欲望に身を任せれば

「ちゃんと紐掴んでる?」 「うん!」  首に回した革紐が元気よく揺れている。  王城の庭で本性に戻ったハルはモリトを背中に乗せ、てけてけと歩いていた。大きくなって勝手の変わったハルに乗れるよう、練習をかねて周辺捜査をしている。  王城は広いが、神木を囲うように作られた庭は広く人気はあまりない。  時たま見回りに出くわすが、彼らはモリトとハルを見て顔を緩めて去って行く。調教された動物に乗ってお散歩中だと思っているのだ。中には声をかけてくる者もいるが、きちんとモリトが対応すれば事足りる。 「あら、どうなさったの。こんなところで」 「おばさんだ」  アイリーンは目元をひくつかせた。 「そんな他人行儀にしないで。私の事はアイリーンお姉さんと呼んでちょうだい」 「お姉さん」 「そうよ」  と機嫌良く頷いた彼女の後ろには護衛騎士達がいる。 「ああ、気になる? この間悪魔に襲われてから数を増やされてしまって。私くらいになると王も心配で心配で仕方ないのね」 「ふーん?」 「歌祭りまで時間もないし、練習も大詰めよ。あなたも出るのだったかしら? 歌うのはあの小娘なら私の勝ちは決まりね」 「どうしてハルが歌うと、お姉さんが勝つの?」 「うふふ。王立音楽大学を主席で卒業し、王宮に部屋をもらう歌姫候補は多いのよ。その中でも私は王に一番目をかけていただいてるの! 去年の祭だって、一番はこの私!」 「一番をとったら歌姫になれるんじゃないの?」 「そう言われているわ……でも、歌姫にはもう一つの要素が必要らしいの。何かは知らないけど」 「それって誰に聞いたらわかる? ボク、歌祭りで一番をとりたいんだ。それで、メディラに会いに行く」  ぴくりと動いたハルの耳を弄ぶように、手綱から離したモリトが貪る。ふわふわの毛に目を細めるとアイリーンが興味を示した。白い動物を一緒につれていたのね、と。 「あっ……まぁ、私が死んだ後なら一番を取れるわよ」  触られそうになった瞬間後方に飛び退く。残念そうな表情になった彼女は手を引っ込めた。 「今年じゃないとだめなんだよ」 「なら私と組まない? もちろん、カリオン様も一緒じゃないとだめよ? あの方を私の所に連れてくれば仲間に入れてあげるわ。それで一番をとったらあなたも有名よ」 「有名になりたいわけじゃないし、ボク達が歌う歌は決まってるよ」 「私の方が絶対うまいわよ!」  アイリーンは息を吸うと、歌い始めた。  ほう、と息を飲むような優しげな声音が風に乗って運ばれていく。  ハルは意外に思った。意地悪な彼女からは予想もできない歌声だ。  と―― 『……ミレ』  ぶわりと全身の毛が逆立つ。 「……また、あなたなの」  うんざりした声でアイリーンは言う。凍り付いたように一点を見つめたまま動かない二人に肩をすくめた。 「王城は古いから、幽霊がでるのよ。こいつも私が歌うとふらっとやってきて、もう!」  きょろきょろと辺りを見回していた幽霊の姿が薄くなり、とっさにモリトは叫ぶ。 「メディラっ」  すい、とこちらを向き、幽霊は両手を伸ばす。  モリトの頬をなでると、 『ミレじゃない』  すっと、消えてしまう。 「歌うと頻繁に現れるのだけれど、いつも何をいってるのやら……まぁ、実害は無いからいいんだけど、王も祈祷師くらい呼んでくださったら良いのに。放っておけとしか仰らないのよ」 「お姉さんはいつもさっきの人と合うの?」 「まぁ、私くらいになると幽霊も気になって化けてくるのね。ほほほ!」  高笑いを聞きながら、二人は幽霊の消え去った後をいつまでも眺めていた。 ★★★  一つ、これより結ぶ契約を曲解、拡大解釈、それに類する如何なる行為を禁じる。  更に下に続く文面は簡略化されている。曲解を防ぐためだ。  これから増えていくであろう約束事は後生まで正しく伝え続けられなければならない。 「猊下、新たな文が」 「こちらへ」  教皇の業務は多忙を極めるが、何よりも優先すべき事はわかっている。  長すぎて巻物になってしまった文の紐を解くと滑らかな筆跡が現れる。  ダグラスからの文だ。