第四話

 自分が高校生になったと知ったときから、秋音は必死で自分がおかしいのか正しいのかを考えなければならなかった。記憶の混乱があると言う医師の診断もあり、虚構と現実の区別が付いてないだけで、どちらかが夢ではと。  自分が覚えている記憶と全く違う世界の中で、家族すら秋音の本来の記憶と少しだけ違って、だが同じだったのが不安に拍車をかけた。  片っ端から教科書を読み漁り、出典を調べ作者を調べ、どの教育機関が関わっているかまで事細かに調べ上げたあと、参考図書に足るかどうか吟味した。おかしいことはないか、綻びはないか。また自分のような人間が他にいないか、と。  インターネットは電波ではなく霊波を受信していることに失神しそうになったのはつい最近の思い出。  世界地図と記憶の地図を照らしあわせて、気の遠くなるような調べ物が終わったとき、わかったのはこの世界が現実だと言うことだ。  85億年前に小惑星の追突で球形だったと言われるトランはほぼ平らになり、トラン外物質が降り注いだために生命が生まれ、氷河期が終わり――この世界も氷河期があったらしい――人間含む人外が生まれた。大陸戦争というものがあり、世界大戦が八回、産業革命、奴隷解放などなど、似たような歴史をたどった後、今の形に落ち着いた。  粉々になって三つに分かれた大陸を見ると、アメリカや中国、ロシア連邦、アフリカに似た形の地形や形が見受けられる。蜂輪鏡境の更に東には、日本列島にそっくりな島国もくっついていた。  世界大戦中に海流やらいろいろ変わったらしいので、位置が変わったりえぐれている他は、地球の地形と変わらない過去があったと予測できる。  歴史の重要事項はその時頭に詰め込んだ。  人外の種類は305種。過去滅びた数も数えれば一万にも上るらしい。主な原因は戦争だ。  秋音は舗装されていない道路の端っこをそろそろと歩き、角を曲がってもうすぐそこが家、という所まで来たときに、違和感を覚えて振り返った。  すぐ背後、背の高い男がじっとこちらを見つめていた。黒いハット帽に同じ色のタキシード。表情が見えないせいか、影が立ち上がってこちらを見つめているような奇妙な感覚に襲われる。  影のような男は赤い目で真っ直ぐ秋音を見つめた。品定めをしているような、声をかけるのを戸惑っているような、そんな雰囲気を醸し出していた。  つい振り返りかけた体制で立ち止まってしまう。陶器のように白い肌をした人だった。目鼻立ちも人間とそっくりで、けれど作り物のように整っていた。  硬直する秋音に何を思ったのか、男は手を伸ばして秋音の腕に触れた。少し力を込めれば簡単に振り払えそうな強さなのに、びくりと肩が跳ねた。 「お嬢さん、道をお尋ねしたいのですが」  くぐもった言葉と共に差し出されたカードには、簡易地図があった。駅から目的地を示す赤い丸は、残念なことに反対方向だ。 「迷ったんですか?」  心底ほっとして思わず肩の力が抜け、微笑みさえ漏れる。  反対に男は目を丸くしてじっくりと秋音を見た。 「駅から反対方向ですよ。出口を間違えたんですね」 「これは助かる」  彼が少しだけ横を向いたとき、一つに結わえられた黒髪が肩からこぼれた。英国紳士みたいだ。  思わず見入っていると、彼はほんの少し目元を緩めた。 「外国人に会うのは初めてかい?」 「え、あ。すみません不躾に!」 「どうぞ落ち着いて。気にしていないからね。ところで、今はどの辺なのかな」 「目的地の反対側。来た道を戻って、別の出口から出ればすぐに付きますよ」  赤い目が伏せられた。どうしたのだろうと覗き込みながらカードを返すが、紳士は受け取ったまま動こうとしなかった。 「困ったな、よくわからない。これでは待ち合わせの時間に遅れてしまう」  外国人だから地理に疎いのだろうか。  本当は案内など面倒だが、ほとほと困り果てた様子に仏心を出して紳士の腕を引く。 「すぐそこだから、ご案内します」 「これは助かる。ありがとうお嬢さん」  もともと散策が好きで秋音は周辺をよく歩き回っていた。  