毒姫

 昔々、その娘は道ばたで、ひからびている蜘蛛を見つけた。ひっくり返って埃だらけで、ひくひくと震えて今にも死にそうだった。かわいそうに思った娘は、その蜘蛛を日陰まで持って行き、水をかけてやった。するとどうだろう。蜘蛛は魔女になり、魔女は水をくれたお礼に、娘を―― ★★★  ある王国に笑わぬ王がいた。何にも執着しない、淡々とした王だった。ただ凍るようなその冷たい瞳と、人形めいた容姿で、向かい合う者全てに畏怖を抱かせる王だった。そのため城に住む者たちはいつも王の顔色をうかがっていた。笑みすら浮かべることが罪だとでも言いたげに、暗い顔をしていた。  だから城はどんな寂しい場所よりも寂しくて、どこよりも恐ろしい場所だった。城の白い壁に囲まれた、何を考えているかわからない王に好んで近づく者はいつも王の後に付き従う魔法使いだけだった。  魔法使いは王とは違った。魔法使いはいつも優しげな笑みを浮かべていた。王の後ろの付き従いながら、いつも楽しそうに笑っていた。城の者はなにが楽しいのかとよく魔法使いに問いかけた。そして、時たま未来が見えるという魔法使いは決まってこういった。 「この世の何よりも、面白いことが始まるのです」  そうして言葉は謎のまま、いつしか魔法使いに問いかける者はいなくなっていた。  王は相変わらず淡々と職務をこなし、誰も寄せ付けない冷たい表情をしていた。  けれどあるとき、王は窓辺に小さな蜘蛛を見つけた。魔法使いは「毒蜘蛛ですね」と微笑を浮かべた。  王はしばらく見つめた後、蜘蛛をそっとベッドのわきのテーブルに置いてやった。 そしてパンを与え、寒くないように火を与えた。蜘蛛はその間ぴくりとも動かなかった。 ただじっと王の行動を見ているだけだった。そして魔法使いが部屋から立ち去り、王は何もせずにじっとしている蜘蛛を一瞥すると眠った。  蜘蛛は王が眠ったのを確かめるかのようにテーブルの端に糸を垂らし、王の枕元まで行くと、じっと王を見つめた。そしてしばらくすると、またおなじ道を戻り、やっとパンにありついた。  そして朝、蜘蛛はいなくなっていた。王は部屋中を探し、窓の端っこに小さな巣を作っている蜘蛛を見つけた。  魔法使いが呼びに来て、王は朝食を部屋に運ぶように頼んだ。王が食事をしている間、蜘蛛は窓の端からそれを見つめていた。そして王が手招きすると、蜘蛛はするすると糸を垂らして王の元によった。  その姿を見た魔法使いが興味深そうにするのもお構いなしに、蜘蛛は王の肩に乗った。  それから蜘蛛と王はどこへ行くのも一緒になった。あらゆる場所に連れて回ったために、誰かが皮肉を込めて蜘蛛の王と呼ぶようになるほど、王と蜘蛛は一緒だった。  けれど、蜘蛛はやがて弱っていった。王と蜘蛛が出会って一年が経とうとしていた。  その日はとても寒い夜だった。いつの間にか王の枕元が寝床となっていた蜘蛛は王が眠ったあと、ゆっくりと窓辺によった。ただ、その窓はしっかりと鍵がかかっていた。  蜘蛛が窓枠を這い回っていると、いつの間にか現れた魔法使いがそっと鍵を開けた。冷たい風と、雪が部屋に吹き込んだ。蜘蛛は体の半分を窓の外へと押しやると、柔和な微笑を浮かべる魔法使いに首をかしげるような仕草をしながら一度だけ振り返り、窓の外へ飛び出した。  王は翌朝、いなくなった蜘蛛を探し回った。朝の朝食を運びに来た魔法使いが昨夜のことを話すと、王は窓の外に垂れる銀の糸を見て、ただ頷いた。  城に二度目の変化が現れたのは、蜘蛛が消えてからまた一年が経とうとしていたころだった。  娘が一人、王を訪ねてやってきた。  娘の身につけている服は、布きれをもうしわけ程度に直したような服とも言い難いつぎはぎだらけのものだった。髪は埃と泥でかちかちに固まり、手はがさがさに荒れていた。靴はなく、裸足の足はひからびた蛙のように骨と皮しかなかった。ただむき出しの膝に赤い花のような痣があるのが唯一の特徴だと言えた。貧民街に住んでいるような小汚い娘だった。  