これは銀環の乙女と

「殿下、殿下っ! しっかりしてください」 「……エリュ。酷い顔だな」 「笑い事ではありませんっ」  彼は動かなくなった死体の中に埋もれながら彼女を見上げた。目の下の隈と顔色の悪さが最大限生かされ死霊のようだ。  思わず噴き出せば全身に響く。 「立ってください殿下、今なら魔王の目は神獣に向いています」 「どこへ行っても、もう逃げられない。なら、ここで朽ち果てるのもいい」  失笑する殿下にエウリュアレーは唇を噛みしめる。最初から勝利を諦め、魔王に全てを譲り渡そうとする姿はあんまりだ。彼を思う者の気持ちを踏みにじっていることに気付いていない。  だが、それでは駄目だ。そこから攻めたのでは心を動かせない。頭を回転させ、瞬時に答えをはじき出し、告げる。 「シティパティを神獣に殺されてもいいのですか。かの獣に殺された悪魔がどうなったのか一番知っているのは殿下ではありませんか」  彼の背中に悪寒が走った。 「殿下は獣を探していましたね。自ら手を下したくないあまりに……しかし本当にそれで良かったのでしょうか」  見てください、と細腕で彼を支えて起こした彼女は前方を指した。  激しい戦闘を繰り返す魔王と獣。そして死に損ないのレヴァナント。三者入り乱れ、その隙を突くように大量の死兵が戦っている。多勢に無勢に見えるが、獣は一歩も引いていない。  どころか。 「このままでは神獣が勝ちます。それでいいのですか」 「いいも、なにも……」  望んでいたことだ。 「妹君が貪り喰らわれるのが、お望みなのですか」  エウリュアレーの語尾は震える。  負けた者の摂理だ。何を言いたい。 「それで後悔されませんか。魔王を魔王のまま、狩られた哀れな餌にせず埋葬したくはないのですか。殿下のたった一人のお身内ではありませんか」  愛した者がそのように喰らわれて正気を保っていられるのですか。悲しくはないか、辛くないのですか。新たな憎しみが生まれるだけではないのですか。争いを終わらせるのが望みだったはずなのに、再びくすぶらせて生き続けるのですか。それは後悔よりもなお悪い負の連鎖。断ち切らなければならないのでは。せめて尊厳ある死に方を、亡骸を墓の下に収めたくはないのですか。殺すしかないのなら身内の手で犯した罪を償わせるのが最後の慈悲ではないのですか。あなたに慈悲は無いのですか。神人によってもたらされた希望を知った悪魔たるあなたには、きっとわかるはず。愛しているのならば、自らの手で葬るべきでは。それが家族の愛、最後のけじめではないのですか――。  言葉が彼の頭の中でぐるぐると回り始める。 「それとも妹の死を神獣に背負わせるのですか。――永遠に」 「え、ぁえ」  エウリュアレーの手が背中から離れる。  右手に握らされたのは愛用の盾。 「そうすれば、数多くいる餌の中の一匹。取るに足らない存在です」  許せるのですか――囁きが頭の中に浸透する前に。 「なんじゃぁ兄者。生きておったかえ」  つり上がった唇を汚すように、どす黒い血が吐き出された。  鋭い盾の先がシティパティの腹に深々と突き刺さっている。  あ、あ……と声が漏れたのは己の口からだ。 「不意打ちとは、なかなかしたたかになったものじゃ」 「違うっ。これは!」 「死兵よ、神獣を殺せ! 兄者は妾とダンスじゃな!」  はっとしたときには、彼の体に深々と大鎌が刺さっていた。  魔王の猛攻は止まず盾を構え凌ぐ。  その間にもエウリュアレーの言葉が頭の中を回り混乱の縁にたたき落とされたまま。  死兵は次々と倒され数を減らしていく。ハルはうまくレヴァナントの攻撃を避けながら狙いを魔王に定めていた。じわじわと背後を詰められる焦燥に彼は知らず踏み込んでいた。  それを見ながらエウリュアレーは口元を歪ませる。耐えるように覆った手の平の下で、口元が笑みに歪むのが押さえられない。長く伸びた髪の下から覗く瞳には希望と欲望が溢れていた。  萎れた花が水を得たように生き生きと頭を巡らせ、正気を無くした眼差しがうろうろと彷徨う。 「あの方は悪魔の中の悪魔。現魔王に続く勢家どもと同様に私を許しません。引きずり落とさなければ。全部を、必ず……あぁ、難しい!」  彼女の口元に浮かぶのは、歪みきった笑み。  難解な課題を前に、本性をさらけ出した悪魔は震えながら続ける。 「ですが必ず捧げてみます。あぁ、神様!!」  涙を流しながら歓喜する。  いつも自分を見てくださる神が居るならば、彼女は何だってできるのだ。 ★★★  あの悪魔はなんだ。  ハルは冷静に目を細め現状を把握しようと務めていた。その隙を狙うかのような一線を、身をひねって避けながら。  魔王を殺そうとしているのか。  完全に注意をそらさないよう意識しながら向き直る。  死霊に混じるように正気を失った死に損ないが咆哮を上げる。空気が震えびりびりとした振動に毛が膨らむ。  辺りは未だ暗いままだがゆっくりと暖かくなり始めていた。  夜明けの気配に目を細めた。  カリオンは誰かと一緒に生きる自信が無いのだと言った。その通りだと思う。  昔、生まれ変わったばかりの頃は、誰かと過ごすことを希望していたときもあった。  希望がすり切れ、残骸さえも消え去った今、踏み出そうと背中を押され、少しだけその気になっていても、どこかで諦めの気持ちがまた沸いて、囁いている。  人は簡単に変わることはできない。いくら口に出したとしてもどこかで無理だと思うものだ。信じ切れずに迷いながら、それでも諦めないことが大切なのだろうか。  ハルはエディヴァルに転生してからあった様々な出逢いを思い出していた。  どんなに願ってもどうしようもない事もあった。  今だって。 「おとうさま、ここで全部終わりにするわ」  死兵の合間をくぐり抜け、邪魔な物は切り殺す。死兵達の黒い血がハルの全てを染めていく。  死角から繰り出された大降りの一撃を屈むように避ければ切っ先が地面をえぐった。抜く瞬間よりも早くその腕に飛び乗り硬い骨の感触をつかむ。踏み抜けば、いやな音が体に響く。  避けるのすら怪しかったあの時と今は違う。  痛みを感じていないようなしぐさで、ハエを叩くように繰り出された逆の手を叩き落す。痺れを伴うがそのままに、ハルは跳躍した。  安らかに眠らせてやりたい。例え一言だって話したことがなくても、ロゼがハルの誕生を歓喜したそのときから、両親の愛を疑ったことなどない。致命傷を負った彼女の後を、誰も追って来なかった事実が全てなのだ。  父親はロゼを愛していた。きっとハルも同じように思っていたに違いない。  だからこそ。 「終わりよ」  ふるった鉄剣の先が破れた防護服を避け、確かにその首筋、頸動脈を裂く――刹那。  くにゃりと曲がった鉄剣が生き物のように形を変え、跳ね返った。  鉄剣は形を変え、細い鎖となってハルを拘束する。 「なんでっ!」  今なら殺せた。  我知らず叫ぶ。 「どうして邪魔をするの――アシミ!」  その眼前には、黒く煤けた尻尾がぽとり。  全ての神力を使い果たし落ちていた。 *  咄嗟にカリオンは走り出していた。  愕然とするハルを見て死兵をちぎるようにねじ伏せ跳躍する。レヴァナントの腕が彼女の脳天をかち割るより早く体当たりで吹き飛ばす。 「ハルっ!」  鎖は一秒ごとに面積を増やし拘束を増していく。まるで生きた蛇だ。怒りに頭が煮えてくる。  ハルを攫い死者の旅路に招き、最後には手を離したはずの存在が、思い出したかのように邪魔をしている。  許してはいけない蛮行だった。  擬態を解けば一瞬だけ拘束が追いつけず、できた隙間から身を滑らせたハルを、鎖は追いだした。と同時に瓦礫からレヴァナントが起き上がり、雄叫びを上げる。  盛り上がった筋肉に、発光する瞳。  理性の無い完全な怪物だ。  躍りかかったカリオンの背後で鎖を噛み千切るハル。しかし砕けた端から再構築が始まり、執着に追ってくる。その速さはレヴァナントに勝り、二人を分断するかのように魔王とその兄が飛び出してきた。 「ああくそっ! 何だってこんな!」  太い茨のような爪が地面ごとえぐりながら、下から上に振り上げられる。上体を後ろに倒すもののかすった服が真っ二つに裂けた。逆の手が真横から襲いかかり、剣で受けるもその半分が削れて折れる。反動で体が真横に飛ぶ。瓦礫に埋まった衝撃に無理矢理肺から息が出て喉が痛む――と同時に折れた剣を投げ捨てた。身をひねるだけで避けたレヴァナントの手を逃れるように横っ飛び。カリオンの頬に石の破片が刺さり、うっすらと血が滲んだ。  早い。  避けきるのがやっとか。いや、それもぎりぎりできていない。  転がるように避けた場所を吹き飛ばすように、巨大な石が投擲される。二撃、三撃と続き端に追い詰められた。  目まぐるしく頭が回転している。  視界の端で目を見開くハルが居る。 ――神は奇跡を起こさない。起こすのはいつだって、生ある誰かだ。  言葉が脳裏に蘇る。 ――忘れるな。  耳の奥で言葉が木霊す。  ハルの父親。  