自分も変わるのだろうかと

 美しいものは美しい。  それを助けると考えたとき、ほんの少しだけハルの心は躍った。相手は短命種だ。それはわかっている。わかっているが、自分が他愛ない何かから素晴らしい何かに昇格したようにさえ思えるのだ。不思議な事に。  生まれるとき、ハルは確かに賢者になった。なったつもりだった。  しかし現実は厳しく受け入れがたい壁となり、結局賢者にもなれず、悟りを開くこともできず、自分のあり方を定められない。時たま見つける美しい短命種が眩しいのはそのせいかも知れない。  自分がなぜ、ここにいるのか。これからどうするか、どうしたいのか。それはわからない未来を夢想するようにハルの中に疑問として蓄積していく。  レイディミラーはモリトを連れて旅に出るように言った。モリトの根付く場所を探しに行くよう言ったのに、真っ先に訪れるべきは短命種の住み所と言う。  レイディミラーは理由を言わなかった。彼女は多くを語らないことで語るのだ――学びなさいと。  石や煉瓦で出来た街並みから、逃げ惑う人の波が途切れた。前方に影の山が現れる。山にはぽつぽつと赤い光が瞬いていて、口に獣人や人間をくわえたり囓ったりしていた。ハルが炎のようにゆらゆらとステップを刻むと、気付いた悪魔達はゆっくりと鎌首をもたげ獲物を飲み込んだ。 「逃げろ!」  誰かの声が言った。悪魔達は一斉に目線をそらした。好機だった。  ふくらはぎに力を込めれば筋肉が盛り上がる。突き出せば、足は豹が獲物に食らいつくがごとく疾走する。鉄剣を振り上げた。悪魔の首が三つ飛ぶ。何もわかっていない六つの目がハルを見つめることもなく高く、高く舞い上がった。  血が噴き出す前に胴体を蹴って暗がりに潜り込むと、地面にこすれるほど低く上体を倒し駆け出す。  たん、と一歩踏むごとに地面がえぐれた。  残りの悪魔は首の飛んだ同類を見ながら絶命した。もう三つ首が宙を舞って、最初の三つが地面に落ちた音が後方に響く。 「大きな声は出しちゃダメよ」  警告をした人間は腰を抜かさんばかりに驚いていたが、すぐに正気に返った。 「アンタは、いったい……」 「ここはもうダメね。早く避難して」 「あ、ああ。だがアンタは?」 「狩りに行くの。わたしの事は気にしなくていい」  男は言葉を飲み込んで、変わりに「気をつけろ」と告げると走り出した。  悲鳴は収まるところを知らず、警笛は止まっていた。未だ火事は起こっていないが、時間の問題だろう。闇を引き連れて悪魔の行軍がやってくる。空が紫色に染まり、濃くなり、黒く塗りつぶされ、辺りは夜のように変化していた。 「久しぶりね、こういう空は……」  落ちた松明の火が踏みつぶされると、ハルは飛び出して悪魔の首を飛ばした。  瞳孔が縦に変化し、虹彩が虹色に瞬いた。ほんの数瞬、悪魔達が怯む。  ハルは踊り出す。  太陽の光がさえぎられた世界は、まさに異界だった。 「どうして!!」  焦燥は苛立ちに変わる。  ぱかぱか叩かれたカルフ銀行マン――いや、ただのカルフは「いたたたた」暴れる子供を腕の中に閉じ込めた。 「ハルの所に行く。離してよおじさん!」 「お、おじっ! ……い、いや、ダメだ。君のことを預かったんだから。な、泣くなよ。私だって本当はいやなんだ」 「じゃあどうして離してくれないの!」 「目を離したら何処行くかわかったもんじゃない。モリト君みたいに小さい子は待っていなくちゃダメだ」  おじさんに格下げされたカルフは、ぶっすりふくれっ面のモリトを諫めるように背中を叩いた。  領主は門を開け放ち、逃げ惑う住民を全てしまい込もうとあちこちに声を張りあげている。雪崩のような人の波の向こうに、黒い影が広がっていた。  カルフは家族が気になった。今すぐにでも走って行きたい。