誰もが願う幸せに

 建国史には書かれていないが、嘘つきと愚か者と卑怯者と称される三人の若者がいた。 「愚か者だった私がここまで生きて来たのは贖罪のためでした。最もしてはならない事を同胞に許した責任をどうやって償えばいいのか……永遠に近い神木に償うには、同じほどの時間が必要だと思ったのです」  老王の言葉にハルは不思議な物を見るような視線を向ける。 「建国史に猫と結婚したと書いたのはどうして? あなた違うんでしょう?」 「――この国に混血児を集めるためだ」 「ジハールか」  草木の間を滑るように出てきた騎士はハルを見ても驚かない。最初から知っていたかのように一瞥をくれ、老王の額を見る。そこには脂汗が滲んでいた。 「老い先短い老体を、あまり苛めないでください。いくら改変したと言っても、老いは体をむしばむ」 「儂はまだ若いつもりじゃぞ」 「馬鹿言え、最近じゃ動くことすら億劫そうにしてるじゃないか」 「冬眠明けだからな」  アホか、とジハールは嘆息する。  気安いやりとりは気心の知れた友人そのものだ。もしかしなくても、彼らは古い付き合いなのだろう。ハルはじり、と後ろ足に力を込めた。 「……あなたは、混血児? なんでこの国に?」 「ええ、狼族と獣のですよ。残念なことに異端として集落を追い出され、彷徨って二百六十年前にここへ。群れは一夫多妻制ですが、両親はそうじゃないのが悪かったんでしょうね。国にはそういった混血児が隠れて暮らしています」  平均的な獣人の寿命は長くて八十年。混血児は獣の血を引くせいか寿命が長くなる。  お嬢さん、とジハールは続ける。 「ゼーローゼの者から報告がありました。獣の最後の一匹が、生き方を知りたいらしい、と……だが、その表情を見る限り大丈夫そうだ。ここに来る前に解決したんですね。ならば、この土地を出て行っていただきたい」 「それを言うために王宮に留めたの?」 「あなたを見極める必要もあった。本物であるかどうか確信がなかったもので」 「出て行くわけにはいかないわ。わたし達はメディラを助けるためにここへ来たの。モリトは全ての短命種と神木とを繋ぐ約束を結ぶため、話し合わなければならないから」 「約束!」  嘲笑に顔を顰めたハルは馬鹿にされるのも仕方ないのだろうと内心彼らに共感した。混血児ならば神木と短命種の泥沼の歴史を知っている。なのにまたこりもせず歩み寄ろうというのだ。気が触れているか死ぬほどのお人好しでしかできないことだ。  けれど、それだけでは無いのだとハルは告げた。 「あの子が望んでいたのは皆が幸せに暮らすことだった。でもそんなの無理よ。だから、それを知った末の答えを導き出さなきゃいけない。国の歴史は多くのことをわたし達に示してきたわ。醜い心も、友情も愛も……そしてしがらみも。あなた達は進まなければならないわ。だってあの子は未来を望んでいるのだもの」 「理想に過ぎないとわかっていて止めないのはなぜじゃ」 「一度言い出したら聞かないもの。鼻っ柱を折ってやらなくちゃならないわ……それには神木の現状を突きつけなくては駄目。そうじゃなきゃ諦めないもの」 「諦めないのはあなた自身と言う事はありませんか」  ジハールの言葉に苦い物が込み上がる。 「そうね。受け入れられないのは、わたし自身かもしれない。獣はここで滅び、神木は楯を失うの。その先の未来が怖い……今までだって守り切れていたとは言いがたかった! でも、だからこそやらなくちゃいけない。わたしが唯一役に立つのは、その時かもしれない」 「……。多くは聞きませんが、メディラは気が触れています。今は無理だ」 「ラルラは歌祭りで一番を取ったらメディラに会えると言ったわ。でも、アイリーンの歌に反応してメディラの精神体は現れた。それはなぜ?」 「ここは見逃してはくれまいか、最後の姫君。俺達は皆、神木との約束を果たそうとしています。もうすぐ約束の時が来て役目が終わります。それだけを願って生きてきた」  膝をついたジハールにハルは言う。 「願いってなに? 