緑の御子の物語

「ねぇジハール、あれやばいんじゃなくて?」 「下町言葉とお嬢様言葉、両方混じってますよ。いてて」 「ふざけないで!」  乱暴に耳を引っ張られた彼は慌てて取り戻し、涙目で擦った。 「おおいてぇ……。まぁ、不味いんじゃないですかね?」 「のんきにもう! あれ、いったい何かしら……」 「魔界が落ちてきおったんじゃろうて」  はっとして立ち上がろうとしたアイリーンに老王は手を上げることで制した。 「とうとう、滅びの日がやって来た。……メディラ。気は晴れたか?」  老王は優しくメディラの背中を撫でるが、反応はない。 『ごめんねミレ、ミレ。守れなかった。赤い。赤いよ。手から離れない。痛かったね。酷いよ。こんな酷いことをよくもよくもよくも許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないゆるされない』 「許さなくていい」  座り込んだ老王は子供のように膝を抱え、片方の手でメディラを抱き寄せ肩を擦る。 「長かったなぁ。ほんの数百年、生きただけでも溜まるものがある。お前達の苦しみはもっと重く深いのだろう」 「……王、この国が贄の皿というのは本当なのですか」 「慰められればと、思ってもおった」  そうできれば贖罪のために捧げる事はなかったのだが。  アイリーンは奥歯を噛みしめた。 「なにが王よ。これが、この世で最も栄えている国の姿なの? 全然違うじゃない! 関係ない私達を巻き込まないでよ!」 「本当に関係ないなら巻き込まれてなどおらぬ」 「何なのよこの幽霊は。こいつのせいで……!」  うずくまるメディラに殴りかかる彼女をジハールが止める。  王は笑った。久しく見ていない諦めたような笑みで。 「お前の声は殺された獣に、本当によう似とる。儂でさえ、たまに錯覚しそうになるほど。ジハール、お前も今までご苦労じゃった」 「とんでもない。我ら先祖の過ちが、ここまでの道をたぐり寄せたのですから」 「ちょっと、どう言う事?」 「いいかげん目を覚ますのはあなたですよ。まぁ、俺は最初からこっち側だったってわけで」 「わかるように言いなさいよっ!」 「ロストロに集った民の一人だったってわけです。ずいぶんと長く生きたものだ」 「なんでよ皆して! どうして悪魔と戦わないの。あなた強いでしょ!」 「そうしなきゃいけないって誰が決めました? アンタみたいな無力を盾に叫ぶ輩でしょう? そんな奴らを守ってやるには、ずいぶんとすり減りましてね。なにもかも、どうでもいいって感じです」 「だからメディラにこんな事をさせてるの?」  神木の根元にたどり着いたモリトは、ハルの背から飛び降りる。転がるようにメディラの前に膝を突き、両手を伸ばして頬に触れた。 「それは彼の意思。これは俺達の贖罪です」 「こんな事が贖罪? 誰も救われない寂しい結末だよ」 「それでも、そうしてやりたかった」  モリトは唇を噛む。もしもハルがミレと同じ目にあったなら、きっとモリトは正気じゃいられない。同じ道を歩まないと断言出来なかった。それでも止めなければならない。必要なのは同情ではなく、彼を救うという確かな心。 「メディラ。初めまして。ボクはモリト。もうすぐ神木になるモリトです。……辛かったね」 『ミレ、ミレ……ごめんなさい。一度だって君を守ってあげられなくてごめんなさい。僕はだめな神木だ。さっさと燃やされればよかったのに、おめおめと生き残った』 「そんな事ないよ。ミレはメディラに生きてほしかったんだよ。悲しいね。大切な人はいつも守れない。零れて何も残らないね」 『もう誰も信じない。あの子はどうしてあんな酷い目にあったんだ。私達が動けないからって、どうしようもないことを短命種は攻め続ける。どうして神は獣を改変したの。神木で良かったはずだ。私達が戦って滅びればよかったのに』 「うん、同じ事を思うよ」 『あの毛皮の暖かさを覚えているのに、どんどんわからなくなる。今日が明日で今がいつで明日は何かわからない。どうしてレドアルは約束を守ってくれなかったんだ。一番偉い王様だって言ったのに! 今何をしている? ミレを大切にしてくれるんでしょう? ミレを守ってくれるって言った。