昨日聞いた内容とあまり変わらないが、こちらの方が詳細に書いてある。  冬ごもりの様子にダルドは自然と頬を緩める。  雪白木の森の神木はレイディミラーという雌の神木で、ハルの母親役。  手紙には生き生きと洞での生活が書かれていた。神話とも言われていた時代に実在した祖先の様子や使用言語、生活様式など……レイディミラーの洞はそれだけで貴重な古文書だ。  ダグラスの几帳面で綺麗な文字を時間をかけて読み切る頃には日が完全に落ちきっている。側仕えが入れた油が切れかけ、炎は弱くなっていた。  疲れた目を労るように瞑り、巻物を持ったままダルドは寝室に戻った。固まった脳みそをほぐすように湯に浸かり、食事を取り――しかし頬のこわばりは解けない。  ダグラスは寝室から続く隠し通路の先へ進む。  歴代の教皇に受け継がれた秘密通路の先へ進めば大きな空間があり、埃臭い。周囲には所狭しと古い文献が並び、貴重な宝も隠されている。  その中を突き進めば、カビの匂いが濃くなる。  石で補強された部屋の床下を叩き壁を調べればかすかに音の違う箇所があり、開けば朽ちかけた本が一冊あった。  慎重に持ち上げ埃をはらい、ダルドはランプの明かりだけを頼りにページをめくる。 ――猊下。創始者が神木の精神体の事を知らなかったとは思えません。  どこかに、ボクの知らない秘密文書の隠し場所はありませんか。  ダルドに心当たりのある場所で書籍を保管されている場所。その中身を全て読み切ったが心当たりが無いとすれば、更に隠されているはずである。  そしてこれまで出てこなかったとなると、自ずと場所は限られた。全てを読み進めるまでに震えた指か、紙が限界だったのか――創始者の日記は崩れた。  ダグラスの言葉は正しかった。  立ち上がったダルドは崩れかけた日記の背表紙に挟み込まれていた石の板を抜き出した。細い金具で削りだしたような文字。息を吹きかけ屑を払いランプの光をうっすら当てれば、目の奥がじんと傷む。それでも瞬きすら忘れ彼は読み進めた。その先に知りたくなかった記述を見つけるにつれ、奥歯を軋むほど噛みしめながら。 「……真実、憎んでおられるのだ」  重大な秘密を今まで黙っていた巫に逆恨みのような感情を抱いてしまう。ファズがかつて教えたが、もみ消されたのだと薄々わかっていても。  どうしてこうなってしまったのか。  教団は巨大になったが私欲にまみれた貴族が横柄に振るまい、戦う事を忘れた者達が守られたいと足を運ぶ。駆け引きに使われ、私情に捕らわれ悪魔を見逃す者は少なくない。  膿は大きくなりすぎた。  リノン国の神木が枯れてから教団になだれ込む者達は津波のように押し寄せている。地方の協会は既にパンクし、少しでも悪魔から逃れようと神木の根元に集まる難民で、他国の国境は巡りの悪くなった血管のようだと言う。  大陸中に火種がくすぶり、今にも発火して燃え上がりそうだ。誘発した悪魔は影でほくそ笑んでいることだろう。  リノン国で革命を起こした数名が神木が枯れると同時に豹変した。人の皮を破りおぞましい本性を現して暴れ回ったという。  全ては短命種が悪い。けれど始めたのは悪魔だ。  誰に罪があるのだと考えて、責任を無意識になすりつけようとした自分に自嘲する。どこに責任があろうとも、悪魔は侵略の手を止めやしない。  誰を責めたとしても現状がよくなることは無いのだ。  瞼を両手で押さえ潰してしまいたい。彼は、たまらず部屋を飛び出した。  寝室を飛び出せば「猊下!」と後方で呼ぶ声に付いてくるなと叱咤して、向かった先は庭。神木の根元へ彼は走った。何十年ぶりに走ったためか、走り方を忘れたようにおぼつかない。裸足の足に傷をつけ、絹の寝間着を小枝ですりながら茂みを抜ける。  満天の星空に手を伸ばすように枝葉を伸ばした神木は、まるで童話の一場面のよう。その根元に両手をつき、持っていた貴重な石文を投げ捨てた。  なんと言っていいのか分からない。頭が真っ白で、額から伝った汗が何度も地面を塗らす。 「ファズザラーラ様。あなたはなぜ我々と約束を結ぼうとするのです。我々は真にあなたの仇。