変わったようで変わらないこの町は秋音にとって庭だった。 「待ちなさい」  一歩先に歩き始めた秋音は、首をかしげながら振り返る。紳士はす、と肘を差し出し、秋音の手をそこへ導いた。思わず頬が赤くなり戸惑えばくすりと笑われる。 「私の国では女性とはこう歩くのだけれど、ここでは違ったかな」 「わたしはされたことないです。あの、手を……」 「先ほどから見ていたけど、君は歩くのになれていないようだからこうしていなさい。さぁ親切なお嬢さん、道案内を頼むよ」  そう言ってからかうように笑うものだから顔を隠すようにカードを見て歩き出した。  駅に戻って反対の出口から出る。紳士はあれはなに、これは? といろいろと聞いてきた。秋音に答えられることはそう多くなかったけれど、紳士は気を悪くした様子はなかったのでほっとした。それから、彼が霊国人だと聞いた。兔人が多いと聞いたことがある。 「あっ。あそこが目的地のお屋敷です」 「よかった、間に合ったな」  秋音は、喜ぶ紳士の抱擁に目を白黒させながら微笑んだ。  彼ははポケットから銀の懐中時計を取り出すと、そのまま秋音の手に握らせる。 「ありがとう。君のおかげで無事にたどりつけた。これはお礼に」 「そんな、けっこうです。そう言うつもりで案内したんじゃないんで……」  首を振って返せばまた困ったと呟いた。その隙に秋音はぴょいっと後ろに飛んで走り出す。  後ろから引き留める声が聞こえたが、知らないふり。  だって、道案内しただけで高価そうな懐中時計をもらうなんておかしな話だ。  帰ったのはカフェから出て一時間も経った後だった。 ★★★  ホテルの最上階。スイートを貸し切ったのだが、なかなか心地いい空間だと独りごちる。  フカフカのソファーは腰を落ち着けるのに最適な柔らかさで、よく磨かれた家具は艶と味わい深さを感じる。 「シンス様、もう二度とお一人でホテルをお出にならないでください。探した者達は皆、寿命が縮まるほど心配しておりました」 「それはすまないことをした。しかし案内の者も通訳の者もそろって渋滞に巻き込まれたのだから、仕方ないだろう?」 「シンス・サンクチュアリ伯ともあろう方が馬車にも乗らずに徒歩で伺うとは、恥にございます」 「徒歩じゃない、電車に乗ったさ」 「同じ事です!」 「蜂輪鏡境の住人は時間に正確と聞いている。礼を欠いてはいけない」 「旦那様が時間に疎い場所からやってきたのは、向こうもわかっておられたはず。手紙を出して、車が到着するまでお待ちになればよかったのです!」  待っていたらいつ行けるかわからないじゃないか、と言う言葉は賢明にも飲み込む。  シンスは己の執事を見上げた。  若い頃から務めているせいか遠慮のない執事は、姑のようだと思うことがある。それを言うとしばらくは機嫌が直らないので口に出さないが。 「彼らは明日には着くのかな。まだ渋滞にはまっていると聞いたが」 「それが、事故があったらしく、大きく迂回するルートに変更になったようです。到着は明日の午後になるかと」  そうか、と独りごちる。  この町に来るには高速や道路など何通りもの道筋があるが、どれも入り組んで長い。と言うのも山々に囲まれたここは自然の要塞と言っても過言ではなく、道の間隔も狭い。 「ならば仕方がない。しかし明日の会合はどうすべきか。車もそうだが通訳だけは手配しなければな。今日は当主殿がサクロサンクト語を話せたからよかったが、会合となれば通訳がいる。臨時で雇える者は?」 「すでに当たっておりますが、なにぶん修得者が少なく……」  サクロサンクト語は霊国の標準語だが、蜂輪鏡堺では修得者が少ない。シンス伯は第二母国語のサンクロ語を使えるが、それはロスメルタ大陸の標準語であって蜂輪鏡境はヤマト語が出来なければおはなしにならない。 「なぜ蜂輪鏡境はサンクロ語さえ出来ない者が多いのだ……」  せめて従弟が腹を下さなければよかったのだが。あの子はヤマト語も達者だった、と独りごちる。 