嫌だったわけじゃない

 旅は順調だと言えた。  酒場で見たことのある旅人に近況を聞かれたり、人攫いの根城に入ってしまい、全員を縦に裂いたりしたが、損害はない。  悪魔に比べれば短命種の首と胴を二つに分けるなど、ハルにとってその辺の草を引き裂くくらいに簡単なことだ。  やつれきったが肉体的にも精神的にも鍛えられたダグラスの日記には、驚きと世間への恐ろしさ、対処法が本当にそれでいいのかという疑問が何十ページにもわたって書かれたのだが、ハルはそんな事知らない。  王都について真っ先に公衆浴場に入り、三人は体を清めることにした。モリトはダグラスの面倒を見るために男湯へ入り、ハルは一人で女湯に入った。  モリトの背中にある紋章は短命種の目には見えない。神木が立っている地面に描かれた紋章も見えていないので刺青で難癖つけられて絡まれる事は無いだろうし、誰かに肌を見られたところで余計な詮索は受けないだろう。育ちの良さそうな人間が二人いたら絡んでくる人種もいるだろうが、風呂場で喧嘩は御法度だ。昔、風呂場で死闘を始めた連中が、次の日溺れて死んだため、絶対にやってはいけない暗黙の了解となった。  風呂屋の行き着く先は恐ろしい金の亡者達と社会の掃溜めである。  久しぶりに一人になり、ハルは小さな石鹸で体の垢を落とし、髪を注いだ。湯で流しただけなのにこびり付いた埃や泥が黒い滝となってこぼれ落ちる。桶はあっという間に黒くなり頭皮に染みこんだ湯が、ゆっくりと緊張をほぐしていく。 「あなた、お母さんと一緒に来たの?」  隣に座り込んできた女が言った。見上げると、肌の綺麗な女だった。垂れ目がちの目が値踏みするようにハルを見つめている。 「どこの子? 新入りかしら?」 「あなた風呂屋で働いてる人? だったら見当違い」  女は信じていない風に体を洗い始めた。  風呂で体を清めるのは風呂屋経由の風俗店が多い。マッサージから妖しいプレイまでいろいろやるので体が汚れるそうだ。そして経営者の意向で女達は月数回だけ無料で風呂を使える。そのため、浮いた金で石鹸や香油を買ったりする。  新米風俗嬢と誤解を受けたハルは、水面に映る自分の姿を見てげんなりした。銀髪と言うには鈍い色の髪は腰まであるため、女らしいと言えばそうなのかもしれないが、顔立ちは幼いくせにやたら鋭い。  幼い子供を好む男がこの世にはいるとわかっていても、その対象にされるのは御免被りたい。  嫌なことを思い出して首を振ると水滴が飛んだ。隣の風俗嬢は迷惑そうな顔をした。  髪をすすぎ、洗い終えたハルはその辺で拾ってきた棒きれで髪をまとめる。 「あら、今のどうやったの?」 「くくったの」 「見せてよ」  しつこい女は手を伸ばした。一瞬腕を折りそうになったが、ただの興味本位らしい。もう一度やってみせると女は手を叩いて喜んだ。 「ねぇ、けっきょくどこのお店なの? 変な店だったら私、あなたのことオーナーに言って引っ張ってあげてもいいわ」 「違うからいらない」  ふーん、と未だに信じていない目をして女は頷いた。  耳の裏から足の指までしっかり洗ったハルは、滝のように零れる湯のそばへ寄った。温泉を引いているため、常に新しい湯が流れるものの、入る人間が全員体を綺麗に洗うとは限らない。  肩まで浸かると、全てのいざこざを忘れられそうな気がした。白い肌が赤みを増していく。ピンク色になった膝を指先で突いた。その下の足首には銀行の鍵であるアンクレットが揺らめいている。  もしや、この装飾が女を誤解させた原因なのか。足に装飾をつける者はあまりいない。だからこそ隠すには最適だと思ったが、そもそも装飾品は高価なものだ。客からのプレゼントとでも思われたのだろう。  再びげんなりしたとき、隣の湯から悲鳴が上がったような気がした。  ハルは半眼になって振り向く。音は未だやまず、断続的に続いている。その中に知った声の悲鳴を聞きつけ、ますます人相を悪くしたハルを見ながら、女が話しかけてくる。 「あらやだ、何かしら?」  当然無視をして下を眺めた。つるりとした凹凸の無い体型。脱衣所には身を覆うくらいのタオルが有料で貸し出されている。  