その証は例え何代経とうとも消えはしない!!」  ようやく息を整えたダルドは震えた声で叫ぶ。 「なぜ、我々を滅ぼそうとしないのですか。なぜ、創始者と言葉を交わしたのです! 憎いはずだ、我が子を食われて憎まぬ親などどこにもいまい! 巫を我々に託したのも解せぬ。あの方は二十五本目の神木ではないのですかっ」 「――違う、二十四本目だ。ウルーラは滅びたんだから」  ふわり、と精神体を創り上げたファズは薙いだような視線をダルドに向ける。 「お前はいつも何かあるとここへ来た。創始者と同じだな、あいつもよく私の根元で泣いていた。やれ親が厳しいだのなんだのと。その話を聞くと虫酸が走ったものだ」 「ファズザラーラ様」 「馬鹿で愚かな男さ。私のために教団を作ったと言ったくせに、その教団は私の話をすっかり忘れている。あいつは何がしたかったんだろうな? まぁいい。モリトが何かを知り、原種と呼ばれる奴らの始まりを知ったのか。それでどうする? あの子を食うのか?」  ゆっくりと伸びてきた手がダルドの首を覆っても途方に暮れたように戸惑うしかない。 「そんなことは、致しません……。けして」 「どうだかな……でも、そんな事どうでもいい」  モリトと約束を結んだのは気まぐれでしかない。けれどそこにほんの少しの希望を見いだしたのも確かだ。あの可愛い獣の最期を見届けたいと思っているし、フリュイの未来も案じている。  振り子のように心は不安定に揺れていた。 「獣がどうなるかだけが心残りだった。でも、あの子なら大丈夫。あの子が死ぬとき、私も滅びる。ずっと一緒に生きてきた。だから終わりも一緒」  愛しそうに思い浮かべる姿を見ながら、ダルドはその足下に、朽ちた日記を置く。 「創始者はあなたを慕っていらっしゃった。ヘリガバーム教団を作ったとき、経典にあなた様の言葉を正確に伝えなかったのは守るため。当時、この土地には三つの宗教が混在し、そのどれもが短命種こそが至高であり森林は敵という認識でした。とくに森から現れる白い悪魔は凶事とされていた」 「獣の事だ」 「獣は悪魔によく似ています。擬態することも、美しい外見を持つことも……創始者は白い悪魔を人々の記憶から消さなければならなかった……他宗教を根絶やしに、勝たなければならない。そして獣がしてきたように、神木を守らなければならないと気付きました」 「お前達の未来のために?」 「神木あなたの行く末のために。そして、戦う事を決めました。人々の心を掴むには、悪魔と戦うより他にありませんでした」  願いは叶い、ヘリガバーム教団は混在していた主立った宗教を根絶やしにし、信者を集めて大きくなった。汚い手も当然使った。 「死者の願いは生者によって歪められつつあります。私はそれを元に戻さねばなりません。――ファズザラーラ様。巫は今、エイディ国にいらっしゃいます。枯れていない三本目の神木が御座す場所に」  音楽の都、地上の楽園と言われるエイディ国の神木、メディラ。 「日記には神木をお守りするよう書かれていました。何を賭しても貫かねばならないと。以前は悪魔から神木を守る為だと思っていましたが違うのですね。我々から神木を守るための物だった……そのためにエクソシストを作ったのだ。悪魔は我々だった。長い時間、思い違いをしていたようです」  立ち上がったダルドは裾を払って歩き出した。足の痛みは遠のき、胸には熱い何かが渦巻いて、今にも喉を伝って噴き出しそうになっている。 「必ずお守り致します」 「私はもう、信じることに疲れた」  ファズは精神体をかき消した。  日記に隠された石文にはもう一つ、重大な事が書かれていた。古い、当時の地図にあるロストロという言葉。  彼が庭から建物の中に入ると側仕え達が慌てて駆け寄ってくる。 「リノン国に派遣している全ての教団員を引き上げよ!」 「猊下、一体何を! そのような事をすれば残っているリノンの民達は……!」 「捨て置け。神木を枯らしたのはあれらの選んだ事」  しかし、と言いつのろうとした神官はダルドの表情に恐れ後ずさった。闇夜に紛れるように焚かれる松明に照らされた頬がほの赤く、目だけが鋭利に光っている。