彼らの旅の物語

 悪魔は引き上げていった。  黒い川のように群れる彼らを先導したのは、魔王シティパティの兄。  彼は第百二十四代目魔王として君臨したのだという。  すっかり空が戻り悪魔が消え去ると驚異に晒された民衆は涙を流しへたりこんだ。そして大きな爪痕を残した侵略戦争は幕を閉じたのである。  慌ただしくなった日々の中、メディラは一日中ぼんやりしているときもあれば激しく泣くようになった。  レドアルは王座を放棄し、ただ隣にいて一緒にぼんやりしたり、泣き叫ぶメディラに叩かれながらも受け止めた。彼の怒りや哀しみを全て包み込むように。  国は残された民に渡され、新しい指導者が数名立つことになる。  その中にはジハールの名もあった。  アイリーンは城を辞し、家族の元へ帰った。 ★★★  そして第一回、世界会議。  諸国の王が一同に顔を合わせた会議は当然、紛糾した。  神木を失い結界が薄まり、彼らは悪魔の襲来に怯えていた。空が裂け魔王が降臨した土地に来ることに抵抗もあっただろう。  自らの利益のために、彼らは提示される条件の交渉を粘り強く行った。会議は一月以上も続き、ようやく議案が纏まりかけた頃、ハルは静かに立ち上がる。  すでに全ては知られ擬態する必要はなく、素のままの姿で大理石の円卓に飛び乗れば、よく磨かれた円卓の表面が彼女の毛皮をきらきらと映し出す。 「神木への干渉制限、四国は都市の移動、結構なことだわ。けれど新たに生まれる神木の根本に国を作らせないというのは本当に実行できるのかしら? 国を追われ家族を亡くした者は大勢いる。果たしてどれだけの国が防ぐことができるの?」  押し黙った彼らを見回し、議長を務めていたファズが肩をすくめた。  その横の西の王が不快そうに言う。 「難民への対処は我々の大きな課題だ。すぐにこうとは言い切れぬ。どこに生えるかわからぬ以上、難しい問題だ」 「なら認めないわ。やってみたけれどできませんでしたじゃ許さない。お前達はわかっているの? この約束はお前達の心臓を握ると共に神木の命も握ってるのよ」 「百も承知だ。リスクはあるが我々は話し合いに応じ模索している」 「できるかできないかを聞いているの。明確に答えられないの? 百も承知だと言うけれどいったい何をわかってるって言うわけ? わたしには何もわかってないようにしか聞こえないわ」 「未来の事は明言できぬ」 「いいえできるはずよ、お前達が真実誓うならば!」  切り込むような眼光に王侯はたじろぐ。 「未来がわからないから誓えない? なのに約束を守るので悪魔から守ってくださいですって? 馬鹿馬鹿しい!! 都合が良すぎるのよ。自分達が旺盛だった頃は酷い扱いをしてきた者に、勝てない相手が出たとたん尻尾を振る。恥知らず共め。お前達は脅威を忘れたとたん手の平を返すわ。約束は必ず破られる」 「ですから、そうならないよう国教を定め教育を施し、法を施行する事を決めたのですが」 「これ以上何が必要と仰るのか」  他の王達も口々に反論するが、ハルは舌打ちして黙らせる。 「考えが透けて見えるわ――我々は多くを譲歩してやっているのだから言う事を聞けってね!」 「言いがかりです!」  円卓を叩く音が響く。ハルは一歩も引かずねめ付けた。 「本当にそうなのかしら? 言っておくけれど今までの要求はただの大前提。当たり前のことをさも大儀であるように受け止めようって言うの? 強突く張りどもめ」 「何がお望みですか」 「本当に守る意思があるなら、この場に居る全員が証明して見せて。死ぬなりなんなりしてみれば?」 「な!?」  ふざけるなと騒ぎ立てる面々を順番に視線で黙らせて、ハルは続ける。 