多くの困難が

 尻尾を振りながらカリオンは周囲を見回す。羽がちりちりとする。こういうときは、大抵良くない事が起こっている。  案内をしていたアイリーンは、二歩前で立ち止まり、振り返る。 「どうなさいましたの?」 「争う気配がする」 「はぁ、そうですの? よく神木を間近で見ようとして入ってくる者がいますが、もしかしたらその音かもしれませんわね」 「違う、神力が動いている」  体がざわつく。  踏み出したカリオンの腕を、背後の護衛騎士が掴む。 「様子を見てきます。お二方はいったん城にお戻りを」 「ジハール……。彼はどこに? この先から匂いがする。……ハルのもだ」 「彼なら今、休憩中です」  カリオンはふと気付いた。 「空が暗い」  見上げれば空にぽつり。  シミが滲む。  カリオンは走り出した。 ★★★  耐えられないほどの憎悪を抱く自らを、枯れぬようにと強制的に眠らせていた神術が解け、彼らは意識を取り戻す。  複雑に絡み合った糸が水に流されほぐれ跡形もなく消え去るように術も消え、縛るものは何もない。 『約束の時がきた』 『ここまで長かったね』 『でも、あっという間だった』 『アタシはしばらく居るよ。こいつら心配だし』 『そう?』 『俺も少し残ります。ファズはどうします?』 『しばらくは居ないと駄目だろうね。彼女達にも言わないとだし』 『では、我らは先に神の御許へ行くとするか』 『待ってるぞー』 『それじゃぁ、最後の約束を始めよう』 『――おう。みんなありがとな。ここまで待たせて悪かった』 『いいってラルラ、さようなら』  その言葉と共に西の神木が三本、滅んだ。 『また会いましょう』  そう言って北の神木が四本、炭化して、 『元気でね』  と、中央大陸の中心部から円を描くようにあった、最も遠い七本が消え去った。  それは風が吹いて花弁が散るように鮮やかで儚く―― 『この世に生きる者達よ。これより先は地獄の釜。煮ても焼いても食えぬそなたらに、似合いの世を差し上げる』 『どうぞご賞味あれ』 『我らの願い』 『哀しみと』 『恨み辛みを飲み干して』 『その味を噛みしめながら』 『死んで逝け』  お前たちに災いがあらんことを。 ★★★  散っていった神木の怨嗟の声が響いた時、世界を覆っている何かが薄れた。  分厚い氷が薄く解けたようになり、異変に気づいた者達は立ち止まって周囲を見回す。  空を割り、めくるようにして現れたそれを指さして、誰かが叫ぶ。 「悪魔がきた!」  亀裂は瞼を開けるがごとくゆっくりと広がり、ぼとぼとと雨のように降ってくる何か。  黒い雨は川のように流れ、やがて大きな水たまりを作った。 「よい眺めじゃ」  シュマの片腕から飛び降りたシティパティはスカートの裾を払い、宙に立つと大きく息を吸う。魔界の腐りきった空気を長く嗅いでいたせいか匂いがわからない。  そのうち鼻もまともになるだろうと唇を裂けるように釣り上げ、大鎌を振りかざす。 「糧は奪い命は切り裂け。尊厳をひねり潰しエディヴァルの全てを手中に収めよ! 奪ったものは全てくれてやろう。さぁ再び繁栄の時が来た!!」  振り下ろされた大鎌の残像を追うように、かつて生き物だった物が次々と現れる。黒いもやから骸骨が手足を伸ばす。背中には蝙蝠の羽。めいめい斧や鎌を手に持つ、死者の軍団。 「全軍、進撃じゃ」  愚かなる者達は皆殺し。 ★★★  怨嗟の声が消えた。  はっとしたハルは慌てて洞に顔を近づける。 「ねえ! 誰か居ないの!」 「ハル!?」  近づいてきたカリオンは慌てて手を伸ばした。しかし、結界に阻まれてしまう。 「どうしてここにいるんだ?」 「出られなくなっちゃったのよ」  ぎょっとしたようにアイリーンが目を見張る。 「ちょ、ちょっとどう言う事! 猫が喋ってるじゃない」 「猫じゃないわよ」 「……その声、まさかアンタ?」 「言っておくけど悪魔じゃないわ。ねぇ、この音は何?」  顔を顰めた彼女は不機嫌そうだ。 「突然空が割れたのよ。あれ、まさか悪魔? まさかアンタが呼び寄せたんじゃないでしょうねっ!」 「馬鹿なことを言う前に逃げた方がいいんじゃないの? 結界が弱まってる。さっきの言葉、聞こえたでしょう? 神木が一斉に滅んだわ……」 「なんですって!?」 「カリオン、モリトとダグラスを探して、三人で国を出て」 「ハルはどうするんだ。君を置いていけない」 「わたしはメディラと話してみる。このままじゃ危ないもの……それに一人でも大丈夫なの知っているでしょう? 皆が大切なものをたくさんくれたから」 「だめだ」  だん、と幹を殴りつけ、カリオンは言う。 「メディラ! ハルを洞から出してくれ!」 「カリオン!?」 「メディラ、聞こえてるんだろう! この子を洞から出せ! メディラ!!」  と、その時。  突風が大量の葉を運んできた。 「やめろ」  ラルラはカリオンの腕を掴み、ひねり上げると洞の中に居るハルを見て、表情を緩めた。 「無事に青年期に入ったんだな。ちょっと小さいな。でも、大人になったらきっと、もっと大きくなる」 「ラルラ、どう言う事なの? 