あなたなんて嫌いよ

 あなたなんて嫌いよ。  それがいつだって彼女の口癖で、彼と顔を合わせた時に必ず言う言葉だった。  彼は彼女が好きだった。とても、とても愛していた。けれど彼女に会うたびに言われる言葉は拒絶の言葉。彼はへらへらと笑うと、彼女はその顔も嫌いよ、そう言ってぷいと余所を向く――のだと思う。その時だけ彼は寂しそうに少しだけ口の角を下げるのだった。  彼女が彼の何を嫌いなのか彼には最初、分からなかった。  考えても考えても、自分の鈍くさい態度やへらへら笑った顔が嫌いなのだと分かるが、それは彼には直せなかった。直せという方が無理だった。彼は口元以外動かない。彼の体は石のように重くて、指一本、声一つあげられなかった。だから彼には笑う以外の何もできなかった。ただ、彼女の声をその耳で聞くだけだった。彼女の姿すら、彼は知らなかった。  けれど、美しい人なのだと思った。彼女はこんな自分に、毎日会いに来てくれる。見舞いのたびにあなたなんて嫌いよ、と言われても。けれど、言われるたびに悲しくて、悲しくて、心までもが岩のように重く、傷ついていった。  そしてある時、彼は気づいた。彼女が彼を嫌いという最大の理由。  彼の家は金持ちだった。  彼女の家は貧乏だった。  とにかく、そう言うことだった。  金に物を言わせた両親が、貧しい彼女の家に金をやり、彼女を代わりにもらってきたのだ。だから、彼女は彼を嫌いという。それは当たり前のことだった。もとより、自分は面白みのない人間だったのだから。  いや、人間ですらないのかもしれない。彼は彼女のように動いたり喋ったりもできず、機械に繋がれ、生きていると分かるのはその数値が動き、ときどき、笑うことからだけだったのだから。出来損ないのロボットと、いったい何が違うのだろう。何の意味があるのだろう。生まれて、ただ一度の光も見ることがないまま、一言も口をきけない自分に、何の意味があるのだろう。  いっそ死を考えたが、それを伝える術を彼は持ち合わせていない。死ぬことすら彼にはできない。  それでも、指一本動かせない彼のために、一言も言葉を話すことができない彼のために、それが罵倒であったとしても、毎日来てくれる彼女が待ち遠しかった。その声を聞きいている時だけ、出来損ないのロボットは、少しは人間に近づいたような気がしていた。  両親は、彼を生かすためにたくさんの金を払って彼の命を持たせたけれど、彼の部屋には長いこと来ていない。それが答えだから、彼は何も言わない、言えない。ただ、彼は流されるだけの毎日に、彼は様々な音を拾う以外なかった。  彼女がある時言った。  あなたのご両親が死んだわ。  それは何年も経ったある日のことだった。  彼はただ、無感動にそうか、と思った。彼はその時も小さく笑った。  彼は、長らく自分が生かされていた訳をその時知った。両親が死んだ時にその意味を理解した。  彼女は、彼の部屋で本を読むのが日課になっていた。数時間から、丸一日そこにいることさえあった。彼女はときどき独り言を言う。それは本の内容だったり、天気のことだったり、使用人のことだったりした。  彼女は広い世界を持っていることを彼は知っていた。彼は、もう彼女を自由にしてやるべきだ。彼女は充分、彼によくしてくれた。だから彼は、そのお礼がしたかったし、その方法だけは知っていた。  彼は彼女が何を話しても、けして、表情を変えようとはしなくなった。無感動にただ、彫刻のようにじっとする。  最初彼女は気づかなかったが、次第に訝しみ、彼の口を引っ張ったり、医者を呼んだりしたが、医者は原因が分からないといって帰るだけだった。 「ねぇあなた、眠っているの?」  彼女の声に彼はけして反応しなかった。彼女はそれでも彼の側で、ときどき話しかけたりしたが、次第に彼の部屋に来なくなった。  彼はある日、扉越しに足音を聞いた。  そして、何者かがそっと囁いた。 「どうしてほしい」  それは医者の声だった。彼は笑った。医者は彼の額をなでたのだと思う。 「殺してほしいか」  彼は笑った。それが答えだった。 「なぜ?」  彼は笑わない。それが答えではないからだ。  医者は彼に様々な質問をした。知りたがりな人だと彼は思ったが、笑うことで一方的な質問にイエスとノーで答えていった。  最後に、医者は思いついたように、言葉の一つ一つを順番に発音するから、言いたいことがあった時は、その文字の場所で合図を送ってほしいと。  結局医者は、彼の本意が分からず困惑しているようだった。けれど彼は知っていた。その医者が、彼女を愛していたことに。彼女もまた、その医者を信頼していた。それは愛ではないかもしれないけれど、二人の間には、確かな絆があった。彼のために、自分のために、医者が彼を殺してくれることを、彼は知っていた。  医者は言葉の一言人事をゆっくり発音していった。彼は、ときどき合図を送りながら、少しずつ、初めて自分の言葉を他人に伝えた。  か・の・じ・ょ・を・あ・い・し・て・る・じ・ゆ・う・に・な・っ・て・ほ・し・い  それが、自分にできる唯一のこと。  医者は長い間押し黙った。  そしてふと立ち上がり、何かをするような音が聞こえた。金属が擦れあうような音と、何かの器具を動かす音。それは彼の体につながれた管に何か細工する音だった。機会のボタンをけす音だった。 「痛みはない」  それはその通りだった。  ただ、彼女の声を最後に聞きたかったと言う心残りを抱えながら、彼は一人で暗闇の中に落ちていった。  医者は静かに立ち上がると、そっと部家を出た。その扉の向こうには声を立てないように両手で口を覆った彼女がいた。  彼は最後まで見ることはなかったけれど、医者はもう六十歳にもなる老人で、彼女はまだ、三十歳にさしかかる前だった。 「奥様。もう、持たなかったのです。最後は、彼の意志で逝かせてあげたかったのです。それが、ご両親の遺言でもありました」  医者は声もなく涙する若き未亡人に向かって痛ましそうに言った。けれど、彼女はそれを無視すると、彼のまだ温かい体にすがりついた。 「あなたなんて嫌い。あなたなんて嫌いよ」  彼女は言った。けれど、いつかのように笑顔が返ってくることはない。  お別れの長い長い口づけを、彼女は彼に送った。本当は、彼が眠っている時にたくさん贈っていた長い口づけ。彼は最後まで気づくことはなかったし、彼女は最後まで、気づかせる気はなかったけれど、彼女は確かに自分を売った両親と、それを買った義理の父と母を憎んでいたけれど――――白い病棟に隔離されていた彼を、彼の存在を確かに、愛していた。