魔物と砦

 これは昔から語り継がれる物語の、その歴史の一つの話。  或る国に、砦が六つあった。  そのうちの「三の砦」と呼ばれる砦の向こうには広大な森があった。深く、豊かで豊富な資源を有した土地は、痩せた大地に根を下ろした人の羨望だったが、そこに住まうは異形の者達。魔と呼ばれる力を持った彼らは魔物と呼ばれ人に恐れられる存在だった。魔物もまた人を意識し敵対の意思を見せ、争いが絶えることはなかった。  三の砦の争いは、何世紀も終わることなく続いていた。  そんな人と魔物の大地を巡る戦いのさなか、一度だけ三の砦が崩壊しようとしたときがあった。魔の王が大群を率いて侵略を開始したのだ。今からたった二年前のことである。  砦の半分が崩壊し、魔物たちが黒い濁流のように雪崩れ込んだ。多くの命がその濁流にのまれ散っていった。人の大地は恐怖と涙に濡れ、多くの者の心に絶望が深く根を張った。切り捨てた屍に人も魔物も混ざり合い、どす黒く染まった大地に、希望のひとかけらさえないように思えた。  詩人や学者は絶望を謳い、気が狂わんばかりの血の中、歴史に名を残すほどの戦に終止符を打ったのは一人の若き騎士だった。  元は農民の出だという騎士は黒い大地を駆けた。  魔物をことごとく退け、崩壊しつつあった砦に片足をつきながら右に左に薙いでいく。さながら手負いの虎のように瞳だけをギラギラとさせていた。  そして、とうとう魔の王の首を突き刺したとき、役目を終えたかのように剣はぽきりと、その腹の真ん中で折れた。  王を失った魔物たちは乱れ、たちまち首を落とされた。  砦は崩壊寸前で持ち直した。  国は守られ平和が訪れる。  だが、その話には裏があった。  英雄と称され今もなお三の砦を守る騎士はため息をついた。その膝にはぐーすかと眠りこける娘が転がっている。年の頃は十七になろうかと言う花盛りの乙女にもかかわらず、娘はこの男臭い場所で騎士の膝に慎み無く転がっていた。  この娘は一ヶ月ほど行方をくらまし、つい先ほど帰ってきて何やら言ってぱたりと倒れた。慌てた騎士は医者の元へ娘を担ぎ込んだが、なんとただ眠っているだけなのだそうだ。呆れて連れ帰ったところ、いつの間にか服の裾を掴んで離さない。そのため体勢を変えて娘を寝かせたのが今の状況だ。 「君の小鳥が帰ってきたって?」 「オレのじゃない」  部屋に無断で入ってきた山吹色の髪の騎士は言って、すやすやと眠りこける娘に目をやった。 「まったく、何で君に懐いているのか。……不思議だ」 「オレの方が不思議だ」  お世辞にも騎士は見目がいいと言えず、どちらかというと凶悪な熊のような大男だ。若い娘が嫌厭する最たる容姿である。  男がため息をついたとき娘がううっと唸って目を開けた。 「起きたか」 「お腹がすいた」  目元を擦って主張した瞬間、ちょうどよく鳴った腹を押さえた娘は顔をしかめた。それにはやれやれとため息をつくしかない。  だが次の言葉を聞いて二人は動きを止めた。 「アーネが死んだんだの。わたしは助けられなかった」  アーネというのは娘が養うべき家族の一人だった。娘はスラム街に住み着いて子どもの面倒を見ながら生きる変わり者だった。  腹の具合と大切な家族の死をさらりと告げた娘の目には隠しきれない悲しみの色が宿っている。だが、それはよくあることだったため、多くの慰めよりも男は「だから、花の臭いがしたのか」と言うだけに留まった。  そうだ、と悲しく漏らした娘は立ち上がった。 「死にたくないと言ったの」  それは、助けられなかったというアーネの遺言だろうか。 「最初はお腹が痛いと言っていただけだったんだよ。そのうちご飯が食べられなくなって、どんどん痩せていった。薬も効かなかった。ただ弱って、最後は骨と皮しか残らなかった。とても軽かったわ」  広げた両手は最期の瞬間そのもので痛々しく目をつむる娘の唇が震えた。 「南で噂を聞いたの。心の痛みを無くす薬があるって。調べてみると確かにあったの。高額で売られていたわ」 「それは……」 「アーネも飲んでた。わたしに内緒で飲んでたの」  魔物との戦争からわずかしか経っていない。人々の心の傷は深く多くの者が痛みに耐えている。そこにつけ込んだ者達が金を巻き上げ、あざ笑うように命を奪う。  瞳に涙を讃えた娘はきつく歯を食いしばった。そして騎士達に問いかけた。 「誰かが言ったのよ。魔物さえいなくなればこの国は救われるって。この国は救われたのに、なんでまだ子どもが死ぬの。魔の王は死んだのに、どうして今度は人が人をなぶって殺すの」  英雄が魔の王を倒したとあるがそれは間違いだ。魔の王の首を狩ったのは他ならぬこの娘だった。  これは誰も信じなかった真実で、功績は全て騎士の物となった。唯一山吹色の髪の騎士だけが信じるだけ。 「これじゃ魔の王の言った通りじゃない。”この未開の地に人を踏み込ませるわけにはゆかぬ。人の欲に果てはなく全てを食いつぶして肥大する。