魔界が滅びるまであと百年あるんじゃなかったの? どうして悪魔が大量にやってくるの! どうして皆、示し合わせたように滅びたの……」 「それが約束だった。俺達は魔王と繋ぎをとり時を待っていた。地上に生きる短命種を根絶やしにするときを。これは悪魔の異界侵略計画の最終章。……だがもし、短命種が変わるなら……メディラがいいと言うなら約束はなかったことにするつもりだった。悪魔は約束を守らないだろうしな」  そんな事は始めからわかっていたことだ。  ラルラの腕を振り払い、カリオンは睨みつける。 「あんたは歌祭で一番を取れといいながら、祭が開かれないのを知っていた? できないことをやれと言って、俺達をここに引き寄せたのか?」 「俺はメディラに合う方法を教えただけだ。お前達が歌えばメディラは必ず現れただろう。正気でなくとも獣とモリトはわかるはずだ。何より、メディラは歌に反応する。お前達をここに招くつもりはなかったが、そうなるだろうとは思っていた。――お前達にこの国の終わりを見て欲しかったのかもしれないな。ここはどんな種でも仲良く暮らせるようにと願った理想郷。夢の残骸の国なんだ」  悪魔も神木も短命種も獣も皆が共存できるようにと願って作られた愚かな産物。その崩壊を見てほしかった。  手を取り合う困難さと、努力の儚さを。  ラルラはそっと幹に両手をあてた。  手の平が緑色に光り、幹全体に広がっていく。  するりと現れた精神体は虚ろな表情で降り立つ。操られたようにラルラに近づき、彼は再び手の平をメディラの額に当て言った。 『約束の時が来た』  びくりと震えたメディラの瞳が焦点を結び、根元の紋章が光り始める。  メディラの額に何かが浮いた。円の中に六角形の鎖の紋章。鎖はゆっくりと解け、メディラの眦から涙があふれ出す。 『そうだった』  幹が、枝が、 『ミレは帰ってこない』  黒く染まっていく。 ★★★ 「エイファート、大丈夫か」  煤けた匂いは傷口を焼いて塞いだからだ。  ディアボラは己の従者を壁にもたれさせて、頬に滲んだ血をぬぐってやった。エイファートは弱々しく頷く。 「ディアボラ様、申し訳ありません。屋敷に突如死霊の大群が現れ、包囲されてしまいました……一族の者は懸命に戦いましたが、研究施設は全て破壊されてしまい、皆、ちりぢりに」 「いい。また創り直す。……だが、困ったな。ランダとだけは仲違いしたくなかった」 「何を言ってるんスか、裏切り者のくせに! よりにもよって陛下の宿敵と繋がってるなんて!」  暗い夜を明るく照らすように炎と雷撃が降り注ぐ。  民家は燃え電灯は壊れ悲鳴と泣き叫ぶ足音が耳に響く。  ディアボラは立ち上がった。  背後にいた殿下は淡々と襲い来る悪魔を切り殺している。手にはずっしりと重そうな石のナイフ。銅像から奪い取った切れ味もさしてよくない代物だ。 「ここも落ちます。殿下、お早く」 「いい。残る……どの道もう、逃げ場はない」  魔王が降臨した。  かつてないほど大きな裂け目から可憐な姿で舞い踊る妹の姿は、記憶と寸分違わず可愛らしい。それが憎く、恐れと焦燥が胸を灼く。 「最終戦はまだ先の事だと思ってたが、シティパティは計画を変更させたのか? それとも最初からばれてて泳がされていた? アァ、きっとそうだ。殿下、じきに兄妹対戦が始まりますね」 「気が重い」  ランダはディアボラを睨みつけている。足下の炎がその表情を浮き上がらせていて、ディアボラは小さく苦笑した。 「何がおかしいんスか!」 「お前はずーっと私を見張ってたのか?」 「それは……シュマ様が」 「じゃぁ、アエーが裏切り者って事もシティパティは知ってたわけだ。アァ、焼きが回ったナァ」 「どうしてパティ様を裏切ったッスか! 地位も名誉もあったくせに!」 「お前はどうだ? そんなもの欲しくないだろ」 「っでも!」 「望みは魔王の元では叶わない。シティパティは魔界の再生より更なる混沌と戦争を望んでいる。アァ……あれほど悪魔らしい悪魔、他にいない。お前の兄の復活だって魔王は手伝ってくれないだろう?」  じり、と死霊の包囲が狭まってくる。 「エディヴァルが手に入れば兄ちゃんはきっと喜んでくれるッス!」 「お前はお兄さんっ子だからナァ。でもさぁ、お前の兄ちゃんはお前に幸せになってほしいからエディヴァルがほしかったんだよ」 「うるさい! 行け、レヴァナント。ディアボラとその一味を殺せ!!」  残念だ、と呟いて懐から取り出した果物ナイフを指先でなぞる。  髪の下に隠れがちな目の虹彩が瞬いた。悪魔文字が流れだし、剣はするりと長くなる。  黒服のレヴァナントがのっそりと現れる。  小首をかしげて頬を掻いていた。 「うーん。わからない、わからないなぁ。どれがどれだか、わからないなぁ」  刹那。姿がぶれるように消え、一瞬で眼前に迫っている。レヴァナントは大きな体を縮めるようにして顔を覗き込みながら腕を振り上げ、 「てーる。てーるはどこ? 小さくてちいさい、てーるじゃないねぇ」  黒い手袋に覆われた指先が避けたはずの頬を切り裂く。ハット帽が飛び、ディアボラは喉の奥で笑う。 「化け物め」  弄ぶような一撃にディアボラは吹き飛ばされた。