野良猫ノーラ

 歌が好きだ。  その気持ちと共に育った夢は歌手になることだった。当たり前だけど真剣な夢だった。けれど人前じゃどうしても緊張してしまってうまく歌えない。今日もオーディションで落とされて、もうだめなんじゃないかと人気のない寂れた神社に逃げ込んだ。  惨めだった。悲しかった。  両親はそんなわたしの夢に大反対で、一言目には「現実を見なさい」、二言目には「お前にできるはずがない」と否定する。  悔しくて情けない思いを込めて、私は声を張り上げた。  そんなときだった、 『嫌気のさす歌い方だな。だが、悪くない』  目の前に現れた金色の光はクルクルと私の周りを回ってから「ふ~む」と言った。 『よし決めた。最後の余興に三日間、お前の体を借り受ける! よろしく宿主よ、ワタシはノーラ』  そう言って光は――ノーラは私の体を乗っ取った。 ★★★  ノーラは自由奔放だった。  私の声で、体で動き回る。私の自由はきかず、唯一許されたのは考えることと、ノーラと同じ視点で物を見ることだけだった。  何とか説き伏せて行かせた学校も、数十分で教室を抜け出す始末。教師の怒った顔を思い出すだけで私の心臓は口から飛び出しそうになった。  人の気なんて知らずに学校の屋上でのびのびと惰眠をむさぼっていたノーラは、一つあくびをして空を見た。行動は全く野良猫みたいな奴だ。 「宿主よ、風はこんなにも心地よい物だったのだな」 『そんなこと言ってないで、私の体返してよ!』  叫んでもどこ吹く風。ノーラは立ち上がってくあっともう一度あくび。 「おや、花の香りがする。もうすぐ桜が咲くのだな。世界がキラキラと輝くぞ」 『ノーラ!』 「いいではないか。蕾ははち切れんばかりにふくらんで、あと三日もすれば満開になるだろう。そうだ、その前に海に行こう!」 『はぁ!?』  ノーラは駆けた。有言実行とはこのことだ。  コンクリートでできた大きなジャングルの中で、ときどき声を掛けてくる者があったが、全てに手を振って通り抜けた。私はヒヤヒヤ。辺りは夕闇をも呑み込んで暗い闇が口を開けていた。  こんな時間に家を抜け出したことはなかったし今夜は――――いや明日もノーラは家に帰らないのだろう。これじゃ家出だ。警察に通報されたらどうしようと、私は内心慌てていた。こんな不良少女、私じゃない。  私はもっとまじめで、大人しくて―――― 「お前の親が言うように「夢」意外はイイコか? あ~ぁ、なんてつまんない人間だろう! お前の人生なのに、お前の全てが親中心か? なさけない……。己の道すら自分で決められないのなら、夢など見るのは止めてしまえよ」 『あなたに私の気持ちなんてわかんないわよ』  吐き捨てるように言った。  諦められないからこんなにも苦しいのに。  ノーラがほんの少し笑った気がした。  随分と走った後、人気のない獣道に転がったノーラは、荒い息を吐いて呟いた。 「あそこは息が詰まるな。なぁ、宿主よ」  あそことはどこなのかわからない。だが、ふと浮かんだのは両親の顔だった。  町の光が届かない夜の星が、いつもよりも大きく見えた。  一眠りした後、北へ行こう。そこから塩の香りがするからと、泥だらけの靴で目指す。  その時、がさりと音がして、微かなうめき声と泣き声がした。ノーラと私は疑問に思って声のした方向へ進む。進むのは、ノーラだけど。 「お前、ここで何をしているんだ?」  大きな穴の中に落ちていた少年はノーラを見上げて「たすけてっ!」と叫んだ。曰く、近所の悪戯小僧に落とされて、そのままなのだという。  青白い少年はひ弱そうで、確かに、いじめられっ子という言葉が似合う。でも、だからといってこれはやりすぎだ。  けしからんな。そう呟いたノーラは少年を引き上げて、涙でぐちゃぐちゃな頬を拭った。 「もう泣くな、お前の家まで送ってやる」  だが、少年はなかなか泣きやまず、家の住所さえ満足に言えない。困り果てたノーラは少年の手を優しく撫でて、息を吸った。  私の声で、唇でノーラが歌う。高く、時に低く轟くように。  大気が震え、木々さえも聞き入っている。朝の静けさが、耳を澄ませて酔いしれる。  なんで、どうして。同じ体なのに、どうして音が違うのだろう。 「姉ちゃん、歌うまいのな」  驚いて涙の止まった少年はそう言ってぱっと笑った。ノーラも笑いかえす。 「ああ、だが今のはワタシの歌ではないのだよ。もっとうまく歌う人間がいるのだ」 「へー」  少年を送り届けると、徹夜で探していたご両親は涙ながらにお礼を言って、彼を穴に落とした張本人達は親や捜索に当たっていた他の大人にこっぴどく叱られ泣いた。  