「わたしはできる」  静まりかえったのを見てため息がこぼれた。 「指導者がこれじゃ、いったいどれだけの民が従うかしら。口だけでも想像だけでもだめなのよ。必ず守ると誓えるならば何も言わない。この約束を結べばいい」  末席に居た一人の王が顔を顰めながら立ち上がる。  彼は椅子から数歩離れて膝を折ると深く頭を下げた。 「我が国の民に断言できる者は誰一人としておりませぬ。自分より他者を尊ぶとお約束することができませぬ。この話、ゼイラード王国は辞退させていただきたい」 「待て! これは全ての国が誓わなければならない事。一国すら欠けてはならないっ。この一月を無に還すつもりか」 「許さぬぞ!」 「では兵を以て我が国を滅ぼしますか? 神木はそれこそ約束を結ぶに足らぬ者達だと仰るでしょう」 「ぐっ」 「――モリト。どうするの。彼らは簡単に仲違いするわ」  静かに振り返ったハルは見つめる。緑色の髪が窓からそそがれる太陽の光を反射する。そこだけ森の中に居るような、不思議な色合い。 「それでも、ボクは彼らと約束しなければならない。そうしなくちゃ始まらないよ」 「ではっ!」 「でもね」  思わず身を乗り出した王侯に首を振る。 「短命種クオルトを信じられない。信じられない人と規律を以て約束を結ぶことはできないよ。だから信じるに足る証を見せて。もちろん、死ななくていいよ」 「証ですか?」 「それはいったい?」 「内容は僕からお話いたします。今、話し合いに出された提示を全て法律に定め施行してください。神木が約束を結ぶに足ると思ったとき、それは永遠に続く契約となるでしょう」  ダグラスの言葉に困惑が広がる。  それはそうだ。ようやく先が見えてきた矢先に新たな要求を突きつけられたのだから。 「期間はいかほどに」 「神木が賛成するのならば明日かもしれませんし、百年後、千年後かもしれません」 「それでは気まぐれに過ぎませぬか!」 「――ではご退場を。守れる自信がないのなら端から結ばねばよいのです。あなた方は未だにわかっていないようですね」 「神官風情がっ」 「教団を愚弄するならば黙っておらぬぞ」 「猊下、おやめください」  ダグラスは首を振って、ダルドを押さえた。 「やはり僕らにはできぬ約束のようです」 「ならばやめるのか? 今現在する神木の根元より先は悪魔の領土となるだろう。そして争えば、今度こそ一本も残らぬはずだ」 「これは神木のご意志によって成されるべきです。猊下……僕らは子供ですらできるようなことを彼らにして来ませんでした。短いときですが、共にいてわかりました。彼らはいつだって公平で公正でありました。どれほどの大罪人でも王侯貴族であろうとも、彼らの前で身分はなく、彼らの前では等しいのです。僕らは利害しか考えていない。人として尊重すべき事を、敬意を彼らに払ってこなかった。ここへきても、まだ気づかない」 「いったい何だと言うんだ!」 「謝罪を」  誰かがはっと息を飲んだ。 「一度も、していません。僕らは頭を下げてごめんなさいと言う事すらできない。つまり、後悔をしないのです。弱い者が悪い、騙されるのが悪い――けれど状況が変われば手の平を返す。まったく自己中心的な集まりです。それで全てがいい方に向かうならよかったのですが」 「だがっ」 「王は頭を下げてはならぬ、とな。そなたらはよくわかっている。だからこそ下げねばならぬ時もさげぬ」 「今更謝ってもらわなくてもいいわ。謝られたって到底許せないもの」 「ボクはもう決めた。信じるに足ると思ったとき正式に結ぼうと思うよ。それでいいでしょう?」  王侯達は渋い顔で頷き、退席しようとしていた王も、小さく頷いた。 