こんにちは、小さいあなた

 正直に言えば、初めてあったときのことはよく覚えていない。  ちょっと前に摘んできたブドウを消費して、腹痛を起こしていたせいかもしれない。それから、とても暑い日で窓を開ければ蜃気楼のように世界が歪んで見えた。それもあるだろう。  ボクはぐったりしながら畳の上に寝転んで、そして小さな声を聞いたのだ。  声は今にも途切れそうな、か弱い声だった。目を瞑っていたボクは、したたり落ちる汗が畳にしみこむのを横目で見ながら、その声をずっと聞いていた。半分は夢だと思っていたし、半分は外から聞こえてくる声だと思っていたからだ。  声はこう話していた。 「|伊月《いつき》殿、いったいどこへ行ってしまわれたのですか。私達を助けてくれるのは、あなた様ただ一人だけだったのに。これでは全てが何の意味もなく終わってしまう。伊月殿、伊月殿。どこへ行ってしまわれたのですか  伊月はボクのじいちゃんと同じ名前だった。じいちゃんは去年、亡くなった。その声を聞いていると、そのことを思い出して少しだけ寂しくなったのを覚えている。 「伊月殿、伊月殿。どこへ行ってしまわれたのですか。虫は大地を覆い、私達は意味もなく食いつぶされ、荒らされています。伊月殿、伊月殿。虫を追い払う術を、伊月殿……」  ふと、その声がとても近いことに気づいた。  腹痛とむしむしした陽気にやられてぼんやりとしていたボクは目を開けて”彼”を見た。と言っても普段から眼鏡をかけるような人間だったから、ボクはそれが小さな人のような形をして、茶色くて顔を押さえて泣いているとしかわからなかった。それから、声は男の子の物だったから、便宜上、彼と呼ぶことにする。 「なに?」 「伊月殿っ!? ああ、違う。伊月殿ではない  悲嘆に暮れた声に可哀想になったボクはいつの間にか問いかけていた。 「ねぇ、さっきから何なの? 泣いてるし、どうしたの?」 「まさか、|私《わたくし》が見えるのですか!! ああ、僥倖です!」 「うぅ……静かにしてよ」 「……具合が悪いのですか?」 「ちょっとお腹が痛いんだ。しかも君の声がうるさくて眠れない。ねぇ、泣いてるけど、どうかしたの?  戸惑った様子だった彼はふと、願うように手を合わせてボクを見上げた。 「毎年この時期になると私達の故郷を虫の国が襲ってくるのです。奴らは同胞や家をかじり、街を破壊していきます。応戦するのですが数が多く、私達は戦闘能力が優れているわけでもありません。今までは伊月殿がくれた特別な武器を使い撃退できたのですが、何年も前に伊月殿がいなくなってしまい……。街は既に半壊で、同胞は散り散りになってしまいました  そして、彼はこう続ける。 「あなたは伊月殿と同じ種族ではありませんか? その姿や形はそっくりです。伊月と言う者のことを知りませんか?」 「うーん、ボクの回りに伊月って人間はいないよ。でも、武器には覚えがあるような……ないような」 「な、なんですと!! 教えてください、それはどこに行けば手に入るのですか!!  まじまじと彼を見つめながらボクは首を振った。 「君じゃ持てないよ。だってそれ、君の二倍くらい大きいし、重たいよ」 「私達は力持ちです。あなたくらいの大きさの物なら持ち上げられますが、それでも無理でしょうか」 「え、本当? なら大丈夫かな。ちょっとお母さんに聞いてくるから待ってて」 「お母さん……母君の持ち物なのですね」 「うん? ちょっと違うけど、使い捨てだから  そう言って、這いつくばりながらキッチンの母に腹痛用の薬と一緒にもらったそれを彼に渡した。 「いい? これはミントの匂いがするけど食べ物じゃないから、絶対に食べちゃ駄目だよ」 「はい!」 「それから、小さい子が食べちゃわないように、手の届かないところに置いてね」 「はい!」 「ええっと。もし食べちゃったら、すぐに病院に行ってね。触ったらよく手を洗って」 「はい!」 「それから、それから……。あ、効果は一ヶ月で、使い終わったら燃えるゴミに出してください、だって」 「はい!」 