約束ってラルラとの約束なのかしら」 「いずれわかります」 「メディラをどうするつもりなの」 「なにも」 「なにもですって? お前達からは暗い匂いがする。復讐を決意した者の目つきをしているわ。お前達はメディラにすがって生きながら、まだ足りないって言うの! どこまで利用するつもりなのよ!!」 「何だってしようと誓ったのです。泥をすすり何を裏切ろうとも」  やっぱりそうだったと、かっとなって叫んだとき、周囲を囲むような気配がする。 「もうすぐここへカリオン殿とアイリーン嬢がやってくる。その前に、ご退場願います。――始めろ!」  ジハールの言葉を相図に向かってきたのは、白っぽい毛皮を持っているものの全て違う種族だった。  中には真緑の目を持った者もいる。  一人が笛を取り出して素早く吹き鳴らす。それに合わせ、彼らは低く歌い出す。 「彼らは純血種のあなたに劣るでしょうが、全て原種の末裔です。彼らの歌にメディラは少しだけ、関心をよせるのです」 「アイリーンもその一人ってわけ?」 「……彼女は中でも、特別です」  刹那、ジハールが振り抜いた剣先を身をよじってかわす。彼は深く踏み込んで素早く二撃目を繰り出した。  飛び掛かろうとした瞬間、足払いがかけられ、王が懐から投げ放った礫を避ける。体をひねり、十分な距離を取ったその時、突風が吹き体を押した。 「魔術っ」  両手を掲げた襲撃者の一人の目が真緑に輝いていた。再び魔術によって繰り出された強風に煽られ後ずさった刹那、何かを超えた。  肉球が伝える乾いた腐葉土の感触。  メディラの洞。 「これって!」 『――ミレ』  振り返れば誰かが立っている。  現れた青年は、滝のように零れる青髪に桜のように淡い瞳の色をしていた。着ているのは銀の刺繍が刻まれた燕尾服のような白い服。  彼はまっすぐハルを見て微笑んでいる。  気が狂っているとは思えない。何かおかしいのかもしれない。  だが、ハルにはわからなかった。  抜けるような肌の上に乗る唇がうっすらと開く。 『よかった。どこへ行ってたの?』  はっと伸ばされる手を避けようとした時、尻尾が何かに当たる。ぎょっと振り返れば、結界がハルの出入りを阻んでいる。 「どうして!?」 『おてんばさんめ。最近探すのが大変だよ。他の子はどこにいったの? また遠くまで追いかけっこしてるのかな』 「え?」  そう言って、メディラは洞の隅から古びたブラシを取りあげると座り込み、ハルを膝に乗せる。 「――では、お健やかにお過ごしを」 「待ちなさい!」  彼らは歌を止めていた。飛び掛かろうとした前足がやはり結界に阻まれる。 「待って、待ちなさいよ!」  遠ざかっていく老王とジハールの背中が一瞬止り、振り返る。だがそれだけで、彼らは歩き去ってしまう。  毛をすく手が休みなく、けれどハルを離さない。 「メディラ、離して!」 『ん?』 『離してって言ってるの!』  ゆっくりと首をかしげたメディラはハルの鼻先をちょんと突いた。 『日が暮れると危ないからだめだよ。ここで帰りを待っていようね。ミレ、横を向いてごらん。こしょこしょしてあげる』  耳の後ろを優しくかかれ、ブラシを置いた手が毛皮をかき分けるようにくすぐってくる。気持ちよさに気を取られ、うっかりひっくり返されれば、腹の毛をもふもふと撫でられた。 『め、めでぃら! あ、あぅ。わ、わたしはミレじゃ、ないわ!』 『んーふふふっ。だぁれだごっこ? それなら目を隠さなきゃ』 『メディラ』 『うん、なんだい?』  悲しくなってハルは彼の手に額を押しつけた。嬉しそうに撫でてくる手に身をゆだねながら、言葉が出ない。  メディラはしっかりとこちらを見ている。  見ている、はずなのに。 『わたしはハル。最後のテール。ミレはきっと死んでるわ。メディラ、聞いてほしいの。わたし達はここへ遊びに来たんじゃない。何があったのか知りたいの。あなたを助けたいの』 『眠くなった? なら子守歌を歌ってあげようか? でも、日は高いから木登りでもしてみる? そう言えば、最近枝を落としてなかったな。