誰もが願っている

「どうしてこんな惨いことを!」  胸中とは裏腹に晴れ渡った空の下で、潰れるような思いで叫ぶ。  腕に抱いた体は鮮血で汚れ、苦しんだことがわかるようにぼろぼろだった。  泣きながら「嘘つきめ」と吐き捨てた。そして信じた自分を怨んで呪う。許すことはできない。何かをわめいている友人だった者の声は遠く、この裏切り者とずっと同じ土地に暮らさなければならないことに、酷く打ちのめされてもいた。  彼女はそんな彼に小さく囁いて、ぴたりと心臓の音を止めた。  心は暗く沈み、零れる涙と共に魂に亀裂が入る。  全部無くなってしまえばいいと言った彼の言葉に、同胞達は静かに賛同した。 ★★★  雪白木の森は未だ雪が深い。  春に近づいているものの、一年を通して吹雪に見舞われているような場所なのだ。  たまに晴れた日に見える雪原はこの世の物とは思えないほど美しく、見慣れた今でさえ感嘆の溜息をついてしまう。  カリオンはレイディミラーに昇って枝を落としている。  一週間ぶりに風が止んだので枝を落とす手伝いを頼まれていた。下ではハルやモリトが雪に埋まっているはずの食料を拾い出し、その横ではダグラスが鍋をかき回している。 「レイディミラー」 「ああ。行ってくればいい」  ふと、耳を動かしたカリオンが声をかけると彼女は頷く。  遠目に影がちらつき、下にいる二人も気付いて顔を向けている。  影は大きな牛のような頭部に熊のような体。もう一匹は巨大で太った兎のよう。ピンとした灰色の耳が小刻みに揺れている。二匹の悪魔は真っ直ぐ、こちらに向かっていた。  飛び降りれば重たそうな雪がふわりと浮き、走り出しだカリオンから撥ね飛ばされる。  と、同時に本性に戻ったハルが追走を始めた。 「俺が行くから洞で待ってろ」 「いやよ。わたしも食べたい」  起きてからぐっと食欲を増した彼女は喉の奥でぐるぐると唸っている。久しぶりの大物に機嫌が良さそうだ。くん、と一度鼻を鳴らすと道を外れ風下に流れる様は、雪に溶けるように滑らかだ。  かわいそうにな、とカリオンは同情する。  悪魔はカリオンの接近に気付き、ちょうど腹を空かせていた彼らは目を光らせた。 「お前ら、ここへ何の用だ? 神木の根元へわざわざ足を運ぶなんて」 「神木さえ無ければ忌々しい結界に阻まれること無く食料にありつける! 今までは枯れるに任せていたが、これからは違う」 「我ら兄弟が神木を切り倒すのじゃ。陛下もお喜びになるだろう。兄貴、神木の前にこれを食うてもよろしいか!」 「良く言う。自分達のことしか考えてないくせに」  風が変わった。  湿った空気の流れが逆になる。突風の相図だ。彼らは気付いていないようだが、それに乗って血の臭いが漂った。 「近くの村を襲ったか」 「どいつもこいつも食いでの無い奴らだったが、腹のたしにはなったのぅ!」  下品に笑うものの、その味に魅せられている。悪魔は消化できる物は何でも食う。できなくても何でも口に入れる。彼らは基本、飢えていた。  吹雪の前に村を襲ったのだろう。一週間もあれば住人達は一人も居なくなっているはずだ。もともと雪白木の森には短命種に適さない。少数の者達が寄り集まって暮らしているだけ。 「お前達、リノンから現れた悪魔だな。おおかた他の悪魔につまはじきにされたんだろう。だからこんな所に来るはめになった」 「ガゥウウ!」  大きな牛頭の悪魔が唐突に、身をひねらせた。血のように真っ赤に染まった双眸が怒りに震えている。大きく振り上げられた腕を難なく受け止め顔面に一撃。皮膚が歪み頬の骨が折れ、中にある歯が砕けた。感触はそれほど固くない。剣を抜くまでもない相手だった。  怯んだ隙に首に手を巻き付ければ、あっけないほど簡単に音を立て折れる。  兎はどうだと見てみれば、既に事切れ痙攣している。首に噛みついていたハルはカリオンを見て不機嫌そうに鼻を鳴らす。 「そっちがよかったのに」 「食べてもいいぞ。ほら」  解体して一番栄養がありそうな内臓を差し出すと、酷く動揺したように目が揺れる。 「い、いらない!」 