アシミが殺すのを邪魔した死に損ない・・・・・の生き損ない。  レヴァナント。  カリオンは咄嗟に息を吸い、叫んだ。 「お嬢さんを俺にください!」  ぴたり、と大きな手の平がカリオンの頭を潰す直前で硬直した瞬間。 「う゛ぁ?」  渾身の力を込めて振り上げた拳が顎を捉え脳を揺らす。突き上げられるまま数メートル飛び上がり、レヴァナントはそのまま落ちた。  ゆっくり近づきながら、けれど混乱しつつ膝をつく。  するとハルを追い回していた鎖が方向を変え、カリオンに巻き付き先端をその胸に沈める。 「カリオンっ!」 「大丈夫だ、痛くない……」  鎖はまさぐるように回転し、光の欠片を抜き出すと、纏め上げてレヴァナントの胸に沈み込む。  ロゼから受け取った光りの欠片だ。  鎖がすべて消えると体の中心から膨れ上がるようにして、光りが溢れる。目を開けていられない光量に咄嗟に顔を背ければ、光りは一瞬で消えた。  何が起こったのか。警戒したままじりりと詰め寄った刹那、  どくん。  と、音が聞こえた。 「う……、ここ、は?」  レヴァナントの擬態が解け、防護服が剥がれ落ちた。銀の毛並みを振るわせながら、その獣はぼんやりした目を瞬かせ、周囲を見回す。 「……あぁ、気を失っていたのか? はやく行かなければ」 「まさか正気に戻った……?」 「嘘っ」  呆然と呟けばすい、と視線が寄越される。  焦点を結んだ目がしっかりと二人を見た。 「これは驚いた。生き残りは私達で最後と思っていたが、仲間がいたとは……君達、私の女王を知らないか。レイディミラーの洞に向かったんだ。不甲斐ないばかりに怪我を負わせてしまった。道中で倒れているかもしれない」  強く踏みしめた四肢は疲れに震え、それでも立ち上がった姿は大きい。 「なんだ? 体が、力が入らない……」  ハルは混乱した。耳の奥で心臓の音が聞こえそうなほど、緊張しながら踏み出す。 「大丈夫よ。ロゼはちゃんとレイディミラーの洞にたどり着いたわ。そこで子供を産んだの。女の子よ、名前は――」 「――ハル。私達の可愛いお姫様」  驚愕に見開いた視線に気付かず、彼はゆっくりと倒れた。 「そうか、無事に。よかった……よか、た……」  彼は、眠るように目を閉じる。  ハルは震えながら手をのばし、そっと瞼を押す。 「おとうさま、死んじゃったの……?」 「何だ?」  ビクッとしたハルは、 「すまん、疲れた。少し眠る……」  うん。と小さく頷いた。  再び瞼が閉じるが、胸はゆっくりと上下に動いていた。額を押しつけて鼓動を確かめれば涙が零れた。 「カリオン、何をしたの」 「……あの道の終わりでロゼが教えてくれたんだ。何かあったら、そう言えって」  あ、でも口から出任せじゃなくて、ともごもご言ってたのは耳に入らない。  言葉が嗚咽にふさがってそれ以上声が出なかった。  と、 「死霊共、あいつを、レヴァナントを捕まえろ! 正気に、完全なる復活ッス!」  声の方向を見ると、灰色のお下げ髪の悪魔が杖を振りかざしていた。はびこっていた死霊達が一斉にこちらを向く。 「お前達、何をした! 割れた魂の穴がふさがってるッス。どうやってもそれだけは治せなかったのに!」 「ランダぁ、やめとけって」 「邪魔するなッス!」  掴んできた手を払い、ランダはその下から這い出ようと身をひねるが、ディアボラは瀕死とは思えない怪力でお下げ髪を引っ張った。 「なんで!? あいつを調べれば完全なる死者蘇生も夢じゃないんスよ。神人だって蘇らせる事ができるッス!」  ディアボラは仰向けになりながら喉の奥で笑う。 「蘇らないってぇの」 「あいつは蘇ったッス! レヴァナントにする方法もあいつを調べれば!」 「わかんないのかよ……レヴァナントにならなかった時点で終わってるんだよ、ぅげっ」 「煩い!」  傷をえぐるように降ろされた杖に血を吐きながら、それでもディアボラは離さない。もう一度殴りつけようとした杖を逆の手で握りしめれば、めきめきと悲鳴をあげ砕けた。  死体が糸の切れた人形のように、一瞬で屍に戻る。 「だから、もう無理なんだって」 「嘘ッス!」 「ランダ、もうわかってんだろぉ?」 「嘘だ嘘だ嘘だ!」 「お前の兄ちゃんはさぁ」 「黙れ!」 「死んでも生きたいって思えるほど」 「黙れぇえええ!!」 「お前のこと、好きじゃなかったんだよ」  「いいなぁ神獣は」とディアボラは泣き伏すランダの頭を乱暴に撫でながら、 「どうして、そこまで思えるんだ」  力なく笑った。