手伝ってくれると嬉しいけど……もうずっと、誰も手入れしてくれないからなぁ』 『あの短命種の王はあなたに何もしていないの?』 『……そうだ。短命種だ。もうすぐあいつらがここまでやってくる。ミレ、ミレ……彼女はどこ? 早く逃がしてあげないと。残ってるのはあの子だけ。レドアルはどこだ?』  不意に陰りを帯びた瞳で呟いて、メディラは顔を青ざめさせた。ハルを降ろし、うろうろと歩き回る。 『レドアルって誰? ミレは獣よね』 『そうだよ。ミレは若い雌の獣で、私のためにここへ残ってくれた。他の神木達の所にも獣が必ず居るように、皆気を配ってくれている。それもこれも皆短命種が悪いんだ! 彼らはどうして私達を排除しようとするの? だって、ここ以外には動けない。彼らは足があるのになぜ? なぜだろう。話し合いで解決しようと言っているのにすぐに火をつけ燃やしてしまう。彼らは魔界とこちらの物質で生まれたから悪魔に考えが似ているのかな? だとしたら何としても追い出さなくちゃ。だってそうだろう? 彼らは乱暴者で毒を吐く。身の内に溜まった瘴気は大気を汚す。エディヴァルの空も黒くなってしまったら、私達は生きられない』 『メディラ、皆死んだのよ』 『私は何をしてあげられるだろう。こんなにも動けない自分を呪ったことはない。短命種に獣を大切にしてくれるなら一緒に暮らしてもいいと言ったんだ。なのに彼らは嘘つきだ。ミレ、ああミレ! ここに居たんだ! 良かった、探していたんだよ。ミレ、今日はブラシをかけてあげる約束だったよね。晴れているから外に行こうか? ご飯はもう食べたかな。他の獣はどこ? 出発は明後日の朝って聞いてたけど、食事にでも行ったのかな。えへへ、そう言えばレドアルは? 彼はきちんと約束を守ってくれるかな。とてもいい短命種だと思うんだ。彼の仲間達も好ましい人ばかりだった。ここに創られる国なら、きっと皆うまくやっていけるよね? 私達は喧嘩をしないで暮らせるはずなんだ。きっと沢山の話し合いが必要だけど、戦うよりずっといいよね? ――なのに約束の時間にミレが帰ってこない……』  不安と恐怖とミレという獣、そしてレドアルと言う名を、メディラは小さな子供のように、または大人の顔で繰り返す。 『ミレのことが心配なの? 彼女がどうなったか聞いてくるわ。洞から出して』 『だめだ』  振り返れば彼の表情は憤怒で醜く歪んでいる。 『行ったらあの嘘つき共に殺される! あいつらめ、絶対に許さない!!』  叫び声と共に精神体がかき消えた。  いくら呼びかけてもメディラは現れない。 「どうしよう!」  ハルはうろうろと、歩き回った。 ★★★  建国史に出ていた悪魔とは殿下のこと。  嘘つきと愚か者と卑怯者。その中の一人だった。 「悪魔と短命種と、神木と獣。皆が暮らせる理想郷……長くは続かなかった」  卑怯者が裏切った。 「世界各地での争いは止まず悪魔に恨みを持った短命種が、欲深い悪魔がこの土地に増えすぎた。卑怯者は彼らをまとめ上げ、愚か者は騙された。……そして、メディラは心を壊した」 「嘘つきな悪魔。そのときあなたは何をしていたの?」  沈黙する殿下に、モリトは木箱から飛び降りた。  殿下は本当のことを言っているが、それが全部ではない。 「全てを話してくれないなら、ボクは行かなきゃいけない」 「待て! そなたは協力を求めに来たのでは無いのか」 「求めてるのはあなたでしょう? ボクは悪魔の事を知りたかったけど、教えてくれないならもういいよ。話は魔王にだって持ちかけられる。困るのはあなただけ」 「では、どうしろと……!」 「隠してることを言って。ううん。正確に、話して。言ってないことがあるでしょう? 嘘つきなあなたは何をしたの? メディラが心を壊したのは裏切られただけじゃない。だってそんなことは、わかってたはずだから。あなたは卑怯者の仲間だった?」 「違う! あの愚か者の目を覚まさせるためにあらゆる証拠を握った!! だが、手遅れだったのだ」  声音に絶望が塗り込められる。苦悩するように両手で顔を覆いながら殿下は小さく身を丸めるようにかがみ込む。 