、眠る彼女の傍らに腰掛けた。  毛布もシーツもうっすらと霜を被り、明日は掃除が大変そうだ。リーゼロッテは苦に思わないだろうが。 「いいかげん、この力を封じ込めないと、君はちっとも僕を頼らない」  手袋をした手で前髪を避けてやれば氷が粉となって落ちる。 「アイリーンから何か頼まれただろう? あの子が厄介なことになってるのは、とっくの昔に知ってるよ。僕が調べたのと、君がそろえた情報と答え合わせしてみようか。僕の方が詳しかったら、アイリーンの侍女は辞めてもらうからね」  一方的に告げたアレクは「さてと」と机の上にまとめられた冊子を手に取り、ページをめくり始めた。  翌朝、目覚めたリーゼロッテは高く昇っている太陽に青ざめた。  凍った関節を慌ててほぐし支度を済ませた彼女は、燃えつきた薪の灰に気付かない。  遅刻したことを詫びつつアイリーンの元へ向かえば、彼女は小刻みに震えていた。 「わ、私の事はもう大丈夫よ。そ、そそそそれよりお兄様が呼んでいたわ」 「お嬢様、どうなさったんです? 体調が悪いならお休みしましょうね」 「え、ええそうね……しばらくはどこにも出たくないわ」 「では、私は坊ちゃまの所へ参りますが、何かあったら呼んでくださいね」  うん、うん。と可愛らしく頷くアイリーンに後ろ髪を引かれながら部屋をでた。 「……リーゼ、ごめんなさい。あなた一生敷地内から出られないわ」 ★★★ 「リーゼ、リーゼロッテ」  いつかのように名を呼ばれ、はっとふりかえる。  アレクが木陰で本を広げながら手招いていた。  近づいた彼女を幼い頃のように隣に座らせると、彼は満足そうに本を閉じて脇に置く。 「どうしたのですか?」 「君は解雇だ」  衝撃であんぐりと口を開けたまま凍り付いたリーゼロッテに、アレクは続ける。 「君の力はもう必要ない。これからはただのリーゼロッテになるんだよ」  謎めいた口調で茶目っ気たっぷりに言われても、わからない。 「ぼ、坊ちゃま、どうして……」 「それじゃあリーゼ、一緒に父上の所に行こうか。今日から君の部屋は僕の隣だよ」 「え、え……」 「楽しみだなぁ。ずっと待ってたんだ。後で、僕の努力を褒めてくれてもいいんだよ?」  リーゼロッテは、混乱しながら手を引かれていった。  数日後。  ミリーは学校をから消え、アイリーンは新たな憂いに悩まされた。  そして前以上にアレクにしまいこまれたリーゼロッテはいつの間にか彼と結婚し、正式にリーゼロッテ・キャンベルとなったのである。 「大丈夫よ。私もお姉様の戸惑いはよくわかるわ」 「お、お嬢様……え、えええええ」