望むものがほしいって

 この世で最も栄えている巨大な国。  夜も明かりの消えぬその国は短命種達の希望でもあった。悪魔を知らず、生きていける楽園の地。世界の全てがそこにあると言わしめるエイディ国。  音楽を推進し、世界人口の半分を収納しているとも言われる国家は、どの国よりも安定していた。  小高い丘に建てられた城の一棟に、この国一番の彼女はいた。  彼女は国立音楽大学を主席で卒業後、王宮に招かれ歌ってきた。もちろん苛烈な争いの中、身を削りながら。  大学の主席など毎年のように排出され、歌のうまいライバルは上にも下にも多い。歌えなければ見向きもされなくなるこの国は歪だと内心嘆息した。きらびやかな外見の裏では奇妙な差別がある。 「……姫、歌姫候補アイリーン。準備が整いましたが」  はっと鏡を見る。  薄い羽のような布を何枚も重ねた衣装を身に纏い、ほっそりとした肢体を強調するように柔らかな曲線を描く上掛け。アイリーンが頷けば、頭にかけられていたベールが降ろされた。視界に紗が入る。 「ええ。いいと思うわ。お針子にお礼を言っておいて」  鏡を見て頷けば、着たばかりの衣装を脱がせるために何人もの手が伸びる。  一週間後に迫った祭に歌い手達は人生をかける。  祭用に作らせた特別な衣装は特に念を入れて作るが、どの歌姫も共通して白い衣を身に纏い、何年もかけて磨いた己の業で歌姫の座を狙うのだ。  陰謀が渦巻きライバルの喉を潰すために毒を盛るような時代もあったが、今はない。  王家は首謀者を蛇のように追い詰め、貴族であれば罪は更に重くなった。一族郎党斬首。生まれたばかりの子供さえ命乞いは聞き入れられず首をはねられた。  なぜ王家がここまで歌に執着するかはわからないが、噂では神木に捧げる為だという。これほどまでに文化を発展させたのも、難民を全て受け入れているのも神木のために歌わせる歌姫が必要なのだと。だからこそ、エイディの神木は枯れないのだと。  あながち嘘ではないのだろうとアイリーンも思う。  どこよりも結界は安定し、強く、神木は今日も空を覆うように枝を伸ばしている。枝葉の間からこぼれ落ちる木漏れ日が人々の影を浮き上がらせ、春の陽気に心は浮き足つ。  神木は本当に不思議な植物だ。  少し外の空気を吸いたいと言って、アイリーンは庭へ向かう。国を失い難民として流れ着いた時には、王宮に部屋を与えられるとは夢にも思っていなかった。変わりというように家族と引き離されたが、両親は郊外に家を与えられ、田を耕し生活しているので休みを申請すれば会いに行ける。  この日々が夢のようで時々恐ろしい。 「夢は見続けなくちゃ」  去年、最もその座に近いと言われながらも本物の歌姫に選ばれなかったアイリーン。  プライドを傷付けられ今年こそと言う思いは強い。  荒れる思いを吐き出すように口ずさむ歌は可憐で鈴のよう。掃除をしていた下働きがほぅ、と息をついてひととき聞き入るほどに。  王宮の使用人は耳が肥えている。数多の歌姫候補の中で抜き出ているアイリーンは彼女達の憧れでもあった。 『ミレ』  ふと、音が聞こえた。  歌うのを止め、蹴り飛ばしていた草の葉から視線を上げれば、白いうっすらとした人影が光の下に立っている。 「また、あなたなの」  嘆息してしまうのはうんざりしているから。最初は悲鳴を上げたものだが、日に三度も現れるので慣れてしまった。護衛騎士から王の耳に入ったようだが、手出し無用の詮索無用、と言い含められただけ。好きにさせろと言う事だ。 『ミレ、ミレ……』  しばらく無言でいると幽霊はかき消えた。 「いつも何を言ってるのかしら……原種の無念がこびり付いてるってわけ?」 「アイリーン様、そろそろお時間ですが」  背後で護衛騎士が囁く。 「今戻るわ。用事が終わったら城下にでたいわ。