どれほどの思いを
カリオンがよいしょと出てきたのは、城の地下水路。 彼は匂いに顔を顰め口元に当てた布を引き下げた。 「臭い……。ここはハズレだったな」 べったりと体に付いた汚水に顔を顰める。 王城に侵入できる経路は三つ。上空と正面突破と、地下。カリオンが出てきた水路。 その中で王国騎士に知られず城内に忍び込めるのは地下水路。点在する入り口を、まずはしらみつぶしに潜って探すしか無い。いなくとも、形跡はあるはずだ。匂いが残っていればカリオンの鼻は逃がさない。 人手を割いて捜索すれば悪魔に知られてしまうし、地下は明かりの一つも無い。火を持てば空気が薄くなるだろうし、的になる。暗闇でも目が効くカリオンが一人で潜るのが得策だった。 しかし今日入った水路は下水で、汚水は匂いがきつく鼻が曲がりそうだ。地上にいる者が汚水の匂いをさせれば一般人だって気がつくだろう。つまり、悪魔が下水から城内に侵入した可能性は低い。が、横穴から綺麗な水が流れている場所に繋がる事もある。今日潜った場所は掘り返された様子もなく、生き物の気配もしなかった。 明日も城に通じる水路に潜って悪魔を探さなければならないと思うとうんざりする。 問題は他にもある。水路の存在が悪魔に知られれば王城の城壁は何の意味も持たないものだとわかるだろう。 本来、王城の高い壁は外敵を入れないためにできているが、この城は違う。 抜け道の一切がなく、隠し通路もない。そのように建国王が指示し、ただ壁を厚く、高く築き上げた。 ここは陸の孤島だ。 カリオンは顔を上げた。その先には深く茂った森があった。 ここは、檻だ。 中の者をけして外に出さないようにするための。 悪魔が大量に入り込めばどれほどの犠牲が出るか考えるのも億劫になる。 その、少し前。 モリトは薄目を開けた。 隣には誰もいない。 一緒に眠った少女がいないことを寂しく思いながら起き上がる。夜の空気は生暖かく、布のずれた音で起床に気付いた壁際の護衛が顔を動かす。 その中にハルの姿が無いのに気付けば「隣室で休まれています。呼びますか」護衛の言葉に首を振った。彼は少しの間でただの護衛と護衛者の関係ではない事を見抜いている。 ――――賢い人。 胸中で呟きながら履き物を爪先に引っかけると、そっとテラスへ出た。 夜の空気が室内の蒸し暑さを押し流し、森の香りを運んでくる。 そのまま足を進めれば「どちらへ?」護衛の言葉に「ついてこられるなら、一緒に来て。でもナイショだよ?」微笑みながら走り出した。 背後で驚愕する気配と共に、足音が。 ハルが起きなければいいけれど、と考えながら三階から飛び降りたモリトは芝生を突き抜け林へ入った。向かうのは林と森の境界線。ゼーローゼ達が住まう住居の入り口だ。 「そこにいるのは誰だ?」 松明が逆行になり、顔はよく見えない。 その男はモリトを確かめるように火をかざしながら近づいてくる。炎の光に目を細める少年の姿を見つけると、首をかしげた。 「坊や、どうしたんだ? こんな夜更けに一人でうろつ……え?」 安心させるよう目線を合わせた男は、松明を持つのと逆の手でモリトの頬を撫でた。 指先は固かったが、優しさを感じた。 「カリオン」 とモリトは言った。 「どうしてここに?」 とカリオンは首を左右に振って、信じられないと言うふうに目を潤ませた。そして周囲に誰もいないとわかるとモリトを見つめる。どこか懇願するように。 「ハルはやっぱり、俺と会うの嫌だって?」 「会いたくないって言ってるよ」 彼は意気消沈した。 「でも、気にしてた」 「本当っ!?」 復活した。 指先を合わせるようにもじもじした彼は、せわしなく尻尾を揺らしながら聞く。 「そ、その……。ハルは今どこにいるかな」 「会いに行くの? ダメだよ、また約束破るの?」 「う……」 それを言われたら弱い。でれでれしかかった顔を顰めたカリオンは、その場にどっかり座った。その横に体育座りすると、カリオンからヘドロのような悪臭がすることに気付いて、モリトは拳二つ分体を離す。 どこへ行っていたか聞けば、地下の水路を通って外へ行っていたと言う。 「これは秘密にできるか?」 「うん、ボクできるよ!」 「今、ここには悪魔が入り込んでいる。モリトがどうして王城にいるのかは知らないが、少し危ない。一人で出歩くな、とくに水場は危険だ」 「どうして?」 おそらく、と推測を交えながらカリオンはここ数日の捜索内容を語った。 「最近王城に悪魔が入ったんだ」 「ボク知ってるよ! 女の子が一人殺されたって」 「それは知らないぞ」 「じゃあ教えてあげる」 あのね、と聞いた話にカリオンは顔を顰めた。 「あの辺りは水路の入りはないぞ……今回はハズレかな?」 「水路って?」 「何百年も前からこの土地の地下には沢山の空洞があって、それを鉄で補強した物なんだけどな。で、それは国中の地下にある。もしかしたら、悪魔に水路の存在が知れて、侵入されたんじゃないかと考えてたんだが……こうなると、本当に擬態して人に紛れてるのかもしれない」 「そっか」 「王国騎士すら存在が分からない。