本来男湯に女が入ってはいけないが、子供はその範疇に入らないことを知っている。  女が隣に寄ってきたのを相図に、ハルは湯を出て脱衣所に向かった。  金を番台に渡し、タオルを一枚引っかけて男湯に向かう。内開きのドアを押し開けると、中で下着を脱ぎかけていた男共が、ぎょっとした顔で浴室を覗いていた。入りたくても入れない様子の男共を触らないようにすり抜け、ハルは盛大に顔を顰める。 「何してるの」  小さい声だが、男湯の中ではよく響いた。周囲の人間が振り返って、ハルが子供な事にいくらか残念そうな眼差しが注がれる。  騒ぎの中心にいた男共は慌ててハルの背後に隠れた。でへでへとだらしない顔をした酔っ払いは逃げていった獲物を視線で追う途中で、ハルを見つめて首をかしげた。 「なんだぁ坊主。ん? 坊主?」  芸者に絡む変態のように遊んでいた酔っ払いははてな、と顎に手を添える。子供など第二成長期にならなければ区別つかない事が多い。特に多種族だと。  虎の獣人は真っ裸だったが全身が毛皮で覆われていた。本来そういった獣人は風呂に入りたがらないが、その男は違うようだ。 「わたしの連れに何をしたの」  端的な言葉は威圧感があったが、虎男には通じないようだった。ほんのりと酒の匂いがすることから、かなり酔っているらしい。  後ろで怯えている二人は未だ泡まみれである。周囲を見ると端に避けてあった桶や椅子が乱雑に転がっている。物音の原因だろう。 「――まぁどっちでもいいか! 坊主も一緒に可愛がってほしいのか? んんっ! おじさんの剣は凄いぞ~」  もし帯刀していたら、男は真っ二つにされていただろう。不穏な空気を察して周囲の男共が壁際に逃げ出すのを見ながら皮肉に微笑む。  同時にひぃ! と怯えたダグラスは嫌悪にぞっと身を震わせた。 「あの人が突然絡んできてですね、その、掴まれたので驚いてしまったんです」 「ボクはお尻に剣を刺すって言われた。そんなの痛い!」  何を、どこをと明言は無いが、事情は十分に伝わった。け、と舌打ちしたハルは汚物を見るようにねめ付ける。周囲の何人かが身を震わせ、隣にいた男達は嫌悪感にそっと彼らを避けた。 「風呂屋は男娼買う所じゃないわ。短剣を突っ込みたいなら裏道へ行きなさい」  ぎょっとしたのは背後にいるダグラスだ。泡だらけの顔を驚愕に見開いている。おそらく、自分が男娼に間違われたことには気付いていなかったらしい。もしくは下品な物言いに驚いているのか。  両方だろう。  脳みそに言葉が伝達される速度が遅いらしい。首をかしげた酔っ払いが気付く前にハルは転がっていた桶を持ち上げると、男の下半身に向かって叩き付けた。  無防備だった男は一瞬何が起こったかわからず目を見開き、衝撃に息を詰め、顔を硬直させる。次いで駆け巡っていた心地よい酔いが覚め、下半身から駆け巡った激痛に内股になり、急所を押さえてうずくまる。高く上がった尻を容赦なく蹴倒して端に転がすと、不規則な動きで痙攣していた。泡も吹いている。  周囲の客は悲鳴を噛み殺し、殴られてもいない場所を押さえて後ずさった。まるで目が合ったら自分も同じようになると信じているかのように、顔をそらす。  ハルは振り返った。  周囲の客とまったく同じ動作をしていたダグラスの前で、モリトがびっくりした顔で男を見つめている。おそらくなぜそんなに痛がっているのかわからないのだろう。神木含め植物には短命種のような生殖活動を行わないため、精神体にも生殖器は無い。  無いなら無いで騒がれそうな物だが、短命種の中には子供の頃に生殖器を持たず、大人になってから性別が別れる種もいる。  いいこと、とハルはダグラスに向かって顎をしゃくってみせる。 「次に風呂屋で痴漢にあったらこうするの。やらないと新品じゃ無くなるわよ」  ひ、とダグラスは倒れ伏す虎男を一瞥し激しく頷いた。手に残った桶を元に戻したハルは周囲を一瞥し、早めに出た方がいいだろうとモリトを呼びつけ、ダグラスの毛皮を強引に洗い始めた。  どうもダグラスは猫科の獣人の中でも小柄な方で、女と間違われることがあるそうだ。