準備をしておいてちょうだい」  ふと、アイリーンは思い出す。国が出来て数十年経った頃、大きな争いがあったという。  山のような死体に太陽が隠れたと言われるほど酷い内乱。その時に多くの建造物が破壊され、当時の記録はあまり残っていない、と必ず授業で習う。  爪痕は見えないが、見えない所で未だに残っているのだろうか。  あの幽霊も。  アイリーンは自室に戻る。  その後を護衛騎士が滑るように続いた。 ★★★  緊急招集がかけられたのは三日前。  ヘリガバーム教団総本山に住まう全ての者が、周辺各国からは代表者や大使達が集結していた。  見下ろす人垣は白い雲のように広がっている。  最後に手が、声が震えないように努力するのは何十年ぶりか覚えていない。今日をうまくこなさなければ明日もだめだろう。それは短命種の未来を失うと言うことだ。目眩がする。  彼らが見つめるのは山の頂上にいる、教皇ダルド。  リノンの神木が枯れた事は、誰をも震え上がらせた。  枯れかけていた状態から数百年もの間留まり、どこかで――少なくとも自分が死ぬまで大丈夫なのでは。誰もがそう思っていた矢先の事だった。 「我々は神木の洞に立ち入ることに成功した」  暗い話題に心を曇らせていた民衆は一つの朗報に心を躍らせた。 「神木の生態がわかれば新しい芽を生むことができるのでは!?」  神木さえあれば、悪魔など恐るるにたらぬ、と。  しかし、 「中からは神語による多くの記述が見つかり、解読が進められている。それを含め、皆に受け入れがたい話をしなければならない」  報告に沸き立った彼らは不安に顔を見合わせる。 「かつてヘリガバーム教団が設立されたとき、創始者は信託を受け経典を綴ったが重大な欠落があったのだ。神木は我々の知る動植物とは異なり、我々の言葉を理解し、心を持ち、文化を持っている一つの”種族”。祈りによって神木の芽が出るなど、まやかしだ」  一瞬にしてざわめきが消え去った。 「よって、教団が掲げてきた経典の内容を改変することを、ここに宣言する。そしてもう一つ。この場で神木との新しい契約を交わすことを発表し、全世界の代表者に向け契約への参加を呼びかける。また、全ての神木のご意志を確かめるため、教団は使節団を編成。現在書状と共に二十三の国へ向かう予定だ。これより半年後、世界会議を発足させることを、ここに宣言する」  動揺と困惑が爆発するように広がった。 「かつて我々の祖は何をしてきたか。信じがたい所業の数々が明るみに出ようとしている。今まで口伝で上がっていたものですら些末なことに思えるほどのものが洞の中には眠っていた。知った今ですら夢であればと願っている。その全ての罪を神木は忘れてはいないのだ。我々が裏切り、唯一無二の隣人を滅ぼしたことも、口先だけの約束事を反故にして焼き払ったことも、全て」  信頼を失った神木と共に歩み続けるために契約を結ぶ。それは結んだだけでは意味がない。この世界に住まう全ての者が理解し実行しなければならない。  失敗すれば話し合う余地なく神木は枯れ果て悪魔は顕現するだろう。 「お、お待ちください。意志を持つならば、お慈悲を!」 「猊下、どうぞ我らの願いを神木へお伝えください!」  暴徒のように殺到した民衆に神殿兵が押し切られそうになる。ダルドが片手をあげ、かろうじて彼らは止まった。 「先ほど我々の知る動植物とは異なると言ったが、神木の繁栄もまた独特である。それは実を結ぶ課程も含まれ、隣人の助けがあってこそのものだった。慈悲は尽きたのだ」  かつての創世記をダルドは語る。  混乱と絶望が渦巻く中、ダルドは厳しい眼差しで民衆を睨み続けた。 ★★★  手紙が嬉しかったのはわかった。  むすっとしながらハルは横になっている。その腹は胴体よりも大きく膨らんでいた。例によってカリオンに詰め込まれた肉でぱんぱんになっている。