エピローグ

 世界が始まったばかりの頃、異界から進行してきた悪魔の一団が全てを食いつぶそうとした時代があった。それを退けたのは世界全土を見守っていた一万本の|神木《ドレアーブル》と|獣《テール》。  悪魔を滅ぼすに至らなかったが、神木は世界を覆う結界を張り、獣は結界を張る神木を守るようになった。 「――かつて、戦の勝者達は多くの歴史を自らの良いように直してきました。その行いによって後の世は多くの物を失い、苦渋に満ちたものとなったのです。  我々が今すべきことは、過去を遡って理解し、これまでの行いを繰り返さないことです。そのためには一人一人が理性的に知ることが重要です」 「でも先生! 悪魔って本当に居るの?」 「おとぎ話じゃねーの?」 「いいえ。この空の向こうに、悪魔は今も存在しています」  確信をもってリンガルは告げる。その視線は子供達を見守る優しさに溢れていた。 「魔王が再びエディヴァルに進軍した際、空は二つに裂け、暗い海のように広がりました。それはたとえようもないほど深い絶望の形をしています。――そのとき魔王の前に立ちはだかったのは、やはり神木と獣。そして彼らを助ける仲間達だったのです」  聞き入る子供達が居る学舎は、今日も平和だ。 ★★★  当時、神木を失った国々は当然荒らされ飢えていた。ほんの些細な衝撃で燃え上がりそうな危険な情勢をを押さえたのはヘリガバーム教団。  教団は武力をもって諸外国を脅しつけたのである。  ここで有名な逸話が生まれた。  ある王がなぜ従わなければならぬのかと言えば、教皇ダルドは言った。 「お前の国の民は肥え太り、食べ応えがありそうだ。よろしい、では戦争の準備を」  冗談だと思った王は教団員が悲愴な顔をして立ち上がるのを見て、始めて焦ったという。  世界中の母親が「言う事を聞かないと、教皇がムシャムシャ食べに来るわよ」と言って子供を寝かしつけ始めたのもこの頃である。  この時の事を死ぬまで「本気でそうするつもりだった」と彼は語った。  神木と獣の神話が復活し、人々に正しい始まりの物語が普及した頃、最南端の土地でひっそりと新しい神木が現れた。  天をつく巨木の存在は瞬く間に広まったが、彼らはもう、その根元に国を創ることは無かったと言う。 ★★★  鳥が羽ばたいている。  昼寝をしていたディアボラは頭を突かれて仕方なく顔を上げた。太陽の光は眩しくて首にかけた手ぬぐいは汗でぐっしょり濡れている。 「ディアボラ様ー! サボっちゃ駄目ッスよ」  魔王陛下に怒られますよーと言う言葉に「へいへい」と腰を上げて尻を叩く。つついていた鳥はランダの肩に乗るとピヨピヨと鳴く。ランダは麦わら帽を被って太陽の下で笑っていた。  一面の畑を見わたすと、あくせく働く吸血鬼達は目が合うと手を振ってくる。  振り返していると一陣の風が吹いた。その時ディアボラはすぐ横に視線を感じ、隣を見た。 「ディアボラ。ね? できたでしょう?」  目を見開いたとき、突風が吹く。落ち葉が一瞬視界を遮ると、そこには先ほどの少女はどこにもおらず、彼はぐしゃりと顔を歪めた。少女と同じ緑色の目が潤む。 「なんだ、そこに居たんだ」 「もー、もー! ディアボラ様! いい加減来ないとおやつ食べちゃうッスよー!」 「へいへい。まぁったく食い意地が張ってやんなっちゃうよねぇ」  幻聴だとは思えなかった。  げーげー吐く真似をしながら坂を降りると風の匂いがする。ほのかにする腐敗臭にディアボラは苦笑した。  魔界は腐敗から正常な世界に戻ろうとしていたが、火種は多く燻っている。  生き残った悪魔はシティパティに従っていた悪魔達だ。