しないのは、彼の体を引き留める不思議な気持ちのせいだった。  モリトを守らなければならないと言う漠然とした思いが、髪の毛を引っ張られても手を外さないくらい重要なことに思える。 「ハルは、ハルは一人にしちゃいけないんだよ」 「モリト君が行ったって足手まといだ」 「ボクだって戦える」 「ダメだ。ハルさんはモリト君を守りに行ったんだ」 「違うんだ。ボクのせいだよ」  涙が盛り上がった目を見て、カルフは歯がみした。手を離せば走って行ってしまうだろう少年に、自分までも足止めを喰らっている。 「ボクがお願いしたからなんだ。だから絶対にハルの所に行く」 「え、あ、ちょっと、わぁ!?」  カルフの体がゆっくり持ち上がり、ドアまでずんずん進んでいく。  癇癪を起こした少年はぐずぐず泣きながらドアを蹴破った。  騒ぎを聞きつけた使用人達が固まって、すぐに取り押さえられたが。  オンドロード領は領地の半分を奪われた。その多くは深い森である。領民がいた小さな村や町を、あわせて三つ潰され、戦線近くの畑には恐ろしくて近づけない。  こちらから打って出るときもあれば、悪魔から仕掛けてくるときもある。境界線はあいまいになり、付近の森は焼けた。  その焼けた森の跡地で何度目かの戦争が起こる。  オンドロード側の戦える者は全て武器を持って立ち上がっていた。  逃げ惑う者から背中を切られ死んでいき、残っているのは猛者ばかり。だが相手の数に対して、味方はずいぶん少ない。援護も来ないだろう。国はあちこち出現する悪魔にこれ以上、土地を取られないようにするので手一杯だからだ。  騎士もハンターもエクソシストさえ入り乱れて前線を維持しているが、いつまで持つかわからない。 「おーいラセット! そろそろ押さえきれない!!」 「わぁってるって! でもどうしようもねぇじゃねぇか!」  切り結んだ悪魔は腕力が強い。頭が猪で胴体は猿。尻尾は爬虫類が混ざってる。騎士の鎧をはぎ取って纏っているせいか、急所が軒並み隠れてやりにくい。 「まったく、戦場で死ぬのも考え物だな、騎士様はよ! 迷惑このうえねぇぞっと!?」 「それは失礼したな! だが、貴様らの武器だって使われているだろう? お互い様だ!」  鍔迫り合いでラセットが負けた瞬間、油断した悪魔の横合いから飛び出た刃先が鎧の隙間を縫って食い込んだ。胴の半分が切り飛ばされ、とどめとばかりに投擲された岩が顔面に食い込む。 「助かった、恩に着るぜ!」 「ラセット! ラセットォ!! また何匹か逃げられた!!」  「わぁったよ!」と石を投げた姿勢のまま返事をして振り返ると、猿の悪魔と切り結び始めた騎士ににやりと笑った。 「後で礼をしたい、あんた名前は?」  遠くで仲間が呼ぶ声を無視して聞く。 「サリバンだ。そろそろ行ってやれ!」 「伏せてください!」  サリバンが鋭い声に反射的にかがみ込むと、頭上で炸裂音が響く。巨鳥の悪魔が凄まじい勢いで奇声を上げ、もんどり打って落ちた。 「よそ見してると、頭が食われますよ! ――ララツラ!」  エクソシストが手を振れば、手の平に刻まれた文様が光り出す。氷の杭が巨鳥の羽に突き刺さった。 「わりぃ!」 「すまん!」  エクソシストは素早く視線をそらし、魔術を紡いでいく。 「街に向かった悪魔はどれくらいです!」 「俺が見たのは四体だ」 「おいおい、俺は七体は見たぞ!」 「誰か向かわせてください! ――ララツラ!」  エクソシストは舌打ちし悪魔の額に氷を刺す。「無理言うな」「後ろにいる防衛ラインの奴らに頼め!」などとハンター達が口をそろえて文句をたれる。前線も維持するだけで手一杯。彼らの言い分もわかる。わかるが心情的に納得しがたい。 「てか、エクソシストって魔術使いだったか? 聖書を諳じて悪魔退治するんじゃないのか?」 