誰もがみすぼらしい格好の娘に会うわけがないと思っていた。鼻をつまみ、あからさまに顔をしかめるものさえいた。けれど何にも執着しない王は、誰もが驚く中、丁重に娘を謁見の間に呼んだ。  まねかれた娘は多くの視線にさらされながら王に両手を伸ばした。 「わたしと恋をしませんか?  誰もが耳を疑い、我が目を疑った。けれどその告白は紛れもなくこの国の王に向けられた言葉だった。  周りの者は、娘の頭が可笑しいのだと信じた。かわいそうに、日々の暮らしに疲れて心をやられてしまったのだと。  王は娘の言葉など無かったかのように表情を崩さなかった。氷のようにその表情も感情も凍り付いたままだった。けれど、輝くような笑顔を向ける娘は幸せそうに微笑むのだ。ただ目の前に王がいることが幸福とでも言いたそうに。  そして娘は三日の間、城にとどまること許してほしいと願い出た。浅ましい願いだと、誰もが眉をつり上げた。  王は何も言わずに立ち去った。娘はじっとその姿が見えなくなるまで見送ると俯いた。伸ばしていた手も、紙くずのようにぱたりと落ちた。誰もが笑い、王の隣にいること自体が間違っていると大声で笑った。  けれど翌日も娘は城にいた。体を洗い、食事と服を与えられ、王の部屋に一番近い部屋をあてがわれていた。  やせ細った足で王の後に付いていく娘を見て、誰もが我が目を疑った。ただ、魔法使いだけがほほ笑んでいるだけだった。  娘は王それこそ一日中、王に問いかけていた。全てが同じ問いだった。娘が「わたしと恋をしませんか?」と、そう言うたびに王は一度立ち止まり、再び歩き出す。娘はうつむき、けれど少し経つと、同じ問いを繰り返した。  王は淡々といつもの執務を終えた。娘は最後にまた同じ問いを繰り返し、王が無言のままでいると、初めて「また明日」といって不思議なほどあっさりと、おとなしく部屋に帰っていった。  そして残された魔法使いがぽつりと言った。 「あの唇には、けして触れてはいけませんよ  王は一つ頷くと、部屋に戻った。  翌日、王がいつも通りに目覚めると横に娘の姿があった。娘ただじっと王を見つめると「わたしと恋をしませんか?」と問いかけた。王は無言で起きあがると、朝食を持ってくるように魔法使いに頼んだ。娘はうつむき、手を伸ばす。ガザガザに荒れたままの手で、娘は王の腕を取った。  王は朝食もとらずに、娘に連れて行かれた。娘はそのやせ細った足で、信じられないほど遠くに行った。まだ緑の残る美しい庭を抜け、城門の壊れた箇所から街へ繰り出し、活気あふれる街道を、人目につかぬようにひっそりと進んだ。いつしか道はなくなり、地面に白い砂が混じり始めた。  海へ出て、娘はようやく立ち止まった。  王はこれまで城の白い壁しか見たことがなかった。窓枠に遮られた限られた空さえまともに見ることはなかった。王はあらゆる世界の色を見て小さく息をついた。感嘆のため息だった。  娘は王を浜辺に座らせ、その傍らに自らも腰を下ろした。  空が白み、青く瞬き、赤く沈むまで王と娘はじっと動かなかった。何もせず、何も語らず、ただずっと座っていた。  いつしか娘の視線は、隣に座る王にそそがれていた。けして娘を見ない王に、けれど娘は幸せそうだった。この世の美しい物を目の前にしているかのようだった。それは日が暮れて、城へ帰ってからも同じだった。  二人が城に帰ると、魔法使いが静かに迎え入れた。  そして王の部屋の前、娘はまた同じ問いを繰り返し、王が無言でいると「また明日」と言って部屋へ戻っていった。  最後の日がやってきた。王が目覚めると隣には娘がいた。昨日よりも血色の良くなった顔に、けれどやせ細った足で王の枕元に立っていた。昨夜と同じようにじっと王を見つめると、同じ口調で同じ問いを繰り返した。王はしばらく黙った後、ゆっくりと起きあがり、朝食を持ってくるように魔法使いに頼んだ。娘はまたうつむき、そして上げた顔には幸せな笑顔があった。  娘はその日、ずっと王の側にいた。