男娼に向いている体型とも言える。神殿にいる間もときどきお誘いが来て、一時期は大変な目にあったらしい。  すっかり忘れていたと落ち込んだ様子で言うのを見て、ハルは半眼になった。普通なら一生忘れられないはずだ。 「……一人のときは公衆浴場は使わない方がいいわ。客引きと間違われるから」 「いるんですか?」 「本当はいけないらしいけど、たまに。わたしも今日は風俗嬢だと思われて引き抜きの話がきたのよ。最近、流行ってるのかしら?」 「大丈夫でしたか!?」 「なにもされてやしないわ」  風呂屋を出て、すっかり綺麗になった三人は、本日の宿を探しに歩いていた。到着した旨をしたためた手紙は既に出し、明日登城すると告げてある。 「どこかの店が争ってるのかもしれない」  それは裏路地の先にある掃溜め達の戦いだ。正義も大義もなく、金と欲のために命を削り合う。  店が潰され、従業員が逃げるか死ぬかしたか、商売敵を潰すために質のいいものを集めたいだけかもしれないが、どちらにしろ迷惑な話だ。 「わたし達みたいなのは狙われやすいから気をつけて。モリト、ダグラスと手を繋いであげて」 「もう繋いでるよ」 「いい子」  この中で一番危険なのがダグラスだ。モリトもハルもこういう場面にはなれているが、免疫の無い彼ではあっという間に借金を偽造され、トイチで金を貸し付けられるだろう。衣装代とかで。  高位神官はへにゃりと耳をへたらせて不甲斐ない自分を呪い、世の無常さと同性愛撲滅の先導を切ろうかと夢想した。 ★★★  パイロン王国の王城はロンドネルの領主家よりも、当然だが大きい。城門の真下から見上げても上が見えない。  城壁は白い石で出来ている。ここは同じだが、城壁に施された魔術は建国当初から城を守り続けている。  そして歴史もこんな城壁を必要とするような血塗られた物だった。  五百年以上前。当時ここにあった国の名は違った。すでに神木の回りでは悪魔が現れない事は知られており、建国王が安全な土地を求めて侵略したのである。豊かとは言いがたい土地ではあったものの、悪魔の恐怖に勝てなかったのだ。  建国王が侵略したのちに国の名を変えて作り直したのが現在のパイロン王国。  安全な土地を得た国王は国を平定し、神木を隠すようにこの城を建てたという。それを知っているせいか、王城からは血の臭いがするような気がした。  分厚い扉は牢獄の入り口のようだ。  正門の隣に取り付けてある来客用の門をくぐり、三人は中へ入った。  モリトとハルは旅装束を脱ぎ捨て、ヘリガバーム教団から支給された白い服に袖を通していた。ハルに至っては、それに狐の面を被り顔を隠している。髪で面の境目を隠したものの、風が吹けば一目瞭然だろう。何より顔の側頭部についている獣耳を見ればバレてしまう。  城壁の中では王国騎士が待っていた。青を基調とした制服に身を包んだ男が三人いる。彼らは敬礼をして三人の前に立った。 「お待ちしておりました」 「出迎え感謝致します。さっそく神木の元に伺っても?」 「それですが、少し問題があります。中でお話をさせていただきたい」  三人は王城の中へ招かれた。  短命種というのは多種多様な種族の総称として、獣と神木が使っている言葉である。彼らは彼らの分類で、言葉を話さない動物とそれ以外で分類した。それ以外の分類はとても多く、覚えきれないほどある。  例えば獣人、亜人、人間、原種、妖精族のくくりから兎人、魚人族という宗派のような曖昧な物で称される種族までいる。混血児達も細かく分類されるため、現在どれほどあるか見当もつかない。  その中で王族と呼ばれる者達は国を修める役目を持ち、国民達に敬われ大切に扱われている。しかし役目を放棄すればたちまち粛正される種族である――と、ハルは教えられた。神木達はそういう認識だが、少しずれているように感じる。  この世に存在する命に重さも軽さも無く、全てが平等。命は命。優劣などないと認識しているのが神木だ。逆に血統に価値を見いだし、規律を自ら作り出したのが短命種である。ボス猿もそうやって生まれたのだから、動物もそれ以外も全部で短命種と言い切る気持ちはわかる。  