「ダグラスは食べないだろうし、俺も全部は食べないぞ」  迷うように尻尾が揺れ、気にするように見ている。しかしハルは口を付けることなく、兎の悪魔をぺろりと平らげた。 「もう一匹いないか見てくるわ」 「どうしたんだ? 最近食欲も凄いし……そういえば身長が伸びた?」 「!」 「まさか、成長期!」  慌てすぎたのか、数センチ飛び上がったまま走り出そうとして足をもつれさせたハル。素早く捕まえて抱き上げるとやはり以前より重くなっている。痩せていたのが戻ったのかもと思っていたが。 「そうか! 成長期!」 「むぐ!?」  浮かれたカリオンは慌てる口に内臓を突っ込んだ。  目覚めたハルは、多くの獣の記憶を受け取った。それは彼女の中で整理され、成長期についてのものもあった。  獣の成長期は二回来る。  第一成長期は幼少期から青年期になるためのもので、カリオンはこれを終えている。  第二成長期は大人になるための課程。これを終えると獣は全長2メートルほどになる。これでやっと大人。それから長い時を若いままで過ぎ、ゆっくりと老いて死ぬ。期間は個体差もあるが第一成長期は六~八歳の間に来ると言われ、ハルはその年齢を過ぎても迎えていなかった。  第一成長期になると酷く腹が減り、食べたら食べた分だけ体が大きくなる。逆にこの時期に食べないと小さいままだ。  目を輝かせたカリオンが詰め込むままに牛の悪魔を平らげれば、得物を丸々飲み込んだ蛇のようになり、胃が消化しようとものすごい音を立て始める。 「他にないか探してくるから、腹が落ち着いたら一人で戻れるな? じゃ、行ってくる!」 「も、もぅいらない……げっぷ!」  早く大きくしなければ、と行ってしまったカリオンにハルは叫ぶが聞いていない。  足より腹が出て、重さのせいで雪に体が沈んでいく。両手をばたつかせる姿は、落とし穴にはまった哀れなトドのようだった。  獣が第一成長期を過ぎると長い青年期がやってくる。多くの獣はこの時期につがいを求め、婚姻を結ぶ。  婚姻は多くの同族に祝われ、神木の根元で夫婦は誓いを立てる。  祭のように三日三晩歌い明かした後は夫婦と認められ、新たな群れとして旅に出る。  受け継がれた記憶のページをめくりながらハルはゆっくりと息を吐いた。  あれからカリオンが冬眠中だった動物を、どうやってか探し出した物を拒否し、夜になっていた。  カリオンがしていたことの意味を、今になって正確に理解してしまった気まずさに、今更ながら距離を取っている。  獣の雌は狩りをしない。するのはもっぱら雄で、雌はそれを洞で待ち子供を育てる。そして歌を教えながら神の規律を語り聞かせる。  規律はわかる。だが、ハルには語る相手がいない。永遠にないだろう。  ハルは言いようのない寂しさに襲われながら身を丸くした。  カリオンとモリトは少し離れたところで身を寄せ合って眠っている。そのあどけない顔を見ていると胸がざわめく。 「眠れないのですか」 「……ええ」  顔をあげると、ダグラスが振り向いた。彼は一人、洞の端っこで暖房器具の明かりを頼りに書き物をしている。教皇に宛てた物は巻物のように長くなっていた。 「ダグラスはこの旅が終わったらどうするの?」  ふと、ハルは気になって聞いた。 「結婚しようかと思います。僕が教団に入ったのは神木の歴史を知りたかったのもありますが、結婚相手を探していたからでもありました」  教皇の親戚という間柄、多少なりとも繋がりを近づけたい者達がダグラスを訪ねることはあった。今までそれを受けなかったのは歴史を知るたびに、罪悪感が積み重なったからである。  償いが終われば――終わるとも思えないが、せめて区切りを付けられれば。 「あなたは結婚しないのですか?」 「わたし? きっとできないわ」 「どうしてです? あなたは強く美しい」 「それだけで全てが丸く収まるとでも思ってるの?」  思わず鼻で笑ったハルに、ダグラスは首をかしげる。 「ここにいる皆はあなたのことを大切に思い、幸せを願っています。怖いことはたくさんあるでしょう。