王が執務をしていても、じっとその横で王を見つめていた。まるでこの目に焼き付けているかのようだった。それは儚い姿だった。娘は微笑みながらも、悲しんでいた。それは別れの時が近いかためだった。  魔法使いは静かに目をつむり、部屋を出た。王に仕えてから命令以外で席を外すのは初めてのことだった。  王が執務を終えたとき、すでに空は暗くなっていた。星一つ無い、嫌な天気だった。王は立ち上がり、娘を見た。娘もまた王を見ていた。  二人はじっと見つめ合い、そして、娘は視線をそらした。 「ずっと、恋いという物ものあこがれていたのです  最初に聞いたときよりも元気のない、悲しい声音だった。  娘は顔を上げ、ゆっくりと微笑んだ。 「誰もが恐れる毒の蜘蛛。蜘蛛はおかしな蜘蛛だった。人の恋にあこがれた。人の愛にあこがれた。 けれど蜘蛛は嫌われる。それはその身が醜悪だから。醜くおぞましい、毒蜘蛛だから――けれど、あなたは違いました。 弱り果てたわたしをあの部屋で休ませてくれました。食事を与え、肩に乗せてくれました。嬉しかった。けれど悲しかった。人は蜘蛛と恋などしないのです  そして去った。冷たい雪の中で、死んでしまえればいいと思った。  けれど――――。 「なぜだったのか、自分ですらわかりません。おかしいのかもしれません。仲間たちはそんなわたしを奇妙に思っていましたから。 持つはずのない、感情でしたから。ですが、わたしはそれを持っていた。そして恋をするなら、あなたがいいと思ったのです。 冬の夜にあなたがくれた暖かい光がわたしの胸から消えることがなかったからかもしれません  娘は一歩下がると王を見上げた。 「蜘蛛は魔女と出会いました。魔女は言いました。人にしてやると。蜘蛛では恋いをすることすらかなわない。 人は蜘蛛に恋などしない。人でなければならないとわたしは思いました。  そして蜘蛛は魔女に飼われてやってきた。美しくも孤独な王の命を受け取りに。 魔女はかつて、この国の、王族によって呪いを受けました。その報復に、あなたを殺そうとし、けれど魔法使いがいつも隣に、傍らであなたを守っていた  食事を運ぶのも、朝の目覚めを知らせるのも全てが魔法使いの仕事だった。 執務中も魔法使いは離れない。そして王の寝室には、いつも魔よけの品が置かれていた。魔女は魔よけの前に歯がみした。手も足も出なかったのだ。  そしてとうとう王を殺そうと、娘に変身した蜘蛛を送り込んできた。 「唇は毒」  いいかい、これは約束だからね。 「そう魔女は言いました。触れるだけで命を奪うのです。いいと思っていました、人になれるのならば――――でも」  もし破るようなことがあれば、お前は再び蜘蛛になる。  醜悪で猛毒を持つ恐ろしい毒蜘蛛に。  欲しいものがあるのだろう?  手に入れたいものがあるのだろう?  一時だけ、お前を人にしてやろう。  期限は三日。  さぁ、あの男を殺しておいで。  そうして醜く笑った魔女の顔を、娘は覚えている。そしてその甘美な誘いに乗ったのだ。  けれど娘は知らなかった。殺す相手が、あの王だと。そして魔女も知らなかった。蜘蛛が王に恋情を抱いていると。 「…触れるだけで命を奪う、毒の唇。これのどこが、人なのでしょうか  そして娘は分かっていた他者と口づけなどできぬ事、愛する者にこの唇では触れてはならぬ事。  蜘蛛は悩む。  蜘蛛は王を愛してる。  愛しすぎて、そして、自分のことなど、どうでもよくなった。 「でも、わたしは知りました。最後に知った。愛とは、素晴らしいものです。目に映る全てが、変わらないはずなのに、鮮明に映るのです  蜘蛛は初めて涙を流した。人でなければ、流せない涙。顎をつたったそれは何の感情のためだったのだろう。 「ただ同じ場所にいるだけで、ただその姿を見るだけで、胸がこんなにも苦しくなるのです。甘い甘いうずき。苦しいけれど、いとおしい…  その時だった。  強い風が窓を叩いた。蜘蛛はその窓を人の手で開ける。