「おっし! なら、それで決まりよね!」  広間の窓という窓が突如開き、突風が吹いた。 「ウールク国の神木レミーラ! 契約を守るに足ると思うまで黙って見てまーす!」 「カザフス国の神木ディラ。結ぶに足る日が来ると思えませんが。まぁ、見てますね」 「雪白木の森、神木レイディミラー。ふむ。十点中、二点だな」 「パイロン王国の神木メロゥーラ。今度破ったら本当に大穴を開けますわよ。塞ぎませんからね!」 「約束を結べないと思ったとき、どうするのさ?」  ファズは驚く王侯らを見回し、最後にモリトを見た。 「悪魔は必ずエディヴァルにやってくるよ」 「断言出来るのはなぜ?」 「そう約束したし、ボクがそうさせるんだ」 「モリト?」  訝しがるハルを見ながら、モリトはすまなさそうに微笑む。  そしてファズは頷いて眉間に皺を寄せた。 「ヘリガバーム教団総本山、神木ファズザラーラ。来るべき時まで、口を閉ざしていよう」  そしてモリトは立ち上がった。 「最後に魔界の神木――まだ、神様に名前をもらってないんだけどね」  モリトのすぐ後ろに亀裂が入った。咄嗟に駆け出したハルを何かが撥ね飛ばす。  薄い結界だ。 「モリト、どうして……」 「ボクは必ず報復が必要だと考えたよ。けれどボクらの神術では、なぜか攻撃的なものは創れない。なら誰かに頼るしかないでしょう。それにこの約束を短命種が結んでも結ばなくても、どちらでもいいんだ」  立ち上がったモリトが、見る間に成長していく。短かった髪は長くなり、前髪が後ろで編み込まれ、目はゆっくりと紫に、髪もまた紫色に染まり根元へ行くほど黒くなる。  亀裂から現れた男は優雅に膝を折った。 「お迎えにあがりました」 「まさか――」 「余は第百二十四代目魔王ブエル。この神木と契約を結んだ者」  それは戦場でシティパティを殺した者の名だ。 「王はボクに従うと約束したよ。だから魔界を元に戻す。今よりも確実に数を増やし、力を付けた彼らにどれほど抵抗できるだろう」 「やめて! そんな事しないでっ」 「もうモリトじゃなくなるよ」  見て、と彼は両手を広げた。 「根付く大地を決めたとき、ボクらは成長する。ボクは魔界に行くと決めたんだ」 「なんで! なら一緒に行く!」 「それはだめ。ハルはここで皆と一緒に暮らすんだよ」 「勝手に決めないでよ! 魔界へ行ったら誰がモリトを守ってくれるの!!」  何度も何度も体当たりをして結界を壊そうとするハルに、モリトは笑いかける。  ハルの目が緑色に染まり大きく後退する。そして大きく飛んだ。 「旅は終わったんだよ、ハル」  粉々に砕け散った結界。目を回すハルをモリトはぎゅっと抱きしめた。  あんなに大きいと思っていたが、大人になれば、なんて小さいんだろう。その体でいつも守られていた。 「ボクの事、好き?」  嗚咽でまともにしゃべれない彼女は頷いて額を押しつけた。前足で必死に服をたぐり寄せて爪を立て、大粒の涙こぼし、離れまいと身を丸くして。  胸がいっぱいになってモリトは腕の力を強めた。 「大好きだよ。ボクの大切な家族。ハルもそう思ってくれる?」 「当たり前のこと聞かないで!」  えへへ、とモリトは笑う。うれしさで口が緩み、目元が赤らみ涙がにじむ。  大好きだよ、と言えば泣き濡れた目を赤く腫らしたハルがそっと見上げて来る。  幸せだな、とモリトは思う。  ようやくハルはモリトにすがった。 「ああ鼻が赤くなってる、可愛いなぁ。ふふっ! ファズの言ってた事が凄くわかる。ずっと一緒にいたい。でも、もう行かなくちゃ」  てん、と額に口付けるようにしてモリトは手を離した。  すい、と視線をやるとカリオンが静かに見ている。 