ここはどこから悪魔が襲ってくるかわからないから、二人は早く離れるんだ。王城は危険だから」 「それはできないよ、ボク達は神木に会いに来たんだから。会うまではここを出て行けないんだ」 「神木に?」 「だからカリオンに会いに来たんだよ。今日は、夜に出かけたら良いことが起こると思ったんだけど、本当だった!」 「ああ。いつもの天啓みたいなものか?」 「そんな感じ」 緑色の目が、松明の炎で揺らめくように光っている。どこか怪しげな雰囲気を讃えた瞳に、柔らかくほころんだ口元が誘惑するように言葉を吐く。 「カリオンと別れてから、ボク達はこの国をぐるっと回ってたんだ。それで、いろいろなところに行って、見て、これから何をしようかって決めたんだ。そのためにここの神木に会いたい。会って、話をしなくちゃ」 そう言ったモリトの目は松明に注がれ、揺れる炎を見つめている。 何かに憑かれたような奇妙な眼差しだとカリオンは思った。それがどうしようもなく不安を煽る。 「……神木にヘリガバーム教団の使者が会いに来たと聞いた。……モリトは使いの者なのか? 前にあったときは、違ったのに」 「うん。でも、神木と本当にお話しするんだよ。枝を折ったりしないし、約束する」 「確かに俺はゼーローゼだけど、もうずいぶん村に帰ってない。勘当されてると思うんだが……とにかく、だめだ。その話とやらがどんな事か知らないけど、連れては行けない」 「ボクは正面から村に入れて貰いたいんだ。だから、連れてってほしいわけじゃない。ファルバって人を知ってる?」 「ああ、村の村長だ。会ったのか? 元気だったか?」 「うん、力が強かった」 そうか、とカリオンは嬉しそうに笑った。 「あの人はとても凄い人なんだ。村の大人達も皆信頼してる。……でも、俺は役に立てそうも無い。村にはもう何年も帰ってないんだ、だから皆にも会ってない」 知ってる、とモリトは言って続ける。 「カリオンに聞きたいのは、ゼーローゼの村がどうなってたかって事。神木はどうだったの? 元気だった?」 「――それは言えない。外の者には一切言ってはいけない決まりなんだ。騎士という職業に就いてからも、破ったことは無い。王の質問すら、俺は拒んだ」 だから絶対に言わないのだと言外に滲ませれば、モリトは「そっか……」諦めたような表情をした。 こんな表情をする子供だっただろうか。 昔、と言えるほどでも無い最近の記憶を掘り起こしながら考えるが、そんな事なかったはずだ。心配になって頬をすれば、モリトは手の平に顔を押しつけてくる。 「カリオン、ボクは……。ボクはね、ハルの嫌がる事をたくさんしたんだよ。嫌われたかもしれないし、これからもっと嫌われる事をするんだ。ハルはまた泣いちゃうかもしれないし困ると思う」 「じゃあ、やめたらいい。女の子は泣かせちゃダメだろう? 俺が言っても説得力無いけど」 「できないよ、ボクはもうじっとなんてしてられないんだ。それに、ボクのためにもそれをしなくちゃいけない。だって、そうじゃなきゃ、ボクはずっとハルと一緒にいたくなるし、そうしたら、ボク達はいつまでも変わらないままなんだ」 それが何を指しているのかカリオンは聞かなかったが、あまりにも悲痛な声でモリトが言うので聞かなかった。 「変わらなきゃダメなのか?」 うん、とモリトは頷く。 「嘘をついているわけじゃない。でも全部を話してるわけじゃない。ただ黙っているだけなのに凄く胸が苦しい。隠し事は辛いね」 「二人で話し合えないのか?」 できない、とモリトは首を振った。 「もうすぐパイロン王と謁見があるんだ。そこでボクはいろいろな話をするし、交渉する。そして神木に会いに行って、話をして……この国を出てく」 胸を突かれるような痛みをカリオンは覚えた。けれど「とうとう来たか」と覚悟もしていた。 二人が旅人なのは分かっていたことだし、いずれ出て行くだろうことも。 「今日ここに来たのは、お別れの挨拶をしなくちゃいけないと思って。ハルは誘っても来ないだろうし……。ボク達がここにいられるのは、ダグラスが言うにはね、引き延ばしても一週間くらいなんだって。謁見の時にゼーローゼがボクらを入れてくれるよう手を打てなきゃ、そこで諦めなきゃいけない」 今回は、と言う。 それが何を指しているか分からないが、幼い少年を駆り立てるほどの物なのは確かだ。 「カリオン、もしもハルと一緒にいる事ができたなら、今度こそハルを大事にしてくれる?」 それは玉遊びを求めるように、幼い言葉で聞いてくる。しかし込められた思いは疲れ果てて座り込んだ子供が、両手を伸ばして親を呼ぶような懇願だった。 それを見て、カリオンは先日感じた事を思い出した。というより、少し考えれば当たり前にわかることだ。 情けないな、と思いながらもモリトを撫で頷いた。 「もう遅いから部屋まで送っていく。夜は寝ないと身長が伸びないしな」