ミレ、ミレごめんなさい』 「モリト、はやく魔界を引き寄せるのをやめさせないと……」 「でもメディラは深い悲しみの中に居てボクらの声は届かない」 「そうじゃなぁ」  老王を振り返り、ハルは聞く。 「レドアルって王様はあなた?」 「ずいぶん昔に捨てた名だ」 「どうしてミレを守ってくれなかったの?」  レドアルは、苦しそうに吐き出した。 「あの時、儂は愚かじゃった。西に内乱の兆しありと、卑怯者の言葉を信じてしまった。調べるうちに獣が示唆している形跡を見つけた。彼らは全く濡れ衣だった……しかしそこで迷ってしまったのだ」  隙を突かれ、気付いたときにはミレは捕らえられ、助けに行った群れごと惨殺された。 「あれほどまで惨いことをできるとは、悪魔の所行であってほしいと、神に祈るほどだった。我々の同胞が、これほどまでとは……と」  と、その時、一陣の風が吹いた。 「発狂したメディラは時々正気に戻っては私達に嘆いた。復讐がしたいって。だから提案したのさ」 「ファズ」 「わたくしもいてよ」 「もしかして、メロゥーラか!?」  目を丸くしたカリオンが、小さなメロゥーラを摘まんでひっくり返した。隅々まで見たことのある構成である。まるっとしたお腹を指でつつくと、彼女はそれを掴んで上下に揺すった。 「わたくしのフロースにそっくりでしょう?」 「驚いた」  そして、 「ちょっとぉ。何があったかって今話すこと? どうするか決めた方がいいんじゃないの?」 「俺はどっちでもいいですが」  知らない間に二人の男女が座り込んでいる。  深い青色の長衣を着込んだ壮年の男と、快活そうな女性。彼女の髪は緑で耳にかかるほどの長さしかない。 「よ! また獣にあえて嬉しいわ。アタシは中央からちょっと右側にある神木レミーラ。ヨロシク!」 「俺はその反対側の神木で、ディラ。やれやれ。これでは耳の裏をワシワシする時間もありませんね」  そう言いながら手をわきわきさせてハルの胴体に触っている。その手を払うような突風にハルは驚いた。 「私だけ蚊帳の外とは、お前達の不義理さに涙が出そうだ。一発ずつ殴ってもよさそうだな」 「レイディミラー! どうしてここに?」 「結界が薄れ神木が滅び、神術が魔界を引き寄せている。お前達が向かった先にだ。来るのは当たり前だろう――ファズザラーラ。よくも我が子らを危険な目にあわせたな。なぜ黙っていた」  風と共に現れた彼女は、底冷えのする声音で詰る。ファズは肩をすくめた。 「君に言ったら必ず妨害されると思ったからね」 「当たり前だ!」 「君だって獣が生きていることを教えなかっただろ?」 「誰が残っているかわからなかったのもある。だが教えたらお前は呼び寄せただろう。いらぬ争いに巻き込むわけにはいかなかった。あの時のこの子はそれに耐えられなかったろう」 「……そうだね」 「でっさぁ。どうすんの? ほっとく? アタシはそれでもいいよ」 「俺もですね。どっちでも……この世に愛着のあるものは殆ど消え去った」 「わたくしは断固反対します! 守りたいものがあるのです」 「お前の薔薇の一族か」  羨むように呟いたラルラは遠い目をする。 「メディラを助ける。そうすれば神木は従うってラルラは言った」  モリトの言葉に神木達は頷き、快活な声でレミーラは言う。 「でも助けるっていろいろあるよね。メディラの願いを助ける。正気に戻す。辛い心を癒やしてあげる……とか。でもさぁ、望んでるのは後ろの二つなんでしょ? できるとは思えないなぁ。メディラはずっと泣いたままだもん」  よしよし、とレミーラは眉を「ハ」の字にしてメディラの頭を撫でる。 「繊細な子でさぁ。気が小さかったんだ。でも何とかしたくて頑張って、いろいろ削れちゃった。アタシ達も皆、傷ついた」 「頑張りすぎましたね」 「まったくだ」 「モリト、どうするんだい?」  ファズが顔を覗き込んでくる。  モリトはそっとハルを見上げた。彼女は小さく頷く。 「もう一度、約束の国を創る」  不意に動きを止めた神木達をモリトは静かに見つめる。 「全ての短命種と契約を。ボクらのために、ボクが望む世界を創るために」 「欲深ね!」  レミーラは笑った。ディラも興味があるように瞬きしている。 「君はあまり神木らしくありませんね?」 「よく言われるよ」 「だがこの国の過去を見ただろう。それでもすると言うのか?」  ラルラが不愉快そうに腰に手を当てて言う。