「決めたのか?」 「ハルの事をお願い」 「きっと泣くぞ。お前はそれでいいのか?」 「ボクは男の子だから、男にしかできない事をするんだ。皆みたいに」  きょとり、とした顔に内緒話のように言う。 「女の人を守る事」 「でしたら僕もお供致します」  晴れやかに笑ったモリトに微笑みながらダグラスは進み出る。その手にはいつの間にか旅支度の整った荷物があった。 「もう二度と魔界への門は開かないよ。彼らが神木を失望させ、全てが枯れる時まで」 「かまいません。僕が記した手記は全てまとめて猊下の元へ。神木と獣と、そして我々を理解するために、きっと役立てていただける。ここでの役目は終わりました。それに、お約束いたしましたでしょう?」  驚いたように目を見張ったモリトの横にダグラスは並ぶ。 「怖くないの?」 「ええ、怖かった。あなたの考え、目に映る者がどう捉えられるのか……雪白木の洞で震えるほどに。ですがあなたの本心を聞き涙を見て、一緒に居ようと思いました。僕の役目はまだ残っているのです」 「時間だ」  言葉少なに言ったブエルは両手を掲げる。 「ハルが歩けるように毒の大地を浄化するね。何百年かかっても、きっと綺麗にするから。その時はボクの洞に泊まりに来て一緒に歌を歌おう。始まりの歌が良いな、歌祭で歌うはずだった穏やかで優しくて一番好きな歌。一緒に歌ってくれるでしょう? きっと会いに来て」  それはいつ来るともしれない未来の話だ。  そのとき、ハルは自分が守ろうとしたものがその手を必要としなくなった事を理解した。ずっと前から――いや、最初からモリトは自分で考えて沢山の思いを抱えていたのだ。  それを話し合えていたらこんな事にならなかったのだろうか。  裾を翻した彼ら魔界へ続き亀裂へ滑り込んだとき、ハルは駆け出し、消えようとした隙間に手を伸ばす。それを押しとどめるように暖かい手の平が前足を握った。 「なんで? どうしてそこまでしてくれるの!」 「ハルが自分の道を自分で決めるように、ボクも自分の事は自分で決めたんだよ」 「でも、わたしの為なんでしょう!?」 「ボクはハルのために生まれたんだよ」  あの日、芽が出る時の事を昨日のように覚えている。  暖かいものに包まれて、しきりに舐められていた。  優しい声が何度も覚醒へ誘っていた。 ――ねぇ、いつ芽を出すの? 今日は晴れてるのよ。雪遊びを教えてあげる。外が怖いの? きっと守ってあげる。だから安心して生まれてくればいいのよ。 「そうありたいと思って、ここまで来たんだよ」 「……ずっと一人で生きなきゃいけないって思ってた。誰かが気にしてくれてても、それは余計な事だって思ってたの。誰かを信じるのが怖かった! 人に嫌われるのが怖かったからだって、今ならわかるわ。わたしはわたしが嫌いなのに、他の人も嫌いで、嫌われて、身の置き場がどこにもなかったの。  気付きたくなかったから、誰かを好きになりたくなかったの。臆病だった。でももう止めるわ! だからどこにも行かないで、ここに居て! ずっと一緒に居たいの!!」  目を見開いたモリトは破顔する。でもそれは、彼女には見えない。 「ボクは、ボクにしかできないことをしたいよ」 「モリトの幸せはどうなるの!」 「幸せはどこでも見つけられるよ。大丈夫だよ。ハルがこの世界でもう一人じゃないって、ボクと一緒に居たいって思ってくれたなら、何も怖くないし寂しくないよ。ボクはハルを守りたいと思ってた。いつか来る、別れの後も」 「獣が滅びても神木が新しい道を行くのを願った。優しくて安全で、誰かが守ってくれるような! でも、これじゃっ……わたしが守られるだけよ!! もう獣は滅びるの。