「こうなってしまっては仕方がない。今回は主要な会合でなかったのも幸いした。手紙を書くので物を出してくれ。――ああそれと、今日案内してくれたお嬢さんを探したい。礼も受け取らずに行ってしまったのだよ」 「それで良いのですよ」 「なぜだ? 正当な働きによる対価は払わなければ」  首をかしげれば、執事は首を振る。 「聞くところによると、シンス様をご案内してくださったのはヤマト人では? 彼らは善意の対価にお金をもらうことを酷く嫌うのです」 「嫌なのか? なぜ?」 「侮辱だと怒る者もいるそうですので、無理に押しつけるのはやめた方がよろしいかと」 「……なら仕方ないが、あの子は流暢なサクロサンクト語を話していたなぁ」 「なぜそのことをすぐに仰ってくださらなかったのですか!」  その瞬間、執事の目が煌めいた。 「すぐに探しましょうっ。手配して参ります」  執事は早速、紙と万年筆を用意をするべく部屋を後にする。 「……。これじゃどっちが主人なんだか」  シンスは手紙を書き始めた。  後に、自ら届けに行けばよかったと、後悔するとは思わずに。 ★★★  ブーツとレギンス、長袖の青いワンピースという洋装に身を包んだ秋音は、ふらりと外に出た。無論、一人でこっそりと。  今日は休日なので、親子連れが多い。ついこの間バイオテロが起こったとは思えない位だ。  歩きながらカフェの位置やテーマパークの位置を確かめる。変わっていない故郷の道、店の位置。若干違う部分もあったが、このぶんでは八割は記憶通り。  そう言えば、と思い出したのは昨日案内した紳士の事だ。彼の案内先は知らない二割の中に入っている。大きなお屋敷で、かなり庭が広かった。  少し見に行ってみようか、と好奇心に駆られて同じ道をたどっていくと、道の端を歩きながら秋音はゆっくりと周囲を見回した。  上流階級が着るような洋装の人達が多く――どうもモダンな服装が主流らしい――馬車も行きかっている。  と―― 『どういう事だ!』  怒声に思わず立ち止まった。  大きな黒い柵のある門の前で人外が数人押し問答をしている。  それにしても、あんな声を上げて怒鳴らなくても、と身のすくむような思いで回れ右をした時、紳士のポケットから銀色の懐中時計が滑り落ちた。  言い争いをしている人達は気づかずに、高そうな懐中時計を蹴って遠くへ飛ばしてしまう。  仕方なく足下に転がってきた懐中時計を拾い上げると土を払った。壊れてはいないようだ。  拾った手前、元に戻すわけにもいかない。  秋音は言い争う三人の男性に向かって歩き出した。  一人は人間のような容姿だが、もう二人は黒いお着せの人外だ。 「あの、すみません。これ落としましたよ」 『ああ! ありがとうございます。ええと……「アリガトウ タスカタヨ」でございます』  黒いお着せの人外は、灰色の毛並みをモフモフさせながら丁寧に懐中時計を受け取った。頭の上から2本の長い耳が生えている。兎人だ。にょきっと伸びた鼻面を眺めていると異様に触りたくなってくる。お尻に尻尾はあるのだろうか。  指先に触れた手の平はふかふかだ。よこしまな思いがわき上がる。 「昨日、確かに主催者宛に手紙を出したはずです。それに、このような会合とは聞いておりません。招待状にも書かれておりませんでした。このような侮辱、断じて許せません!」 「あーもう、これだから霊国人は嫌いなんだ。気むずかしいし、すぐに怒る!」 「今なんと? サンクロ語ではないからと、侮辱の言葉がわからないと思ったか!」 「え?」  思わず、もう一人の兎人を見てしまう。  凄い剣幕で怒っていた。 「ああ、もう勘弁してくれっ! ――ですから、そのような事を言われましても、当方と致しましても対応出来かねます。会合の招待状に関しましてもきちんとお送りしておりますし、返事もいただいております。昨日、当家へサンクチュアリ伯からお手紙はいただいておりません」  あれ、と首を傾げたとき、兎人の手が離れた。 『セロメ様、これ以上、旦那様を馬車でお待たせするわけには……』 『わかっている! 