彼は一度破られたものを再び結ぶことに懐疑的だ。それはどの神木も同じだろう。 「それがボクの決めた道だから」 「わたしは反対してるわ」  ハルはそっぽを向きながら近くに落ちていた瓦礫を物色しだす。 「でも止めることなんてできない。だから皆が本当に約束を結ぶときに、もう一度考え直すよう言うつもりよ。……モリト、この国で何があったかあなたは知った」 「うん」 「わかっていて結ぶのね?」 「ボクはきっと、これをしないと後悔すると思うんだ」 「おそらく今日のことは抑止力になるでしょうが、彼らは忘却という忌まわしい習慣を持っています。一度破られた契約を、二度破るのが彼らではないのですか」  誰もが押し黙ったその時に、ダルドが進み出た。 「否定はしませぬ。しかし我が教団は神木を守るために設立されました。その誓いの為に同族を葬ることも厭わぬでしょう」 「こいつ誰?」 「私の根元に居る教会の人間さ」 「へぇ? その黒猫も?」  じろじろ見られた二人はたじろぐ事なく見返す。 「いいよ。乗った」 「いいのですか? レミーラ」 「うん! どのみち終わるなら、もうちょっと面白そうなことに乗ってみることにする! アタシの枝に住んでるやつらも結構気に入ってたしね」 「そうですか。なら俺はしばらく傍観で。ラルラはどうしますか?」 「メディラを助けなければ予定通りだ。レイディミラー、君は?」 「無論、私は滅びるわけにはいかない。獣が居る限り私達の営みは続くのだから」  だが、とレイディミラーは鬱鬱と続ける。 「……モリト。私はこの約束が破られることを信じている。悪魔が嘘をつくのと同じくらいに。その時、お前はどうするつもりだ」 「ボクは旅をして、国を見て、人を見てわかったよ。信じられないからこそ約束を取り付けて相手を縛ろうとする。なのに、その約束は相手が守るって前提の約束だった。ボクらは信じてはいけなかったんだ。そして短命種の可能性にかけてみるべきだった」 「美しい短命種のことか?」  モリトは首を振った。 「良いも悪いも転がる彼らの可能性。嘘をつかない悪魔が居たよ。でも、ずっとじゃないかもしれない。彼らが変わることを信じて、彼らの最も汚い心が必ず破ることを踏まえて考えるべきだった……。ファズ、信じるべきはそこだったんだよ。彼らとボクらの規律は違う。生き方からして違ったんだ。それを真実理解していない神木が多かった……ボクも含めて」 「モリト……」 「でも、ボクらは知った。同じ事は繰り返されない。だってボクらは忘れないでしょう?」 「そろそろどうするか決めてくれる? まぁ、決めなくてもどっちでもいいけど」  悪魔の角やら何やら、鉄製品を集めたハルは山のように積み上げている。 「ファズ。でもね、共通することが一つだけあったんだ。誰もがそれを望むならきっと国が創れる。――幸せになろう。皆で力をあわせて」 「……わかった」  毅然と頷いたファズの手は、少しだけ震えている。 「ハル。どうするの?」 「あの神術、モリトは打ち消せる?」 「わからないけど、やってみる」 「アタシも手伝うよー」 「では私も」 「わたくしも」  神木達が手をかざすと神術が揺らめきだした。  次第に光りは切れるが、 「だめだね、復活しちゃう」 「一瞬でも戻ればいいんだが……」 「引力が働いてるのかもね。駄目ならそれでいい。――叩き返す」  ハルはメディラの前に膝をついた。 『メディラ、聞いて。わたしは獣。神木と共に生きてきた』  目の焦点がずれぎょろぎょろと周囲を見回す姿は何かを探しているようだ。 『あなたは住居。わたしは住民。あなたとわたしは親友なの。だから守るの。唯一無二の半身を』 『やめて!』  怯えたように顔を歪ませた事に確信する。メディラはおかしくなっているが、全部じゃない。神語ならメディラの胸に届いている。 『やっとわかったの。わたしがしたいこと、守りたいもの。居たい場所……生きたい世界。この世界は確かに酷いわ。安らぐ時なんて瞬きよりも短いくらい。でも大切なものがあるの。大好きよメディラ。枯れてしまった会った事もない神木もみんな。きっと今日の事を忘れない。あなた達がこれから先も、わたし達が居なくなっても笑っていられるように願ってる』  ハルは立ち上がった。 『きっとあなたの未来を守ってみせる。