するとしくじったな、と怒声が降ってきた。部屋の明かりが消え、ぼんやりとした闇が広がった。 消えたロウソクの名残でうっすらと部屋の中が見える。  その中に魔女が立っていた。髪を振り乱し、肩を怒らせて。 「この役立たずの蜘蛛。王を殺せば人にしてやると言ったのに、三日経っても殺せない。口づけの一つすら奪えないのか!  叫ぶ魔女などいないかのように、娘は王に向かって晴れやかに笑った。 「恋を知ったのが、あなたでよかった  王はとっさに娘の腕を掴む。けれど娘はその手を払い、微笑んだまま、魔女の顔を乱暴に掴んだ。魔女の唇に娘は自分の口を押し付けた。 「やめろ!  王が叫び、娘は胸の中で震えるような心の叫びを感じた。  けれどもう遅い。  蜘蛛には最初から三日だけだった。たったの三日。けれどその一日、一日は、鮮やかに胸の中に残っている。最後に王の声が聞けて、蜘蛛は幸せだった。  蜘蛛を突き飛ばし、魔女は叫んだ。断末魔の叫びだった。 そして肌の色は浅黒く、口からは異臭を放ち、この世のあらゆる憎悪をまき散らしながら消え去った。後に残されたものは何もなく、立ち上がった娘の姿は崩れてゆく。  後に残ったのは、娘の身につけていた衣服と、ただ一匹の蜘蛛だった。 ★★★  王は膝をついてその蜘蛛をすくい上げた。蜘蛛は弱り切っていた。今にも死んでしまいそうだった。  弱々しい動作で王の手から逃れようとする蜘蛛を手の中に閉じこめて、王は口を開いた。 「私は、生まれてからずっと城の外へ出たことがなかっただからだろうか。そこからやってきたお前を初めて見たとき、私は驚いた。世界にはこのような美しいものがいるのかと  出した声はかすれていた。 「私は知った。世界は思った以上にずっとずっと広いのだと。だが、一年を境に君はいなくなった。私は初めて冬の寒さを知った。そして再び現れた君は私に恋をしろという。だが、向けられた言葉に、感情に、どう答えていいかわからなかった。語られるたびに、どうしようもない物が胸の裏側に詰まっていった。けれど言葉を返すためには、私はあまりにも無知だった  指の間からある小さな抵抗は次第に弱まりつつあった。命の灯火が消えつつあった。 「私は、構わない。またあの青い海へ連れて行ってくれるのなら、君が人でも蜘蛛でも、私は、構わない  王はそっと手の力を抜いた。いいや、と首を振って這い出してきた蜘蛛に唇を寄せた。 「恋をするなら、君がいい――  王は何度も何度も口付ける。そしてぽんと音がして、細くてがさがさの白い腕が王の首にからみついた。 ★★★  一つの噂が流れ出す。  それは何とも間抜けな魔女の話だった。  魔女はかつて、王国に逆らって罰を受けた。その身を蜘蛛に変えられて、長い時をさすらった。  ある日、出会った娘に魔女は優しくされた。一杯の水にこめられた優しさが、呪いの力を打ち消した。  魔女は再び魔女となった。そしてどうしてだったのか、助けてくれた娘を蜘蛛に変えてしまった。  月日は流れ、魔女は自分を貶めた王国に復讐を誓った。けれど間抜けなことに送り込んだ刺客の娘は、かつて魔女が蜘蛛に変えた娘だったのだ。  娘は魔法によって記憶を失い、人としての記憶を持たなかった。けれど恋にあこがれた。種の保存を尊ぶ仲間の元で、たった一匹、焦がれるほどに。  だから人にあこがれて、ただ一人の王に恋をした。殺すべき男を愛したと。  その後何がどうなったのかは分からない。  ただ王と蜘蛛は恋に落ち、魔女は二人の愛の前に滅び去ったという。  そののち王は挙式を上げたという。  ただ、娘の姿が人であったか蜘蛛であったかは分からない。語られていない。記されてはいない。  真実かどうかは王と、そのお就きの魔法使いしか知らぬところ。  ただ王が結婚したのは確かで、 魔法使いが言うには「この世の何よりも、面白いことが始まった!」と、生まれた子どもたちの相手をしながら以前よりも増してにこにこと笑っているという。 魔法使いはとても、子ども好きだったのだ。