その前に潰さなければ星が死ぬのだ”って」  そう言って果てたとき魔の王は静かに目をつむった。まるで星の未来に絶望を見たかのように。  そして今、魔の王が守りたかった土地には開発の手が進んでいる。多くの犠牲を払って手に入れた土地は豊かな富をもたらした。 「希望の次には願いを口にして、その次には欲望が顔を出すの。金に埋もれたら次はどうなるのかな。あれが欲しい、これが欲しいと手を伸ばして全てを、やっぱり人は食いつぶすの?」  騎士は唐突に悟った。なぜ己の元にこの娘が来るのかを。 「そうかお前は人が恐ろしかったのか。お前は心に住み着く魔を誰よりもよく知っているから。だから英雄と讃えられたオレが、どのようになったかを確かめなければいられなかった。栄光を手にした者が果たしてどうなるかお前は怖くて仕方がなかったのか」  震えは肯定だった。騎士はたたみかけるように呟いた。 「お前は心に住み着く魔を誰よりもよく知っている。……オレもお前が恐ろしい。オレにとって戦場のお前はまさに死に神だった」 「やめて」  娘は耳に手を押し付けたが、強引に引きはがされた。 「血に濡れた大地を舞う姿は恐怖そのものだった。目に入れた瞬間に死が訪れている。敵も味方もお前を恐れ、目をつぶり、悲鳴を上げて逃げ出した。それはなぜか――――簡単だ。誰しも死から目を逸らしたがる。いつも傍らにあるのを恐れ遠ざけようとするからだ。だからお前の姿を誰も覚えていられない」 「やめて!」  泣き出した娘を引き寄せて、騎士はだが、と囁くように続けた。 「お前はアーネを殺した者達とは違う。あの子はお前が殺したのではない」 「でも、死んでしまった!」  かつて、栄光を誇り武を極めた国があった。  何よりも強靱な精神を。  誰よりも哮る信念を。  幼少より文より武をとその精神をと子どもたちに教えとき最強を目指したその国はしかし、戦争を繰り返すうちに散らした命の数を競いあい、奪った戦利品は人々の目を濁らせた。いつしか武は見せ物に、戦争は金を得るための物となっていった。何かが狂い始め、謀略が憚りなく飛び火し内乱が勃発する。  友は敵となり家族は逝ってしまった。 「わたしはまた守れない。奪ったのに守れなかった! じゃあなんのために殺したの……!」 「生き残るために。仕方ないことだった」 「ちがう! 内戦も紛争も魔物と人の争いも大儀があっても殺意が無くても、もたらされる死に変わりなんてなかった! お金も優しさもそう。変わりなんてない。でも、そこに欲が加われば、たちまち全てが覆る」  全てを失い、娘は身一つで国から逃げだした。放浪の末この国にたどり着き、家族を見つけた。行き場のない、血のつながりのない、いびつな家族。  大切にした。  全力で守ってきた。  でも、また逝ってしまった。 「どうしてこんな事になるの。なんで、アーネは死んじゃったの―――人の心が分からない。そこにはもっと大きな魔物が住んでいて、わたし達を食いつぶす。真の魔物とは、わたし達のことだわ」  男はまた多くの慰めよりも「そうか」と言うだけに留まった。横で山吹色の髪の騎士が呆れたような顔をしていたが、それ以上言う気にならない。  人はそう言う生き物だと、騎士もまた思っていたからだ。  信じるべき事柄の分からなくなった娘は、途方に暮れた子どものようで、騎士は一粒の種を取り出した。 「責を果たそう」  もう一度責を果たそうと言って、娘の手に小さな種を握らせた。 「この長きに渡る戦の中で、死んだ者達全てに手向けの花を。何が良くて何が悪いかを決めるのは後でいい。いや――」  血の染み渡った大地に草木は悲鳴を上げ、今は一本の緑さえない。そこで植物を育てるなど、容易なことではない。  山吹色の髪の騎士を振り返って、騎士は小さく頷いた。そっと姿を消して、彼の者の足は南に向かう。娘はそれを肌で感じていたが、手の中の小さな粒に視線が釘付けになっていた。すがるように、それを握りしめる。 「決めるのはオレたちではない。オレたちでは決められない」  では、誰が決めるのかと娘は問いかけた。  騎士は答えた。 「後の世の、子どもたちが―――」  とある史実の中に、南の地で悪魔の所業を行っていた一派が捕まったと記されている。人の心につけ込み、薬や人の臓腑に至るまでを売り買いしていたそれらを捕らえたのは、一軍を率いた山吹色の髪の騎士だった。  その事件のすぐ後、娘は姿を消した。三の砦の英雄も探せど姿は見つからず、いつの間にか歴史の影に消えていった。  死す間際まで騎士であり続けた彼の英雄の友が言うには、騎士は本来の責を果たしに帰ったのだと、野菜をぱりぽりかじりながら語ったそうだ。  百年の時を経て、三の砦の荒野の大地に春の花が咲いたという小さな記録が紙面に載った。それを始めに荒野の大地は再び息を吹き返す。  その地は長い年月を経て百花繚乱の花園として人々に知れ渡る。  多くの森を開発で汚した人々は、その花々に心を奪われ保護活動を叫ぶ声が上がり出した。