信じて、メディラ』  目を閉じて、開けた。  ずっと気になっていた。  神木の紋章はモリトは背中に、神木となった暁には大地に宿る。  では獣の紋章はどこにあるのか。  記憶が囁く――それは眼だ。 「神様」  虹彩が銀色に輝き、ゆっくりと円を創る。  最も古い狩人に贈られた銀環の紋章。  第六の<神眼>は紋章だ。“願い”によって開かれる創造の力。 「何もしてくれないあなたが嫌い。でも、助けて――神様」  自然と歯を食いしばれば、山となった鉄製品が光り出す。それはゆっくりと形を変え、巨大な鉈となった。  あまりにも重い鉈は今にも落としてしまいそうだ。  と、支えるように背後から回った手がハルに重なる。 「カリオン?」 「一緒にやるぞ」  小さく頷く。踏みしめた足が柔らかい地面に食い込む。ゆっくりと上体をひねり、勢いよく振り抜いた。  メディラの根元近くの最も黒いところから上、それが切り落とされた。  魔界を引き寄せていた神術が途切れる。  鉈は役目を終え霧散した。  それを最後まで見ずに、倒れるばかりの神木に一歩、足をかける。足下は酷く不安定だ。けれど、かまわずもう一歩。ハルの眼は緑色に輝いていた。枝から枝へよじ登り、跳躍。いつの間にか擬態が解け、本来の姿になっていた。風が後方に流れ耳の奥でヒュンヒュンと音がし、大きく踏み出した一歩で、大きく跳躍する。  天辺まで駆け上がったハルは近づいていた魔界に正面から体当たり。  衝撃と共に落下が止り、ほんの少し押し返された。  だが足りない。  跳ね返されたハルは、落ち様に叫ぶ。 「モリトォ!!」 「わかったぁ――!!」  完全に傾いた神木を持ち、渾身の力を込めモリトはそれを、投げ飛ばす。  数百メートルは超える神木が一瞬下降を止め、押し戻された魔界の、腐りきった大地に杭のように突き刺さり――轟音と共に押し戻す。 「結界を張って!!」  目を丸くしていた神木達は鋭い声にはっと手を掲げる。裂け目が瞬時に口を閉じ、空は再び元の色を取り戻す。 「ハルッ」 「ふぎゃっ」  カリオンを押しつぶすように着地したハルは反動でころころと転がった。土だらけになった体を慌てて振って見上げれば、魔界は完全に見えなくなってる。 「まだ落ちてきそう?」 「いや、大丈夫だろうが……」 「なんてことをしたんだ! メディラを切り倒すなど!!」  激高したラルラが詰め寄ってくる。  ふん、と鼻を鳴らしたハルは悪びれずに言う。 「悪いところを切っただけじゃない。メディラだって大丈夫でしょう」  呆然としているメディラの元へ駆け、ハルは柔らかな肉球をほっぺたに押し当てる。 「朝が来たわ、約束の日よ。ラーラー! 歌ったわ。ねぇ、目は覚めた?」 「……どうして」 「なによ」  目尻から涙が溢れる。 「どうして邪魔をする! 今まで積み上げてきたものや消えていった者達の思いは、苦悩は絶望はどうなるっ」 「わたしの未来は、願いは、希望は無くなってもいいの?」  メディラは唇を噛みしめた。 「ミレの事、詳しくは知らない。でも口にもできないくらい酷いことをされたのはわかってる」 「ならっ!」 「でも忘れないで。わたし達獣は神木を守るべき家だと思ってる。あなた達がわたし達を雨風から守る事に誇りを持つように」  全ての魂が還る道筋に、最近行ったのだとハルは続ける。 「沢山の獣が集まって、群れとなってわたしを待っていた。でも、あなた達を詰る言葉は一言も無かったのよ。守らなければ良かったなんて誰も言わなかった」  ぼたぼたと垂れる涙を舐め取れば、やはり果実の味だった。 「わたし達が戦ったことを、どうか怨まないで。あなた達を守るためなら、例えこの身が滅びようともかまわなかったの」  メディラは酷く苦しそうに、声を上げて泣いた。 「皆馬鹿だっ」 「そうね」 「ずっと、一緒にっ」 「ごめんなさい」 「どうしてっ。どう、してっ」 「ごめんねメディラ。あなた達を、そしてわたし達自身を守り切れなかった事を、どうか許して」  ハルは泣きたくなった。今、メディラが何を考えているか手に取るようにわかる。それは前世のハルが抱えて逝ったものと同じなのだろう。 「あなた達の気持ちをわかってあげようとしなくて、ごめんなさい」  メディラは慟哭する。  それは奇しくもミレの最期の言葉と同じだった。