誰が命を賭けて神木を守ってくれるの。わたしはまた、何もできないの? ……皆を、守りたかった」  ハルもモリトも、同じ事を願ってる。 「夢が叶ったな。ボクらはずっと一緒に居られないけれど、ずっと一緒だよ。ハルの事をいつも思ってる。だから、ボクが一人で行くことを許してくれる?」  泣きながらハルは答えた。 「絶対に許さない」  モリトはふふっと笑った。 「いつか必ず魔界に行く。モリトが招くまでなんて待てないし、待つつもりなんてないわ」 「魔界に根付いたら、悪魔が勝手にエディヴァルに行かないように結界を張るよ。ハルだって通れなくするから」 「モリトが拒んで閉ざしてしまっても道を見つけて会いに行くわ! だからそれまで待っていて、約束よ」  もう変えられないのだ。  別れは来たが、永遠ではない。  強く願う。 「カリオン、ハルを守って。ボクの一番大切な女の子なんだ」 「わかってるよ。だから安心しろ。お前達の規律に誓うよ。必ず守る、誓います」  だから、とカリオンは箱を取り出して、そっとモリトの手に握らせた。 「ウルーラのフリュイはお前がきちんと守るんだ」 「どうして、でも……」 「約束したんだろう? どうやって彼女達が滅びたかを伝えるって」 「うん。……さようなら。皆」  はっとしたとき、既に亀裂は消え去っていた。  ハルは手を伸ばすが、先ほどまであったはずの空間が消えている。 「大丈夫か……」 「いいえ。でも、もう遅い」 「会いに行くんだろう? ……モリトはハルが思ってるよりも、沢山の事を考えてた。一人で悩んでいたりもした」 「わかってたわ! わかってたけど……わかってなかったの」  少しずつ大人になって、いつか手を離れて遠くへ行く。 「モリトを守れていた? 守りたかったものしか見てなかった気がするの」 「きちんと守れていたよ。だから一人でも大丈夫だって言ったんだ」  顔を上げたハルをカリオンは撫でた。 「そうじゃなきゃ、子供のままじゃどこにも行けない。モリトは自分の道を決めて歩き出した。胸を張っていい。モリトは君を大切にして、君はモリトを大切にした。大人になる時が来ただけだ」  そう言ったカリオンの目にも涙が浮いていた。ハルは掻き毟るように胸を押さえる。両目の端からぼろぼろと涙が落ちて床を塗らす。眼裏にモリトの笑顔が映っていた。焼き付けるようにきつく瞑り、開けたハルの双眸は、湿っていたが涙は止まる。  モリトを一人で行かせてしまったのは全て自分が悪いのだ。けれどモリトはそうやってハルが自分を責めるのを喜ばないだろう。  できる事は一つだけ。なら、それに向かって歩いていく。  強い光が双眸に灯った。 ★★★ 「泣いている暇はないぞ」 「……大丈夫」  目を向けた先には暗闇が広がっている。  紫色の炎がかろうじて足下を照らし腐った大地はぬかるみのよう。  見渡す限り悪魔だらけ。  モリトは唇を引き上げた。 「こんにちは、皆。突然だけどボクとゲームをしよう? 命を賭けてボクとお前達の終わらない陣取り合戦」  興味を引かれたように悪魔達の目がぎょろりと動く。 「この大地のどこかをかつてのように直してみせよう。ただし、ボクは殿下の言葉に従う。彼の心一つで大地は蘇り、腐りもする。彼を殺せば次はその人の言う事を聞いてあげる。平和、混沌、戦争。好きな国を創ればいい。ボクはいわば戦利品。この世で最も価値があると思うよ。あなた達の欲望を満たしてあげる」  伸るか反るか。  問う前に歓声が上がる。  歓声に肌を叩かれながらモリトは微笑んだ。太陽も空気も何もかも澱んで暗い。でも、ここにも希望や幸せはあるのだろう。  