「最初から愚か者の目を覚まそうなどと考えず、殺していればよかった!! あれの目を覚まさせた時には、卑怯者は獣を一頭、人質に取っていた。ミレと言う雌だった。そしておびき寄せた群れをなぶり殺しにし……ミレは、悪魔も思いつかないほどの残虐な攻めを受け、死んだ」 「なにをしたのっ」  その言葉を言うことを、酷く怯えているようだ。  モリトもダグラスも、聞くのが怖い。 「生きたまま、解体を。皮を剥ぎ、四肢を削ぎ……神木の根元に放り出した。メディラは虫の息だった彼女を抱きしめながら、発狂した」 「あぁっ」  卑怯者は「これでお前を守る者はなくなった」と言った。  嘘つきはその場で奴を嬲り殺した。  おぞましい所行を忌避した者と、私欲とに二分された国民は、血で血を洗う戦争を始めた。頭を失った反逆者共は血祭りに。辺りはしばらく草木の一本も生えぬ有様となる。  メディラは心を壊し、他の神木は激怒した。  ラルラはそのうちの一本だという。 「怒りは憎しみへ変わり、彼らは復讐を誓った。約束を守れなかった者達に報いをと。……メディラを見ると悲しい。エディヴァルへの道を見つけなければこんな事には……」  魔界の腐りきった大地は泥のように殿下の足を沈めていた。不意に全てがどうでもよくなり沈んだ先にあったのだ。  奥へ奥へと泥のような土をかき分けて、固い境界をかき分けて――。  初めて見たとき、そこがどこかわからなかった。死の先にあるという天界だとすら思えるほど、美しい絶景が目を灼いた。  あの時、命ごと太陽に燃やされればよかったのだ。 「悪魔らしくないんだね」 「神人の出現は悪魔にとっての変革だった。彼女は慈しみを知っていた。慈愛の意味を教えてくれた。草木を愛でることの暖かみを、誰かと手を取り合うことを我らは知った」  全ての者がそうだったわけでは無いが。  自嘲の笑みが広がる。 「どうするのだ、神木の子よ。我らは約束を守れぬぞ。そして我らを許さぬ神木の怒りが、やがてこの地を飲み込むだろう」 「……魔界が滅びるまで、あと百年」  侵略の歴史は、裏切りの歴史。  頭ではわかっていたものを心でようやく理解する。  大切な物が違う。そのせいで争いが生まれ、意識を統一することは不可能だ。  楽園は理想だからこそ美しく、現実は事実だからこそ辛い。  望んでいるのは幸せなのに、どうして手が届かない。  沢山の困難と壁が立ちはだかって目の前を塞いでいる。約束を結ぶなら、滅びは目と鼻の先なのだろう。  同時に思った。  メディラはモリトの未来で、モリトはメディラの過去なのだ。  同じ世界を夢見ていた。 「――続きを言って」  深い後悔が胸の内に押し寄せている。 「ラルラは魔王と何を約束したの?」 「約束は三本の神木に手を出さないことだった。パイロン王国、雪白木の森、そしてここ、ロストロの神木に」  ファズの名がない事に、モリトは心を暗く沈ませる。  もしもラルラが言った“他の神木”にファズが入っているならば、ファズは心底憎んでいる。 ――子を殺された親が怒るのは当然だ。 ――原種の彼らはボクらを食べて力をつけた。 「……ヘリガバーム教団の神木も賛同してるんだね」 「そうとも。全てはあれの助言から始まったのだ」  モリトは欲しかった物をもう一つ、諦めた。  きっと自分は最も残酷で無慈悲な存在になるのだろう。  猫背気味になった背中を慰めるようにダグラスはそっと、手を添えた。  その時。 「嘘だ」  星と月が一番綺麗に光る時間になっていた。  新手の足下にドサリと落ちたのはディアボラをいつも助けてくれていた従者。彼は血濡れた口元を歪ませて囁いている。誰も来ないか見張っていたはずだ。  なのに誰が?  答えはすぐにわかった。 「ディアボラ様、お逃げください。ディア、ぼらさ……」 「……ランダ、なぁんでこんな所にいんの?」 「それは、あんたが……裏切り者だったんスね」  三つ編みの少女はフードの下で恨めしそうに彼を見上げた。  「嘘つき」と青白い唇が呟く。