何があったのか、まるで別人のよう。 「世界各国へ散っている教団員に帰還命令を! 神官達へ通達しろ、出兵の準備を整えろと。従わない者は全て破門とする! これに貴賤はかかわらぬ。貴族と言えど剥奪だ」 「猊下、一体どこへ兵を出されると言うのですかっ」 「総本山周辺にいる者はすぐに集まれ。エイディ国の近くに居る者達はその足へ国に向かい準備をせよ。それ以外の者達は移転石の使用を許可する!」 「猊下!!」 「反論があるならば我が首を落とせ!! 無論、ただではくれてやらぬ」  怒声に驚愕した神官達は震えだし、駆け出した。騒がしくなりだした周囲を振り切るように自室を目指しながらダルドは重く呟いた。  ここから兵を集めてエイディへ向かうのは強行軍となるだろう。教皇の地位すらも危うくなるような出兵だ。先祖の所行がこの事態を招いたことに、死んだ彼らはどう思うだろう。安寧を求め富を求め、いつまで経っても平和は訪れない。求めれば求めただけの争いが降りかかり、皮肉だと口元を歪めた。  いつだって誰だって願っている。望む物が欲しいと。  どれほど時が経てば折り合いをつけて生きていかねばならないと、気付くのだろうか。  ダルドは呟いた。 「始まりはロストロ」  準備を終えた悪魔が動き出す。 ★★★ 「おーきく動いたッスねぇ」  もしゃもしゃとカビかけのパンをかじりながらランダは双眼鏡を離す。重力に従って落ちたそれをキャッチして、ディアボラは「やだねぇ」と悪態をついた。 「これだから宗教って嫌いなんだよ。めんどうだなぁ……最終決戦とかもうちょっと数減らしてからにしてほしいナァ」 「死霊がぜんっぜん足りないッス」 「よりによってこの時代にあの教皇が立ったってのがナァ……」  総本山の深い森の影から覗き見していた彼らは面倒な事態に肩をすくめた。文句を言ったってなるようにしかならない。ならば迎え撃つ手を考えるべきだ。  教皇が懸念していた真実にたどり着いた今、もう止められはしないだろう。歴史を改竄し丁寧に痕跡を消しても、残りかすは散らばっているものだ。  悪魔側から見ればエクソシストは原種を除けば短命種の中で一番厄介な位置付けになる。ピンキリまであるが、中には果物狩りに行くような気軽さで悪魔を狩る者もいる始末。まぁ、大抵は獣の血が混じっているのだが。 「しかも今の聞いたッスか? モリトが居るって事は誰かが花粉を運んでるって事で……えぇぇ……神獣が今、エイディに居るって事ッスよ。陛下になんて報告すりゃいいんスか! アタシ怖いからいやっすよ!」 「私だってヤダよ。アァなんでいつもうまくいかないかなぁ」 「かーえる? 帰るー?」 「お前はいいよねぇ。いつも気楽そうでェ」  背後のレヴァナントは首をかしげながら荷物の横に座っている。小首をかしげる様は無邪気だが、その指先一つで大岩を粘土のようにちぎってしまう。  双眼鏡をしまい込んだディアボラは、肩をすくめて立ち上がる。更に薄くなった体に、顔は青白い。ランダは少し心配になった。 「ディアボラ様、ちゃんと食べてるッスか? 最近すっごく減りまくってるッス」 「忙しくって忘れるんだよねぇ」 「体によくないッスよ。これ、昨日取れたて新鮮血液ッス」  指し出された陶器の瓶を受け取ったディアボラは「ありがとう」と頭を撫でながら、それもしまい込む。ランダは今すぐ飲んでほしかったのだが、複雑な気持ちで押し黙る。  神人が死んでしまってからディアボラは滅多に血を口にしなくなった。彼の中で何かが変わってしまったのだろうとわかっているが、昔の優しかったディアボラに戻ってほしかった。兄のように優しく笑ってほしい。でも、戦いが終わるまで無理なのだろうともわかっている。  しばらくのんびりとした空気が流れ、二人は総本山を見上げた。葉を伸ばした神木は、彼らも見慣れたものだ。  これから世界中を巻き込んだ戦争が始まるというのに、今はまだ平和な空気が流れている。 「かえろっか」 「はいッス!」  元気よく返事をすれば足下に亀裂が入る。三人は一瞬にして魔界の闇に飲まれた。