神木は自分で作った規律を何一つ持たない。全ては神によって創られ、神の規律をもっているからだ。これは獣にも当てはまる。  神の規律は何一つ歪まないが、短命種の規律は争いや話合いによって変化する。二つは大きな違いを持っている。神の規律は言うなれば単純で、短命種は複雑だ。  だからモリトが首をかしげても、ハルは陰謀の匂いを鋭い鼻でかぎ取れたのかもしれない。 「僕らが目通りを願ったのは、神木です。そのことは教皇自らお伝えしたと思いますが、なぜ神木の元に行くことを理由も告げず止めるのです」  かろうじて笑みに似たものを張り付け直したディザスは口元を引きつらせながら、もう一度、ゆっくり繰り返す。 「けしてヘリガバーム教団を蔑ろにしている訳ではありません。これは建国した際に交わされた約束の一つなのです。ですので、神木の元へお連れすることは叶わないのです」 「誰と誰が交わした約束なの?」 「内容は王家に許しがない者以外、知ることはできないのです。ただ、建国王はこれを遵守するように遺言でおっしゃった、とだけ申し上げます」 「こちらとしても猊下自らの希望なのです。このまま引き下がるわけには参りません」 「困りましたな。そう申されても当方ではどうすることもできませぬ」 「では、謁見の許可をお願いしたく思います」  わかっていたかのようにディザズは了承した。その後は王宮で生活するさいにつけられる使用人の紹介と部屋の案内に移った。 「ダグラス様はこちら。モリト様はそのお隣です。護衛の方は――」 「巫と同室でけっこうです」 「承りました。では、何かございましたら鈴を鳴らしてください。使用人が参ります」  ディザスがいなくなるとハルはダグラスを振り返った。 「あの人は、どういう立ち位置の人なんですか」 「王宮で客人に対しての繋ぎをされている方です。陛下への言付けも必ず果たしてくれるでしょう。……しかし、困ったことになりましたね」  三人は室内に入り、テーブルを見つめた。茶器の用意がされている。茶葉が見当たらずお湯のポットを見ると花が咲いていた。  ポットを包む布を取れば、お茶の中に華が咲いている。中国の工芸茶のようだ。ほう、と感心しながら継ぎ足せば、甘い香りが広がった。 「どうぞ」 「ありがとうございます。これからの事ですが、陛下は頑強な方と聞いています。どうにか説得し約束の内容を聞き出す方法を考えましょう」  約束がある、と言う事を公言しているからには、機密性は低いのかも知れないが。 「勝手に会いに行っちゃダメ?」 「約束の内容がわからない以上、やめた方がいいと思うわ。モリトは自分の仲間が訪ねて来てくれても、それで約束を破ることになったらどう思う?」 「やだ……」  しょんぼり頷いた。微笑ましそうにダグラスがそれを見て、慰めるように前髪をする。 「陛下にお許しを貰い一族の了承を得て、正面から会いに行きましょう」 「それだけど、どこまでダグラスは知っているの? 神木が話すこともそうだけど……」 「猊下からだいたいの事は聞きました。直接ファズ様のお声を聞いたわけではありませんが、となると王城の神木も意思の疎通が可能ですよね……」  会議のことはハルには極秘中の極秘である。これから推し進めるに当たって、最大限隠さなければならない相手は目の前の少女だ。そのことはダグラスも承知しているので、うかつな口は閉じるべきだろう。  誤魔化そうと思ったわけではないが、思考の海に入ってしまったダグラスを半眼で見つめたハルは立ち上がった。 「どこへ行くの?」 「少し周りを見てくるわ。二人はここにいて。……危険は無いと思うけど、何があるかわからないから」  そう言って出て行ってしまったハルを見て、モリトはほっと息を吐いた。  隠し事をする心は重く、取り繕うのは難しい。  椅子の上で足をぶらぶらさせていたモリトは、ふと外を見る。磨かれた曇りの少ないガラスの向う側。テラスから伸びる階段に手入れの行き届いた庭。  誘われるように近づいたモリトに、考え込むダグラスが気付かなかったのは仕方ないだろう。  カーテンをかき分けて外へ出た幼い冒険者は顔を輝かせた。