「効果はだいたいこの部屋くらいだけど、一個で足りる?」 「できれば、あと七つほどいただきたいのですが」 「うーんそんなに無いかも。おかーさーん!  母にもう一つ無いか這いつくばりながら聞きに行き、めんどくさいからと買い置きの場所を教えられたボクは、その他にあった道具を一緒に持ち出した。 「えっと……。組み立て方わかる?」 「なんとか!」 「これでたりる?」 「本当に、本当にありがとうございました! さっそく国に帰って皆にわたしてきます!! お礼は後日、かならず!  大げさなほど喜んだ彼はそのまますぐに帰って行った。やっと静かになったボクは畳の上で丸くなった。  すぐに眠くなった。  再び彼に会うことになったのは一年後だった。  同じように腹痛を起こしていたボクは、畳の上でぶるぶる震えていた。今度はブドウではない。母に毒を盛られ――正確には昨日の残りの味噌汁を飲んだら豆腐が腐っていただけの話だが――たのだ。寝ぼけて味がわからなかったボクは一気飲みした後に、兄ちゃんが「かあちゃん、これすっぱいよ!」と言うのに豆腐が腐っていたことに気づいた。  案の定、腹痛を起こしたボクはしゅんとした母に薬をもらって眠っている。トイレにはもう行った。もう何も出ない。むしろ出したくない。 「以前はありがとうございました! いただいた物をお返しに上がりました。それからお礼を……具合が悪いのですか?」 「うん、お腹が痛いんだ。もう家は大丈夫になったの?」 「ええ! いただいた物を使い始めたら、すぐに虫が逃げていきました。街を取り返すこともでき、復興も進んでいます。散り散りになった仲間も戻ってきました!  ですが、と彼はしょんぼりした。 「虫達が攻めてくる時期がやって来ました。皆、怯えています。今一度、武器を授けていただけませんか!  そう言って差し出されたお菓子の山を見ながら収納棚へ這いつくばった。  同じ物をあげて、同じように注意事項を読んであげれば、彼はまた大げさなくらい喜んで帰って行った。 「あら? ここにあった虫除けは?」 「お母さん、もう洗い物終わったの? さっき、これと交換してほしいって言うからあげた。おいしいよ!」 「あら、このクッキー! 懐かしいわ、お爺ちゃんの友達が来たのかしら?  縁側を見て、母はきょろきょろと辺りを見回した。でも、そこにはもう誰もいない。 「じいちゃんの?」 「ええ、近くに虫除けの道具が売ってないみたいで困ってるって言ってたわ。一回も見たこと無いんだけどね。また来るようになったなら、多めに買っといてあげましょ。それよりお腹治った?  ちなみに家は辺境の地にあるので買い物すら一苦労だ。なので、ご近所で足りない物を補いあうのは、よくあることだった。 「うん。あのね、お母さん。今度はちゃんと冷蔵庫にしまっておいてね」 「ご、ごめんね。今度は気をつけるからね  母はまたしゅんとした。  ボクが十一歳の夏の出来事である。  しかし、うっかり屋の母は、その後、カボチャの煮付け、茄子の野菜炒めなどを順調に腐らせ、毎年ボクを苦しめるようになった。  そう言えば、と思う。  彼は数年前から”伊月殿”がいなくなったと言っていた。それは、祖母が死んだ時期と重なる。祖母もよく物を腐らせ、祖父が被害にあっていた。  祖父の友達とわかって、ボクはどうりで変な人だったと子どもながらに納得した。彼の目はチョコレートのように黒くつぶらで、クッキー生地のような体に飴のように光沢がある緑色の服を着ていたのだ。  祖父は彼をお菓子の人と言っていた。そして、お菓子の人の話を祖父の膝の上でよく聞かされていたボクは、もし、彼を見つける事があったら優しくしてあげなさいと頭をなでられながら言われていたのだ。  だから大きくなった今も、彼が”普通ではない”とわかっていながら助ける事にしている。そして祖父の友達がどんな姿をしているのか、けして誰にも言わなかった。  彼らは一年に一度、ボクが腹痛で這いつくばっている時にやって来た。