ならばモリトは示すまでだ。  自分の言葉が本当だと言う事を。  彼は目を瞑り――開いた。 『こんにちは。新たな神木の誕生に心からの祝福を』  それは神の言葉である。  黄金の光りが上へ下へと流れている。その中心に大樹があった。 『初めまして、神様。地上の様子は見てたでしょう? さっさとボクに名前を付けて』 『とんでもない神木が生まれたみたいだね』  銀でできた大樹。その枝に生る果実は光の中で揺蕩う朧月のような“魂”だ。 『さて、君には説明しなければならない。まず始めに、君の仮説は合っている。神木は魔界の大地を浄化できるだろう。が、浄化は痛みと苦しみを、その身に与えるだろう。呪詛は怨嗟から生まれ、毒は嘆きと怒りによって垂れ流される。悪魔達は呪詛と毒を吐き続けるだろう。果ての無い苦痛をその身に受け続ける覚悟があるか』 『なぁんだ、そんなこと簡単だよ。ハルが幸いを胸に抱けるなら、怨嗟も毒だって飲み込めるんだ』 『君を獣に作り変えることもできる、と言ったら?』 『ボクは神木。ハルのために生まれた神木。神木は獣の住居。ボクはそれがいいし、家は住人を守ってあげるんだよ。神様、当たり前のことをするだけだよ。ボク達は定められた営みを続けていくと、あなたに約束をした。ボクは約束を破らないよ』 『それ以外に願いはないと?』 『聞きたいことならあるけど』 『言ってごらん。君は賭けに勝ったから特別に何でも教えてあげよう』 『賭け?』 『私が私に賭け勝利の祝杯を捧げる一人遊び。獣の魂と言うのはとても調達するのが難しい。約束を破っても規律に罰則は無い……だからこそ、破らない魂を選ぶ必要がある。約束を守る事に命を賭ける。そんな魂はあまりにも少ない――そんな中、神を切望し絶望した魂が、獣に足る魂が現れた』 『それで?』 『想像してごらん。奇跡を信じない子が神にすがったら? あんなに頑固で意固地で信じるのを止めた子が? そんな事ありえない。でもありえた。君との旅が彼女を変えたんだ。自分のちっぽけなプライドや思いよりメディラを助ける事を願ったんだ。あの子の一撃はメディラを切っただけじゃない。彼の暗い気持ちと混乱した心を削いだんだ。強すぎる思いは心を壊す。メディラからはやがて新しい枝が出て、前よりもいっそう大きくなるだろう』 『神様は未来がわかるんでしょう? あらゆる時間、あらゆる場所に存在してるって、前に言ってた』 『けれど多くの運命を見通せても、選ぶのは地上の子供達。私はあらゆる可能性を知りながら、何一つ未来の結果を知り得ない。君の前にいる神は、いつだって現在の神なのだ。未来から私がやってくることはなく、過去へ今の私が行くことも無い』  本当に? と念押ししても神はそうだと言うばかり。 『じゃあ、ハルを創り変えたのはどうして?』 『ううん? 創り変えてはいないが……ああ。お腹の事かな? 説明したけど忘れたのかな? あの頃はいろいろあっただろうしね。君は知ってるだろうけど、彼女は溺れて死んでしまった。本来なら水に足を付けるのも怖がるはずだ』 『でも魚を獲ってたよ』 『だから無意識には覚えてるのだろう。アレは浮き袋さ』 『お魚のお腹にあるやつ?』 『そうそう。どんなに深い川に流されてもあの子は溺れずに浮き上がる。魚を捕れなければ死んでしまうのはわかってた。だから、これは眠りにつく前に送り出した神からの、せめてものお詫びの品だったのさ』 『ねぇ、さっきの話は本当に嘘じゃないの? 神様は結果を知っていたように聞こえるよ』 『ふふふ、嘘じゃないよ。疑問は他にないか? なら、話は終わりだ。君の名前が決まったよ。傲慢で尊大で欺くことを知った神木よ。君の名前は――』