今は新魔王の言う事を大人しく聞いているが、いずれ裏切るだろう。  それは宰相を務めるエウリュアレーも同じだ。  あの女はいずれ、必ず離反する。神人をおとしめたときと同じように。  その時の事を思いディアボラの目が鋭く尖る。 「今は見逃すが次はない――ランダァ! ジャガイモはそのまま植えても芽が出ないんだってぇ。これ7回目なんだけどぉ」 「えー? これさっきのジャガイモと色が違うッス。本当にジャガイモなんスか?」 「種類が違うんだよ、種類が……」  先はまだまだ長そうだ。 ★★★ 「ハル、おいで」  呼ばれ、彼女は振り返った。軽快な足取りで近づけば、ひょいと首の後ろをくわえられ、そっと近くに降ろされる。 「何?」 「毛が逆立ってる」  毛繕いされたハルはありがとう、と言うように「ニャー」と鳴く。  不思議な気持ちだった。自分よりもずっと大きな獣が近くに居る。体は傷だらけで、毛も所々剥がれているが自分の父親は確かに生きていた。  ロゼの死を知った彼は落ち込んだものの、少しずつ立ち直っているようだった。それは娘の前で気丈に振る舞っているからだが、幸いなことにハルは気付かなかった。  嘘をつかない獣が「本当に大丈夫だよ」と強がりを言ったから。  親子は揃って丸くなった。遠目で見れば白い団子が転がっているように見えただろう。  そこへ、カリオンが大きな鍋を持ちながら近づいてくる。  警戒したように耳を立てた彼は鼻をひくつかせた。自分の娘に言い寄る雄が、どうやら餌付けをしに来たらしい。 「ご飯だぞ」  当初ぼんやりとしながらもうっかりお相伴にあずかってしまったのは落ち度だ。  口惜しい、と思いながらも尻尾を機嫌良く揺らした親子はそっくりな顔をして鍋の中身を覗き込んだ。  すっかり中身を平らげると、彼は丸くなって眠ってしまった。体はまだ本調子ではなく、休息が必要なのだという。  少し離れた草原に、カリオンはハルを誘った。 「君が好きだよ」  弾かれたようにハルは仰ぎ見る。  首を振るハルに「わかってる」と、カリオンは一輪の花を指し出し、こう言った。 「だから隣にいるのを許して欲しい。ハルが駆ける横で見ていたいんだ」 「そんなつもりないわ。カリオンはどうしてわたしがいいの? 女の人はいっぱいいるじゃない」 「なら、モリトの変わりはいくらでもいるのか?」 「……いないわ」  だろう? と彼はハルの両頬に手を当てて上向かせた。目尻に浮いた涙をぬぐってやる。ハルは別れの後からめっきり落ち込み夜になると泣いている。  寂しそうに父親に引っ付いて声を殺して泣く様子は心が締め付けられたが、カリオンはますます彼女がいとおしくなった。 「返事はまだいらない。でもいつか俺のことを好きになって、一緒に踊ってください」  教会からの帰り、尋ねる機会を失ってしまった問いかけ。だが、聞かなくてよかったのだ。  戸惑うハルはカリオンの心は何一つわかっていないだろうし、わかろうともしていないだろう。それなのに一瞬でもためらったのは、彼の未来を思ったからだと言う事に、本人は気づかない。  それでいい。気付いたらきっと、この思いは育たない。  気長に待つことができずに一度目は失敗した。なら、次は大丈夫だ。  カリオンは微笑む。  居心地悪そうにしていたハルはそれを見て、何かを諦めたように肩をすくめる。  仕方ないな、と言いたそうに口をすぼませたハルは、頬に当てられた手を引きはがす。 「気安く触らないで」  モリトがいなくなって、隣がすきま風が吹くように冷たい。   それでも世界は、少しだけ優しく見えるようになった。 --------------- ここまでお読みくださって、ありがとうございました。