しかし、恐れてはいけません」  ゆっくりと目線を上げたハルは薄暗い洞の中で天上を見上げる。そこには長い間、獣達が綴り続けてきた証と知識。彼らが生きていたという証。  尊い歴史の断片。だが語り継ぐ者は絶える。 「ねぇダグラス、自分が伴侶と笑い会うなんて全然想像ができないの。もうすぐわたしの体は全部整って成人するんだと思う。でもカリオンの思いを受け取ることはできないわ」  生まれ変わって濃厚な時を過ごしてきた。裏切られ悪意をぶつけられてきた。でもそうでない者もいた事を思い出した。だからそれでいい。  思えば願望と憎しみに塗られ生きてきた。そのせいで彼らを心配させ悩ませてきたのは申し訳なく思う。ハルは素直に好意を受け取り微笑む。 「彼がかつて過ちを犯しかけたからですか。それとも他種族だからでしょうか」 「わたしが男に襲われて死んだからよ。未遂だったわ。でもね、その事を乗り越えることができない。今の私ならあいつらなんて一噛みで殺せるでしょう。でもそうじゃないわたしが怖いと叫ぶ。もう一人のわたしはあの恐怖を忘れない」 「……それは」 「伴侶を得て子をなし、育む。生物として当たり前のことだけれど、それから外れていけない通りはないわ。子供が欲しいあなたにすれば信じられない事でしょうけど、それでいいの。……それが、いいの」 「いつか、モリトや神木といられなくなる日が来ても? この世は不安定で、情勢はどんどん悪くなっています。神木が全て枯れ果てたなら、あなたは真実一人になってしまいます。その時後悔しても遅いのではないのですか。あなたはまだ若い」 「その後悔も含めて全てわたしが選んだ事よ。悲しくても寂しくなっても覚悟の上。生まれる前から知ってたわよ」 「幸せを願う者達がいても考えは変わりませんか」 「ダグラスは、幸せを願われたらそれに答えなきゃって思う?」 「大切な人の言葉なら叶えたいと思います」 「正常で、正道な考え。でも、それは他人に自分を預けることで、それはしたくないと思ってるの。頑なだとあなたは罵る? 今回の事でこんなにも迷惑をかけたのに……」  ダグラスはしばらく言葉を探しているようだった。 「……尊い方。あなたのことがわかりませんでしたが、今は少し、わかったような気がします。自分を信じるに値しないと思っていらっしゃいますね? 価値がないと思い失望している。何度でも言いましょう。あなたは幸せになってもいいんですよ。やりもせず、諦めなくてもいいのです。ただ、拒まないで」  拒んではいけません、とダグラスはペンを置く。立ち上がり顔を上げていたハルを抱き上げ、そっとモリトとカリオンが眠る場所に降ろした。 「全ての可能性を見ずに撥ね除けてはいけません。優しくするために相手は身を削っている。好意を示すために、勇気を振り絞っています。その努力を他愛ないと言って無下にせず、誠意を持って向かい合ってください。でなければ可哀想だ」 「可哀想?」 「気が進まないならペンとインクをお貸しします。手紙をもらっていますね? それの返事から始めましょう。お二人は相手との距離感がそっくりです。さぁ、もう寝ましょう。眠らないと背が伸びませんからね」  ばさりとかけられた毛布は四人を包み込んだ。  不可解な気分でハルは黙り込む。ダグラスはハルを思っているような事を言うが、それには懸念と怯えが透けて見えた。  翌朝手紙をもらったカリオンは鬱陶しいほど浮かれた。 「嬉しかったの?」  えへへ、とテレテレするカリオンの膝の上でモリトは仰ぎ見る。彼は頬を染めてずっと手紙を持ったまま離さない。料理の時はずっと懐に入れて暇があれば眺める始末。ハルは居心地が悪くて隅っこで知らない振りをしている。  ちょっとだけモリトは羨ましいな、と思った。ハルは心を開こうとしている。いや、自分以外の存在にようやく慣れ始めた。  ゆっくりとだが明るい方へ歩いて行くのがわかる。それが嬉しいが、少しだけ寂しい気もする。 「もうすぐ冬が終わるね。吹雪の間隔が短くなってる」  洞から外を見れば、輝くように光りを反射する雪原の下から森の動植物が目を覚まし始めていた。