「それは神官が迷える者に読み聞かせているだけで、エクソシストと違います! それと、ヘリガバーム教団はそんな事しません! 別です、僕とは別の教会です!!」 「お、おお……悪かったよ。そんな興奮すんなよ……」 「それと! ヘリガバーム教団のエクソシストは基本的に魔術を使い戦います! 戦うんですよ! 魔術の素養無くても棍棒振り回したりする奴いるじゃないですか! 一緒にしないでくださいよ付与魔術が切れるので三十秒稼いでください!」 「了解した! ……ラセット、その話を振ると興奮し出すから止めてくれ」 「わ、悪かったって言ってるじゃねぇか……」  サリバンは前に出て、エクソシストは後ろに回る。  ――と、地を揺らす足音に周囲の者達は顔を上げた。  舌打ち混じりに悪魔を殴りつけて殺したラセットの仲間も「マジかよ……」顔を覆って天を仰いだ。  暗がりを埋め尽くす巨体が、かぎ爪の着いた足でゆっくり向かってくる。伸び上がった首に嘴をつけ、体を覆う鱗はわずかな光を反射し輝いた。鞭のような尻尾が揺れるたびに地面を削り、背中から巨大なコウモリの羽を生やしている。  それが、木々をなぎ倒しながらまっすぐ進んでくる。 「陸の怪物ベヒモスだ……」  かつて現れたときには地形が変わったとさえ言われる化け物。そして三日でオンドロード領の半分を奪い取った悪魔の使い。  全長十メートルを超えたベヒモスは空気を振動させるほどの咆哮を上げた。  恐怖が伝達する。  誰かが叫び声を上げようとした刹那、 「隊列を組め! 騎士はベヒモス前に、ハンターは周囲の悪魔を! エクソシストは援護を頼む!! 街へ一歩も近づけるな!! ――誰か一人伝達に迎え!」  サリバンが鋭い声で命令すると、すぐさま数人が悪魔を片付け隊列を組んだ。ここは戦場だが軍人ばかりではない。指揮する人間は早々に首を取られた。戦線を維持できているのは、かろうじて頭を使う奴らが力を持っていたからに過ぎない。  一人が頷き、踵を返した。この状況を伝え、籠城の準備を進めさせるために。 「困ったなぁ、俺が混血じゃなくて純血種か、先祖返りなら良かったんだが」  仮の将軍として先頭に立ったサリバンはぼやいた。  灰色の瞳にキツネの耳を持った亜人の彼は、人に限りなく近い容姿をしているが、先祖には原種の血が混じっている。  悪魔がこのように徒党を組んで大地を侵略した例は何度もあった。どれもが未然に防がれ悪魔は消え去り、戦の勇者達は讃えられた。  どれもが原種と呼ばれる種族であり、彼らは現在の短命種が足下にも及ばないほど強かったと言われている。  だが、過去の話である。悪魔を滅ぼせるほどの力を持った原種も、真っ先に戦って死んだ。今ではよくて半分の血を引いている者がいるだけで、純血種は消えている。  最も早く消えたのは妖精族と言われる魔術に秀でた者達だ。彼らは気まぐれで飽きやすく、気づけば一匹もいなくなっていたのだという。  次は竜族だ。爬虫類系の彼らは空も飛べたが悪魔と勘違いされて討伐対象にされることもしばしばあり、ひっそりと無知な者達の数の暴力で滅んだ。悪魔が手を回して指導したとも言われているが、真相はわからない。  他にもいるが、どれも似たような経緯をたどり、混血児達が残るのみとなっている。 「さてお前ら、どうやら俺達はここで死ぬみたいだが、最後にあいつらだけは道連れだ。わかるだろう?」  後輩も先輩も、他の隊にいたメンバーでさえ今は同じ部隊だ。死に場所も、死ぬ瞬間さえ一緒かもしれない。  背後にエクソシスト達が構え、詠唱が始まる。魔術の光は三つ。身体強化と、治癒。そして風の魔術だ。  それぞれが頷くのを感じながら柄をきつく握り込みサリバンは剣先を前方へ掲げた。 「かかれええええ!!」 「おおぉぉぉおぉぉぉおおおおおおお――!!」  鬨の声が響く。