たくさんのおいしいお菓子と、ちょっとの面倒事を持って。  多くは虫たちに悩まされているようだったけれど、ときどき小人を伴ってくるときがあった。  小さな小人達はボクを巨人の人と呼びながら元気のなくなった土地をどうにかしてほしいと言ってくる。小人の国は寒い冬が長く、春にたくさん作物を作らなければ冬が越せない。最近は土地が痩せて、収穫が落ちてしまっているのだ。お菓子の国でも心配して、たくさんお菓子を送っているが小人はお菓子だけでは生きていけない。  そんな風に交流を続けボクは大人になった。幼なじみと結婚して子どもが生まれ成長し、孫ができた。その頃には、物を腐らせるのは母から妻の恒例行事へと変化していた。  お爺ちゃんになったボクは先に逝ってしまった妻を思いながら、孫を膝に乗せて頭をなでている。彼らには、もう二年あっていない。 「もし、お前が小さい人達に会ったら、優しくしてあげなさい。小さい人達はとても弱いから、お前が優しくしてあげないと、すぐに死んでしまうんだ。だから、どんなに辛くても、優しく話を聞いてあげなさい  小さなつむじを見つめながら、何度も、何度も同じ話を繰り返した。ボクの腹にべったりとくっつきながらうとうとしている孫娘は「うーん」と間延びした返事を返す。  さて、この子はちゃんとやってくれるだろうか。やってくれるだろう。自分がそうだったように。 ★★★  お菓子の国の妖精は、ずっと巨人の人に助けてもらいながら暮らしていた。巨人の家は妖精の家よりも大きくて、彼らが動けば妖精などあっという間に飛んでいってしまう。けれど彼らは優しくて、いつも攻めてくる虫の国の兵士達を撃退する武器を貸してくれるのだ。形はいろいろあるが、いつも丁寧に使い方を教えてくれるし、親切だ。  最近はそれを聞きつけた小人の国が、痩せた土地をどうにかできないか相談したいと言ってきたので、一緒に会いに行ってみた。  とても大きくて怖がっていたけど、土地を元気にする方法を教えてもらって喜んでいた。お礼の品物が用意できないことに困っていたから、余分にお菓子を焼くことにした。そのかわり、虫の国が攻めてきたら一緒に戦ってくれる事になった。  でも、気がかりなことがある。巨人の人は会いに行くといつもお腹が痛いと言っていたのだ。伊月殿も、お腹が痛いといつも苦しそうにしていた。妖精の国ではお腹が丈夫になるような物をお礼のお菓子に混ぜているのだが、全然効いてないみたいだ。  伊月殿みたいに、突然いなくなってしまわないだろうか?  そう聞けば、その時は時間がかかるけど助けはまたくるよ、と朗らかに笑われる。その笑顔も優しくて、安心していいはずなのに何だか怖くなった。  そして、予感が当たって何年も会えない日々が続いた。  でも、巨人の人が言ったことは本当だった。虫の国が攻めてきて小人の国とお菓子の国ではいい加減、手に負えなくなってきたとき、その子を見つけた。  そうしてお菓子の国の私は始めて知った。伊月殿も、その孫だった充殿も私達のように長くは生きられないのだと。  お腹を抱えるこの子は言う。 「おじいちゃんがね、ちっちゃいひとにあったらやさしくしてねっていってたの。ねえ、どうしてないてるの?  私はワンワン泣いた。知らなかった。彼らが死んでいたことなんて知らなかった。なのに、急にいなくなったことに、恨み言さえ言っていたのだ。  私は恥ずかしかった。お別れの挨拶もできなかった。もっとお礼もしたかった。いつか、お菓子の国に来てほしかった。  小さな巨人の人は困ったように言う。 「ねえ、どうしたの? いたいの? どこかいたい?」 「あなたは、何歳ですか?」 「えっとね、もうすぐななさいになります。もじもね、おじいちゃんがおしえてくれたからよめるよ。あのね……おじいちゃんがね、ちいさいひとがきたらこれをわたして、ちゅういがきをよんであげなさいっていってたの  お腹をさする小さな巨人の人を見上げながら、涙をぬぐった。  そして私は武器をもらう。彼らの優しさがつまった大切な物を。