一体どう言う事だ。招待状に細工がされたとしか思えない。エルファ緊急支援会合が開かれるとは!』 『こうなっては仕方ありません。直接主催の方にお話をつけて……』 『ああそうするしかないだろう。しかし、これではサンクチュアリ伯の名に傷どころか、霊国すら侮られる大問題に……クソっ』  なんだか途轍もなく緊急事態らしい。秋音は気づかれないようにそろそろと後ずさり――どんっと何かにぶつかって慌てて振り返った。  倒れそうになった秋音を、後ろの誰かが抱き支えた。 「おっと失礼」 「すみません、よく見てなくて。……あれ、昨日の!」  相手も覚えていたのか、紳士はシルクハットの下から親しそうに微笑んだ。 「昨日のお嬢さんじゃないか。あの時はありがとう。――それで、これは何の騒ぎだ」  争っていた面々はぴしっと背筋を正した。 「旦那様、実はエルファ緊急支援会合が開かれるようなのです。サンクチュアリ伯の名で既に出席の返事が出ていたようで……通訳がいません」  なるほど、と紳士は頷いく。 「こうなったのなら仕方がないが、そこの彼には頼めないのか? 流暢なサンクロ語を話せるじゃないか。この家の家人なら貸してもえるのでは?」 「それが、ファムル家も我々と同じ事故のため、通訳が遅れて到着するらしく。もう空いている通訳がいないようです」 「どうやら嵌められたようだ」  なんだか会話がきな臭くなってきた。一度はハプニングでとめられたものの、今度こそ、と秋音はその場を去ろうとしたのだが、再びぐっと抱きしめられる。 「あ、あの……」 「ところでセロメ、このお嬢さんが昨日言っていた道案内の娘だ。この子に通訳を任せようと思うのだが」 「え!?」 「昨日の礼の品を渡したいし、美味しいお茶とお菓子をご馳走しよう」  ぎゅっと逃がさないように手を握ってくる紳士に慌てて首を振った。 「い、いいえ、とんでもない! お礼が欲しくてしたんじゃないんです。だから気にしないでください。というかわたし、外国語なんてわかんないですよっ」 「流暢なサクロサンクト語を話しているじゃないか。大丈夫、じゅうぶんだ」 「あ、あの何の話を……? わたしは本当にできないんです。皆さんこそ、通訳なんて必要ないくらいヤマト語がお上手じゃないですか」  必要ありませんよね、と首を振ると、彼らは一様に顔を見合わせた。  と、先ほどまで問い詰められていた男性が、怪訝そうに言う。 「彼女、サクロサンクト語を話しているのですか? 私にはヤマト語に聞こえます」 「我々にはサクロサンクト語ですが……どう言う事でしょう?」 「見てみようか」  両頬を包むように手を添えられ、秋音は思わず赤面した。じっくりと観察する視線に、思わず目が泳ぐ。 「あ、あの……」 「失礼」  ぱっと手を離される。 『可愛らしいお嬢さん、私が何を言っているかわかるかな?』 「え? あの……?」  紳士は再び秋音の頬に手を置く。 「何を言っていたかわかったかな?」 「え? いいえ、何も」 「なるほど、異能か。――まだ名乗っていなかったね。私はシンス・サンクチュアリ。霊国の北の大地、サンクチュアリ領を統べる辺境伯。お嬢さんの名前は?」  気軽に言っているがとんでもない人である。霊国と言えばロスメルタ大陸の中で一番気位の高い連中だともっぱらの噂。 「あの、わたしは。……片利部秋音かたりべあきねです」 「ファーストネームは秋音かな? 秋音、今日の予定はあるかな? できればキャンセルしてアルバイトをしてみないか?」 「旦那様、よろしいのですか? 公の場では流石に……」 「は? え?」 「なぁに、こうなった以上どうしようもない。ならば降ってわいた幸運を手にしてみようじゃないか。秋音、さあ中へ入ろう。美味し物をごちそうするから」 「いやその、けっこうですからー!」  ウインクしたシンス辺境伯はそう言って、外国人特有の強引さで背中を押す。ヤマト人特有の押され弱さが手伝って、ずるずると彼女は門の中へ引きずり込まれた。