ノーラはそっと人の輪から抜け出して北へ向かった。  潮の香りは濃かった。  宣言した三日間。  ノーラはよく遊び、よく笑った。食べ物は持ってきたお小遣いでほんの少し。寝る場所は海の周辺の、少しとぼけたようなお婆ちゃんが部屋を貸してくれた。お婆ちゃんはノーラがどこから来たのか、家出かどうか聞いてきたが、ノーラは何も言わずに二日後に帰ると約束した。 「宿主よ、世界は広いなぁ。思うだけでどこへでも行ける。ここは、いい時代だなぁ」  ノーラが私の体を乗っ取って二日以上が経っていた。  このときになると、ノーラの気持ちが私にも分かるようになっていた。  ノーラはノーラになる前に、生きていた。深い緑と土が薫る大きな森に。だが、海に行った事はなく、人から聞く話にあこがれた。ある時、海を見ようと山を出て死に、狐の祠に招かれた。  そう、ノーラは狐の神様だ。古い古い、まだ人が夜に灯りを持たない時代に生きていた。 「なぁ宿主よ。ワタシも歌は好きだった。ワタシが死んで神となったとき、初めての供物は海の物だった。潮の香りがしたよ。広大な空の景色が見えた。人とは不思議だ、言葉だけで、物だけで、こんなにも広いものをワタシに伝えるのだ」  一方的な独り言。  ノーラは歌う。私の声で、目を細めながら何時か歌った海の唄。  喜びの中に確かな悲しみを感じ取って、私は共有していた視界から、目をつむった。  瞼を開け、入ってきた海の景色に瞬いた。  何かが、おかしい。 「ノーラ?」  私の口から、私の声が出る。  ノーラはいなくなっていた。  私は立ち上がると、来た道を戻り始めた。  帰るとそこは大騒ぎだった。警察に届け出が出て、大捜索が始まっていたのだ。見つかれば時間をとられてしまうから、私は探し回る両親よりも先に神社に向かった。  人の滅多に通らない神社の奥に、小さな祠がある。ノーラはきっとそこにいるのだろう。けれど階段を上がった先に赤い鳥居はなかった。  大きな鉄の手が地面を浚い、赤い鳥居をたたき壊していた。排気ガスの臭いを巻き上げながら、地面を平らにならしていく文明の利器達に私は呆然とした。  足下に、石のかけらが落ちていた。狐と分かる彫刻が、かろうじて残っていた。けれどそれも今にも崩れそうで、私はしゃがみ込んで、そっと両手で包み込んだ。 「……ノーラ」  唯一残った狐の右目に入っていた、赤い石が光りに反射した。生き物のようなきらめきになぜか涙がこぼれた。 『ここに別の建物が建つのだそうだ。……長い時を生き、人はワタシをまつった。けれど時が過ぎればやがて廃れいった。長い間を眠って過ごしたよ。ここにはだぁれも来なかったからね。ワタシの役目はとうに終わり、名前ももうわからない。今のワタシはよりどころのないただの野良。野良猫と一緒さ。だが自由になった』  どこからともなく声が響いた。  ノーラ。  ノーラの声だった。 「どこにいるの、ねえ!」  ノーラは聞こえていないのか答えない。 『ずっとここで空を眺める毎日は実にのんびりとしていたよ。だが、たびたび来る女の子がいてなぁ、これまた憂鬱な歌を歌うのだ。だから教えてやったのさ、世界は広いぞ。どこまでも広がっている。そんなこもった声を出すな。――なぁ宿主よ、見えた世界は綺麗だったか?』  ノーラの目から通した世界は確かに綺麗だった。 『涙するほどに歌いたいと願うなら、なぁ、歌えばいいじゃないか。お前の一番駄目な所は、緊張してしまう所じゃないぞ。お前の迷う心がいけない。お前の本当の歌が綺麗なのだと、ワタシはとうに知っている』  目を開けて、息を吸え。  微笑みを口元に、心には美しきその世界を。  石が崩れた。赤い瞳がパキリと割れる。  ノーラ。  ノーラの記憶が私に伝わってくる。  どこにも行けずに退屈な日々。  突然響いた声に、ノーラは数百年ぶりに耳を澄ませた。  何も知らず、暖かいものにくるまれた人間だけが歌える幸せな歌。  旋律一つでノーラの心は捕まれた。  最後の時を書けるほど、その声は無垢だった。  両親が私を見つけたのはそのすぐ後だった。  頬を張られて泣きながら抱きしめられながら、私はやらなくてはと思った。  目を開けて、息を吸う。  微笑みを口元に、手には壊れた狐の顔が一つ。  驚いた両親の顔に向かって言った。 「どうしても、これがやりたいの」  むちゃくちゃで孤独な狐の神様。  でも、どこまでも自由な神様。  私には足がある。どこへでも行けると教えてくれた神様。