足よりも先に腹が地面に付く有様。このままでは、本当にトドになってしまう。  ゲップをしながら泳ぐ魚のように、未だに肉が積み上がっている皿の前から逃げるハルを、カリオンは引き止める。 「お残しはだめだぞ」 「まぁ待て、物量的に入らないだろう」  諫めたレイディミラーは腹を指し示す。  しかし納得いかないカリオンはぶつぶつと文句を言いながら、残りを十時のおやつに回すことにしたらしい。それまでに消化が終わってるとは思えないが。 「そんなに焦らずともそれだけ食わせればでかくなる……。そろそろだな」  レイディミラーはハルの前足を掴んで洞の中央に引きずった。よく食べて寝たせいか、腕の骨はすっかりついている。  近くの物を端に寄せたレイディミラーは不思議がる面々を壁際に寄せ、モリトを抱き上げると座り込む。 「おかあさま?」 「よく見ていろ、あれが獣の成長だ」  唐突に。  ハルは内側から自分の体が軋んだことに気付いた。次の瞬間には目を見開いたまま硬直し、声にならない悲鳴が喉の奥から吐き出される。  咄嗟に踏み出したカリオンを制し、レイディミラーは黙ってろと言うように尻尾を掴んだ。毛がぶわりと膨らむ。 「フギャー!!」  そうしている間にも、ハルの体はゴキゴキとうねり、筋肉は休息に分裂し構築され、毛がずるずると伸び体積を増やす。最近まるまるとしていた体は粘土を捏ねたかのように引き延ばされ、腹は縮み滑らかな曲線を描く獣となった。が子供の頃でさえ尖っていた耳は更に大きく、長くなっている。 「ハル?」 「……ニャー」  驚きすぎて硬直していた彼女は、情けなくぺたりと尻餅をついたような格好でカリオンを見上げた。足の先は白からだんだん黒に染まっている。  幼児期から青年期へ休息に進化したハルは体が痛まないとわかっても、ぎこちなく体を動かすしかできない。 「これが獣の成長なのですか? ……あまりにも、唐突で」  ダグラスの言う事も尤もで、通常の生物とは違う成長のしかたである。 「普通ならもう少し段階を追って大きくなるが、一気に来たんだろう。……どれどれ、カリオンよりちょっと小さいが、まぁまぁだ。腹は減ってないか」 「へ、平気よ。でもびっくりしたわ」  声からもちょっとだけ、幼さが抜けていた。  無事に体積を増したハルはレイディミラーから早々に洞から放り出され調子を確かめるように言われた。自らもそのつもりだったので、体を慣らすついでに狩りに出かけることにする。  外に出てみれば空気は澄み、春の兆しがはっきりと現れている。現に冬眠から目覚めた動物達の気配や足跡も発見した。  それらを無視して川へたどり着いたハルは、くわえていた袋を置くと冷たい水に足を付けた。雪解け水で増水した川を埋め尽くすような魚の群れ。藍色の鱗が太陽の光に輝いて眩しい。それらは雪解け鯉と呼ばれる魚で、冬の間は氷漬けになって過ごし、雪解けで川の水が溶けると共に復活する。彼らはそのまま下流へ流れてやがて海に出る。そこで産卵をして再び雪白木の森に戻ってきては冬眠を繰り返す。寿命は三年ほどらしい。 「おいしぃ」  この鯉が春で一番美味しい。  冬眠中は仮死状態になっているためか、まるまると太ったままの鯉は雪白木に住む動物にとって一番のごちそうだ。  箸で摘まむかのように口の先を水面に入れるだけで、勝手にごちそうが入ってくる。  一番美味しい腹の部分を噛んで川縁へ残りを投げ捨て次の得物に食らい付く、という贅沢な食べ方をした後、袋いっぱいに鯉をつめた。食べかけは帰宅途中にぺろりと平らげ、ついでとばかりに襲ってきた兎を返り討ち。すぐに傷みそうな脳みそなどはその場ですすって飲み込んだ。  雪白木の森の雪解けは、ごちそうがやってくる相図。  厳しい冬のご褒美だ。 「ただいま!」  三日後、一行は洞を後にし、エイディ国へ向かうこととなる。